テンペスト異世界転移   作:ネネカ大神

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第7話:黄金の姫の狂気と、鮮血帝の胃痛

王国の実質的な降伏とも言える『通商条約』が結ばれたその夜。

王城の離れに用意されたテンペスト使節団の賓客室に、一人の客が訪れていた。

「――夜分遅くに申し訳ありません、テスタロッサ様。少しだけ、お時間をいただけますか?」

扉の前に立っていたのは、リ・エスティーズ王国が誇る『黄金の姫』、ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフであった。

護衛の少年兵(クライム)を部屋の外に待たせ、たった一人で悪魔の巣窟に足を踏み入れる王女。その姿は、事情を知らぬ者から見れば、国を憂う健気で勇敢な姫君そのものだった。

しかし、テスタロッサの目は誤魔化せない。

「ええ、構いませんわ。どうぞお入りになって、ラナー王女殿下」

テスタロッサはソファに優雅に腰掛けたまま、ラナーを招き入れた。

部屋の中には老執事のヴェイロンと少年のモスが控えているが、彼らもまた、入室してきたラナーを見て、微かに口角を上げていた。

「して。私にどのようなご用件かしら?」

「はい。本日の謁見の間での無礼、王国を代表して改めてお詫び申し上げます。……そして、私からテスタロッサ様に、個人的な『ご提案』がありまして」

ラナーは深々と頭を下げた後、ゆっくりと顔を上げた。

その瞬間、彼女の顔から「慈愛に満ちた聖女」の仮面が音を立てて剥がれ落ちた。

翡翠の瞳に宿るのは、底知れぬ狂気と、自身の欲望のみを追求する絶対的なエゴイズム。

「……まぁ」

テスタロッサは目を丸くし、次いで、心底楽しそうにくすくすと笑い始めた。

「クフフ……これは驚きました。まさか、人間の、それも温室育ちの王女の皮の下に、これほど見事な『真っ黒な魂(ヘドロ)』が隠されていたなんて」

「お褒めいただき、光栄ですわ」

悪魔からの最大級の賛辞(異常性の指摘)に対し、ラナーは全く悪びれることなく、少女のように無邪気に微笑んだ。

「単刀直入に申し上げます。私を、テンペストの陣営に加えていただけませんか?」

「貴女を?」

「ええ。王国は遅かれ早かれ、貴女方の手のひらの上で踊らされ、最終的には経済的・政治的に完全に飲み込まれるでしょう。父や兄たちはまだそれに気づいていないようですが」

ラナーは淡々と自国の破滅を語る。そこに一切の未練や祖国への愛はない。

「私は、王国がどうなろうと知ったことではありませんの。ただ、私と『私のクライム』が、誰にも邪魔されず、永遠に安全な環境で暮らせれば、それでいいのです」

彼女の目的はただ一つ。愛する護衛の少年、クライムを自分だけの箱庭に閉じ込め、飼い殺しにすること。

「テンペストに、私と彼が暮らすための小さな家と、絶対の安全を保障してください。その対価として――王国の貴族たちの派閥情報、王室の隠し財産、地下組織の繋がり、そして『王国を最も効率よく内部から崩壊させるための手順書』を、すべて貴女方に差し上げます」

それは、祖国を丸ごと悪魔に売り渡すという、究極の売国宣言だった。

しかし、テスタロッサにとっては非常に「都合の良い」提案である。

「……面白い娘ね。リムル様は流血を好まれません。貴女が内側から国を『解体』してくれるというのなら、我々としても手間が省けて助かりますわ」

「では!」

「ええ、契約成立(ディール)です。貴女にはテンペストの居住権と、クライムという少年の身の安全を約束しましょう。……ふふ、本当に貴女の魂は美しいわね。死後、私の眷属として悪魔に転生させてあげたいくらい」

「まぁ! それは素敵なご褒美ですこと」

狂った王女と、美しき悪魔。

二人の間で交わされた密約により、リ・エスティーズ王国は外側からだけでなく、中枢である王家からも完全に死に体を晒すこととなったのである。

――同刻。

バハルス帝国の帝都、アルウィンター。

「……なんだと? 王国が、どこの馬の骨とも知れぬ亜人の使者と通商条約を結んだだと?」

帝国の支配者である『鮮血帝』ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは、執務室で報告書を叩きつけ、深い溜息をついた。

「しかも、相手はたった数名。戦士長ガゼフが同席していながら、相手の要求を丸呑みした? あの王国が亜人相手にそんな腰抜けな真似をするとは……どういうことだ?」

ジルクニフの優秀な頭脳が、必死に情報を処理しようと回転する。

トブの大森林の中央に突如出現した謎の都市国家『テンペスト』。

報告によれば、人間とは比べ物にならない技術力と、異常なほど強力な魔物の軍勢を有しているという。

「……厄介なことになったな。もしそのテンペストとやらが王国と結託し、帝国に牙を剥けば……」

その時。

執務室の扉が乱暴に開け放たれ、一人の老人が転がり込むように入ってきた。

「へ、陛下ァァァァァッ!!!」

「うおっ!? フ、フールーダか! 何事だ、そんな血相を変えて!」

帝国の主席魔法詠唱者にして、ジルクニフが『爺』と慕う最高峰の魔法使い、フールーダ・パラダイン。普段は威厳に満ちた彼が、今は髪を振り乱し、よだれを垂らしながら、歓喜と恐怖が入り混じった狂乱の表情を浮かべていた。

「見ましたぞ! 見てしまいましたぞ!! アァ、我はなんと幸運か!! 魔法の深淵……いや、神そのものが、この地に降臨なされたのだ!!」

「落ち着け! 何を見たというのだ!」

フールーダの持つ特異な才能――それは、相手が使用できる『魔法の位階(強さ)』をオーラとして視覚化して見抜く力だった。

「先ほど、私は大森林の中央に現れたという未知の都市に、最上位の遠隔視(スクライング)の魔法を放ちました。そこで、そこで……アァァ!!」

フールーダは床に頭を擦り付けながら叫ぶ。

「都市の中心に、果てのない『光の柱』が見えたのです! 太陽よりも眩く、海よりも深い、無限の魔力! 第六位階どころではない、第七、第八、いや、第十位階すら遥かに凌駕する……世界そのものを構成するような魔力の奔流を!!」

「な……に?」

「あの方こそが神だ! 魔法の真理だ!! 陛下、帝国は即刻あの国に降伏すべきです! いや、私をあの方の奴隷として献上してください!! 足の指でも舐めて魔法の教えを乞いたいのです!!」

ジルクニフは絶句した。

帝国最強であり、人間として最高峰の力を持つフールーダが、戦わずして完全に精神を崩壊させている。

(馬鹿な……フールーダ爺が、ここまで圧倒される存在だと? 王国のガゼフが戦わずに屈したのも、そういうことか……!)

ジルクニフの胃が、ギリギリと音を立てて痛み始めた。

彼が長年かけて練り上げてきた帝国統一のビジョンが、根底から崩れ去っていく音だった。

「……フフフ、素晴らしい慧眼です。我が主の偉大さを、その濁った目で少しでも理解できたことは褒めてあげましょう」

「――ッ!?」

ジルクニフは弾かれたように顔を上げた。

誰もいなかったはずの執務室の窓際。

月の光を背にして、一人の男が立っていた。

漆黒の執事服。血のように赤いメッシュの入った黒髪。そして、黄金と真紅の禍々しい瞳。

「貴様、何者だ!! 衛兵! 衛兵!!」

ジルクニフが叫ぶが、扉の外からは何の反応もない。

「無駄ですよ。この空間は既に私が『隔離』しました。外の時間は止まっています」

「空間を……隔離しただと……?」

男――原初の黒(ノワール)、ディアブロは、優雅に一礼した。

「はじめまして、帝国の皇帝陛下。私はテンペストの盟主、リムル様に仕える悪魔……ディアブロと申します」

「あ、アァァ……!!」

フールーダがディアブロを見た瞬間、さらに激しい痙攣を起こした。

「この方だ!! 遠隔視越しに私を睨みつけ、私の魔法陣をたった一つの呪文もなく逆探知して見せた神の使い! アァァ、素晴らしい!! その圧倒的な魔力、どうか、どうか私を貴方様の弟子に!!」

「気安く話しかけるな、下等生物。あなたの師となるなど、天地がひっくり返ってもあり得ません」

ディアブロが冷たく一瞥すると、フールーダは「ひぃぃ!」と歓喜の悲鳴を上げて気絶してしまった。

「さて、皇帝陛下」

ディアブロは、胃を抱えて青ざめるジルクニフに、ゆっくりと歩み寄る。

「我が主は、とても慈悲深いお方です。この世界を武力で平定するような野蛮な真似は望んでおられません。……ええ、『建前』としては、ですがね」

ディアブロの目が、三日月のようにつり上がった。

「リムル様は『皆と仲良く商売がしたい』と仰られました。それはつまり、全世界の経済をテンペストに依存させ、逆らうことすらできない完璧な服従体制を築けという、深遠なるご命令に他なりません」

「……ッ!!」

(なんという邪悪な思考だ……! この悪魔の主であるリムルとやらは、血を流さずに世界を真綿で首を絞めるように支配するつもりなのか!)

ジルクニフは自身の胃が穴を開けるのではないかという激痛に耐えながら、必死に思考を回した。

「私が出向いた理由は一つです。王国はすでに我が国の『市場』として整備されることが決定しました。……帝国は、どう動きますか? 賢明なる皇帝陛下」

それは交渉ではない。

『今ここで死ぬか』『テンペストの家畜として生きるか』の二択を迫る、悪魔の死の宣告であった。

「……我々帝国は……」

ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス。

後に『鮮血帝』として恐れられた彼の覇道は、この夜、あまりにも理不尽な悪魔の訪問によって、永遠に道を引き返すこととなったのである。

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