「――陽光聖典が、全滅しただと?」
人類至上主義を掲げる宗教国家、スレイン法国。
その最高意思決定機関である最高神官長たちの会議室は、およそ聖職者らしからぬ重苦しい沈黙と、濃密な焦燥感に支配されていた。
「あり得ん……! ニグン率いる陽光聖典は、最高位の天使を召喚できる我らが法国の切り札の一つだぞ! リ・エスティーズ王国のガゼフ・ストロノフ一人を討ち取る任務において、後れを取るはずがない!」
「ガゼフの抵抗によるものではない。問題は……『占星千里』が観測した映像だ。彼女をここへ」
扉が開き、両脇を神官に抱えられるようにして、一人の女性が引きずり出されてきた。
法国が誇る情報収集の要であり、広大な範囲を監視する異能を持つ『占星千里』。しかし、現在の彼女の姿は正視に耐えないものだった。
「ひぃっ……! あ、あぁぁ……目が、私の目が焼ける……! バケモノ……神々の領域……!」
焦点の合わない目で虚空を見つめ、自身の髪をブチブチと引き抜きながら、彼女はうわ言のように同じ言葉を繰り返している。
「落ち着け! トブの大森林で何を見たのか、報告せよ!」
「も、森の中央に……光が……。巨大な、水晶と鋼鉄でできた街が……ッ!」
占星千里はガチガチと歯を鳴らしながら、恐怖の底から絞り出すように語り始めた。
「魔力(オーラ)の密度が、狂っています……! 街を歩く平民の魔物すら、竜(ドラゴン)に匹敵する……。そして、その街の奥……最も深い玉座に……『深淵』が、ありました……」
「深淵、だと? 一体何者の姿を見た!」
「す、スライム……」
「は?」
神官長たちは顔を見合わせた。最弱の魔物の代名詞ではないか。
「スライムの形をした……底なしの虚無……! それを囲むように、かつて六神が封じた『魔神』すら児戯に思えるほどの、数十、数百の悪魔や魔獣が……あぁ、目が合った! あの金と赤の瞳を持つ悪魔(ディアブロ)と、紫色の髪の少女(ウルティマ)が、遠隔視をしている私に気づいて……笑ったんです!! 『覗き見は感心しないな』って……私の脳に直接!!」
「ギャアァァァァッ!!」
占星千里は突如として発狂したように叫び声を上げ、その場で泡を吹いて気絶してしまった。
会議室は、文字通りの『絶望』に包まれた。
「……信じられん。だが、彼女の精神崩壊が何よりの証拠だ」
「トブの大森林に、魔物たちの超巨大国家が突如として現れたと? しかも、その戦力は我らが信奉する六大神すら凌駕するかもしれないと?」
人間こそが至高であり、人間以外の種族を駆逐することを国是とするスレイン法国にとって、高度な文明と圧倒的な武力を持つ魔物の国家の出現は、人類の『完全な滅亡』を意味していた。
放置すれば、人間は彼ら魔物の家畜にされる。
「やるしかない……! 相手の規模がどれほどであろうと、首魁であるあのスライム、あるいはその側近を『我々の駒』にできれば、人類は救われる!」
神官長の一人が、血走った目で叫んだ。
法国が隠し持つ、最高にして最悪の切り札。ユグドラシルの理で作られた、世界そのものを書き換える絶対の魔術行使。
「世界級(ワールド)アイテム『傾城傾国』の使用を許可する。漆黒の聖典を総動員し、あの忌まわしき魔物どもの中枢を精神支配(マインドコントロール)せよ!!」
人類の守護者たちは、自分たちが「絶対に開けてはならないパンドラの箱」に手をかけようとしていることに、気づく術を持たなかった。
数日後。
トブの大森林の木漏れ日の中を、新世界における人類最強の特殊部隊『漆黒の聖典』が息を潜めて進んでいた。
部隊を率いる『隊長』は、神の血を引く「神人」であり、新世界において彼に敵う者は竜王(ドラゴンロード)をおいて他にいない。その彼の背後には、老婆カイレが大切そうに『傾城傾国』である豪奢なチャイナドレスを抱きかかえている。
(占星千里の報告は異常だった。だが、いかなるバケモノであろうと『傾城傾国』の強制支配からは逃れられん。我々が人類を救うのだ)
隊長がそう決意を固め、テンペストの防衛圏内に足を踏み入れた、その時だった。
「あーあ、つまんない。なんで私だけお留守番なのよ」
静寂な森に、場違いなほど明るく、不満げな少女の声が響いた。
漆黒の聖典のメンバー全員が、雷に打たれたように足を止め、一斉に武器を構える。
隊長の額に、冷たい汗が伝った。
(……気配が、全くなかった。いつの間に現れた!?)
声の主は、開けた空間の切り株に腰掛けていた。
金色のポニーテールを揺らし、黒いホットパンツに丈の短いジャケットを羽織った、活発そうな人間の少女に見える。
その傍らには、和装に身を包んだ、初老の細身の剣士が静かに佇んでいた。
原初の黄(ジョーヌ)こと、カレラ。
そして彼女の腹心である、悪魔の剣聖アゲラである。
「テスタロッサは王都で優雅にお茶会してさー、ウルティマも法国の暗部をイジメに行くって喜んで出て行ったのに! 私だけ『カレラはすぐ核撃魔法ぶっ放すから駄目。森で大人しくしてろ』って、リムル様酷くない!?」
「カレラ様、主君の決定に文句を言ってはなりませぬ。リムル様はカレラ様の有り余る力をご懸念されているのです」
「分かってるわよぉ……。でも退屈で死にそう。誰か、頑丈なサンドバッグでも通りかからないかしら」
カレラが足をブラブラさせながら、チラリと横目で『漆黒の聖典』の面々を見た。
その瞬間。
漆黒の聖典の全員が、自身の首に冷たい死神の鎌が当てられたような、絶対的な死の気配に全身を硬直させた。
(こいつ……人間じゃない! なんというプレッシャーだ……この私が、一歩でも動けば死ぬと本能で理解させられているだと!?)
隊長は、自身の神人の血が「逃げろ」と激しく警告を発しているのを感じた。目の前の少女と老人は、竜王すら赤子のように捻り潰すバケモノだ。
「ん? なあに君たち。ずいぶん物騒な格好してるけど。ひょっとして……私と遊んでくれるの?」
カレラの瞳が、獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝き始めた。
「……カイレ様!」
隊長は悲痛な声で叫んだ。
「奴らと戦ってはなりません! 今すぐ、あの金髪の女に『傾城傾国』を!! あの力……奴を我らの駒にできれば、形勢は逆転します!」
「わ、分かっておる!」
老婆カイレが前に進み出た。彼女の纏うチャイナドレス――世界級アイテム『傾城傾国』が、神々しい光を放ち始める。
ユグドラシルの理において、このアイテムによる精神支配は「絶対」である。耐性や魔法防御を完全に無視し、魂そのものを所有者の奴隷へと書き換える究極の支配。
「我が意志に従い、我が傀儡となれ!!」
カイレの放った目眩く光の帯が、一切の抵抗を許さずカレラの胸へと吸い込まれた。
「あ、カレラ様。何か変な光が――」
アゲラが声をかけるが、光はすでにカレラの魂に到達していた。
漆黒の聖典の面々は、勝利を確信し、安堵の息を吐いた。いかなるバケモノであろうと、この光を受ければ法国の忠実な犬となる。
しかし。
「……ん? なぁに今の」
光をまともに受けたカレラは、ただ小首を傾げただけだった。
「……え?」
カイレが間抜けな声を漏らす。
「な、なぜだ……!? 傾城傾国が効いていない? そんな馬鹿な、精神支配に対する絶対的な法則のはず……!」
《告。個体名:カレラへの低位の精神干渉を確認。リムル様との『魂の回廊』および究極能力(アルティメットスキル)の絶対防御により、当該干渉を無効化。……さらに、対象の魂への干渉は、主(リムル)に対する明確な敵対行為と認定します》
カレラの脳内にシエルの無機質な声が響いた。
その内容を理解した瞬間、カレラの顔から、先ほどまでの退屈そうな表情が完全に消え失せた。
スゥッ、と。
森の温度が急激に下がり、大気がビリビリと物理的な悲鳴を上げ始めた。
「……ねぇ、お前ら」
カレラの声は、地獄の底から響くように低く、冷酷だった。
「今の光……精神支配(マインドコントロール)の魔法ね? 私の魂を書き換えて、リムル様への忠誠を汚そうとしたってこと?」
「ひっ……!」
カイレが後ずさる。漆黒の聖典の面々は、自分たちが「決して触れてはならない逆鱗」を全力で踏み抜いてしまったことを、遅まきながら理解した。
「アゲラ」
「はっ」
「私、リムル様に『殺しすぎるな』って言われてるけど……。私の、私の魂にあるリムル様との繋がりを汚そうとしたゴミ共を、跡形もなく消し飛ばすことくらい、許容範囲よね?」
「……御意。この者どもの振る舞い、悪魔の矜持にかけて万死に値します。ご随意に」
カレラが右手を空へと掲げた。
その瞬間、森の上空の雲が渦を巻き、天が真っ赤に染まった。
空気が極限まで圧縮され、トブの大森林のみならず、遥か彼方のスレイン法国からバハルス帝国に至るまで、新世界全土の魔力探知を持つ者たちが「星が割れる」かのような絶望的なエネルギーの奔流を感知して悲鳴を上げた。
「ば、馬鹿な! そのような莫大な魔力、六大神すら――」
「消えろ、虫ケラ共」
カレラの手のひらに、黒と黄色の禍々しい光球が圧縮されていく。
それは、本来ならば一国を大陸ごと海に沈める極大魔法。彼女が怒りのままに放つ、一切の手加減のない破滅の一撃。
「『終末崩縮消滅波(アビス・アナイアレーション)』」
――音すらなかった。
光球が漆黒の聖典に向けて解き放たれた瞬間、彼らの存在した空間そのものが、悲鳴を上げる間もなく「次元ごと」削り取られた。
抵抗も、防御も、世界級アイテムの加護すらも、圧倒的な暴力の前に何の意味もなさない。
光が収まった後。
カレラの目の前には、扇状に広がる巨大なクレーターだけが残されていた。
トブの大森林の木々も、土も、人類最強と呼ばれた漆黒の聖典の面々も、細胞の一つ、魂の欠片すら残さず、完全に『無』へと還元されていた。
「ふん。ちょっとは暇つぶしになるかと思ったのに、本当につまらない連中」
大気中に漂うプラズマの匂いを嗅ぎながら、カレラはつまらなそうに鼻を鳴らした。
この日、スレイン法国は、彼らが人類の至宝と崇めていた最強の部隊と世界級アイテムを、文字通り「たった一人の少女の暇つぶし」によって永遠に喪失したのである。
それは、新世界がかつて経験したことのない『絶望の時代』の、ほんの幕開けに過ぎなかった。