アーグランド評議国の遙か上空、雲海に隠された巨大な浮遊城。
新世界の守護者にして、現存する最強の存在――『白金の竜王(ツァインドルクス=ヴァイシオン)』は、自身の真の肉体である白銀に輝く巨竜の姿のまま、戦慄に打ち震えていた。
「……今のは、なんだ?」
彼の視線は、遙か南……トブの大森林の方角へ向けられている。
先ほど、世界そのものが悲鳴を上げるような、異常な力の奔流を感知したのだ。
過去に世界を汚染した『プレイヤー(八欲王や魔神)』たちが使う「位階魔法」とは根本的に異なる。いや、自分たち竜王が世界そのものの力を削り取って行使する「始源の魔法(ワイルドマジック)」ですら、あのような破滅的なエネルギーは生み出せない。
そして何より、ツァインドルクスの心を凍りつかせたのは、その一撃の余波によって、スレイン法国が所持していた世界級アイテム『傾城傾国』の気配が、この世界から完全に消滅したことだった。
「世界を書き換える至宝を、力ずくで消し飛ばしたというのか……? 馬鹿な。そのようなことができる存在など、この世界には……」
ツァインドルクスは、かつてない焦燥感に駆られた。
百年前、二百年前の世界の危機とは次元が違う。あの森に陣取る「何か」は、世界をゆっくりと汚染する毒ではない。世界そのものを一撃で粉砕しかねない、規格外の天災だ。
「我が行かねばなるまい。母なる世界を守るため……私が、この手で世界の汚れを浄化する!」
ツァインドルクスは空の鎧を動かすのをやめ、自らの真の肉体(ドラゴン)で飛翔した。彼が本気で世界を救うために動いたのは、八欲王との死闘以来のことだった。
風を切り裂き、音速を遥かに超える速度でトブの大森林上空へ到達したツァインドルクスは、眼下に広がる光景に息を呑んだ。
「なんだ、あの都市は……ッ!?」
森の中央を不自然に切り拓いて作られた、巨大で美しい近代都市。
そこから立ち昇る魔力(魔素)の密度は、ツァインドルクスの竜としての本能を激しく警鐘させていた。都市を歩く小さな魔物の一匹一匹から、新世界の英雄クラスのオーラが放たれている。
異常だ。狂っている。
これは間違いなく、世界を終わらせる悪しきモノの巣窟だ。
「……問答は無用。このまま、都市ごと始源の魔法で消し去る!」
ツァインドルクスは大きく息を吸い込み、魂の力を燃やした。
彼が放とうとしているのは、究極の『始源の魔法』。かつて厄災を退けた、あらゆる物理法則と魔法防御を透過して対象を純粋なエネルギーで消滅させる、彼にとっての最大最強のブレス。
白金に輝く光が、彼の口腔に極限まで圧縮されていく。
これほどの規模の始源の魔法を放てば、ツァインドルクス自身も無事では済まない。だが、ここで彼らを滅ぼさねば世界が終わる。
「消え去れ、世界の汚れ(プレイヤー)共――!!」
ツァインドルクスが、必殺の光を放とうとした、まさにその刹那。
『――おいおい。他人の家の屋根の上で、勝手に花火を上げようとするんじゃないぞ。まったく、いいところだったのに』
「……なっ!?」
声は、ツァインドルクスの『背後』から聞こえた。
彼の巨体が硬直する。
あり得ない。自分は新世界最強の竜王だ。その背後を取られるなど、物理的にも魔法的にも絶対に不可能なはずだ。
ツァインドルクスが驚愕に目を見開いたまま振り返ると、そこには――。
「リムルが『上でトカゲが騒いでるから追い払ってくれ』なんて言うから、迷宮(ダンジョン)からわざわざ出てきてやったんだぞ。我は忙しいのだ!」
空中に、一人の男が立っていた。
褐色の肌に金色の髪、そして鍛え上げられた肉体。その手には、なぜか一冊の紙の束(漫画の単行本『月刊シリウス』)が握られている。
(人間……? いや、違う! こいつからは、生命力も、魔力も、何も感じない!?)
ツァインドルクスの探知能力は、目の前の男を「ただの空間」としてしか認識できなかった。しかし、男の瞳――金と黒の十字の瞳孔を見た瞬間、ツァインドルクスの竜としての魂が、かつてないほどの激しい『恐怖』で金切り声を上げた。
逃げろ。
逃げろ!!
アレは『竜』の形をした人間ではない。
アレは、世界を破壊する『嵐』そのものが、人間の形をとっているだけの存在だ!!
「き、貴様ぁぁぁッ!!」
恐怖をごまかすように、ツァインドルクスは圧縮していた『始源の魔法』のブレスを、至近距離から男に向けて解き放った。
空が白金色に染まり、次元の壁すら焼き尽くす究極の閃光が、男の体を完全に飲み込む。
直撃。
新世界のいかなる存在であれ、この一撃を受ければ魂ごと消滅する。
ツァインドルクスは荒い息を吐きながら、光の奔流を見つめた。
やった。世界は守られたのだ、と。
「……ふむ」
光の中から、声がした。
「今の光、少しはマシな威力をしているな。肩こりが少しほぐれたぞ。我の『竜気』を乱すほどではないがな。……で、本命の攻撃はいつ来るのだ?」
「…………は?」
光が晴れた後。
そこには、服の裾一つ、髪の毛一本すら焦げていない男が、先ほどと同じように漫画本を片手に退屈そうに宙に浮いていた。
「ば、馬鹿なッ!? 始源の魔法だぞ!? 世界の理を削り取って放つ、絶対の破壊――」
「世界の理? クアハハハハッ!!」
男は、腹を抱えて大笑いし始めた。
「笑わせるな、トカゲ! この世界の理とやらがどれほどのものか知らんが……我は『真なる竜』! 我が存在することこそが、理(ルール)なのだ!!」
その瞬間だった。
男――ヴェルドラ=テンペストの瞳が、面白半分の色から、強者のそれに変わった。
ゴオォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
ヴェルドラの体から、文字通り『世界を圧殺する』ほどのオーラ――【覇気】が解き放たれた。
「ガ、アァァァァァァァァッ!!?」
ツァインドルクスの白金に輝く巨大な竜の肉体が、見えない巨大な手に叩きつけられたように、空中でくの字にへし折られた。
重力ではない。
それは、純粋な『格の違い』。
竜という種族の頂点、星のエネルギーの化身たる【真なる竜】が放つ絶対的な覇威の前に、新世界の竜王は文字通り「トカゲ」と同等の存在に成り下がったのだ。
「ひぃっ……! ぁ、あ……!」
ツァインドルクスは、もはや飛翔することすらできず、自らの城のごとき巨体を震わせながら、空中で無様に丸まることしかできなかった。
魂が、細胞が、本能が、「逆らえば消滅する」と絶叫している。
「どうした、新世界最強とやら。もう終わりか?」
ヴェルドラは呆れたように息を吐いた。
「せっかくリムルから許可をもらって出てきたというのに、我輩が指一本動かす前に自滅するとはな。……まぁいい。リムルは『殺すな』と言っていたからな」
ヴェルドラは、恐怖に白目を剥きかけているツァインドルクスの鼻先に、ふわりと降り立った。
「おい、トカゲ」
「ヒッ……!!」
「我は今、迷宮の防衛機構の構築と、この『漫画』の続きを読むので忙しいのだ。貴様、少し見所があるから、我の小間使い(パシリ)として迷宮で働かせてやろう」
「……へ?」
ツァインドルクスは、あまりの展開に思考が停止した。
自分は、世界の守護者なのだ。それがいきなり、未知の化け物の小間使い?
「返事は?」
ヴェルドラが少しだけ覇気を強める。
「ギィィィィッ!! よ、喜んでェェェェッ!! お仕えいたしますゥゥゥ!!」
ツァインドルクスは、新世界の竜王としてのプライドも、守護者としての使命も全てをかなぐり捨て、ただ生存本能のみに従って泣き叫びながら服従を誓った。
「うむ! 良い返事だ! クアハハハハ!」
ヴェルドラの高笑いが、空に響き渡る。
こうして、新世界の裏で永きにわたり『最強の守護者』として君臨していた白金の竜王は、たった数分の遭遇で完全に心を折られ――テンペスト地下迷宮の、哀れな雑用係(ラミリスの使い走り)へとジョブチェンジすることになったのである。
人類の守護者たるスレイン法国が壊滅し、世界の守護者たる竜王がパシリに堕ちた。
もはやこの新世界に、テンペストの『優雅なる蹂躙』を止める手段は、何一つ残されていなかった。