怪人二十面相からの犯行予告を受け、富豪の前澤萬蔵が従者を伴って麻布にある明智探偵事務所を訪れたのは、浅草の蕎麦屋で先のような与太話がなされていた翌日のことでした。
朝刊には、折から帝都を騒がせている怪人二十面相が富豪の前澤萬蔵を狙いに定めたことを一面に、他にも桜前線が九州まで上がってきたこと、岩手県松尾鉱山における黄鉄鉱の産出量が激減している旨が記されています。
陽がすっかりのぼり、街の喧騒が麻布の坂にも鳴り響いている頃に、麻布日向坂をのぼりきったところにある貸しビルの中、明智探偵事務所では、ちょうど明智小五郎探偵の夫人である文代が事務所の掃除をしているところでした。
痩身で髪を短く刈り上げ、帝都有数の富豪でありながら無精にひげを生やしている前澤萬蔵は、文代に通されて事務所へ入りました。傍らの従者はメガネをかけたやはり痩躯の中年男で、主人の活躍ぶりに恐縮するような振る舞いです。
「やあやあ、約束はしておったのだが・・・」
この時代の富豪にありがちな鷹揚かつ尊大な振る舞いをする前澤は、どっかりとソファに腰を下ろしました。
「はい、先生はただいま別の事件に取り組んでおりまして」
そう返事したのは、かつて明智探偵お抱えであった少年探偵団の団長を務めていた小林芳雄くんです。大東亜戦争を経たいまではすっかり大きくなり、今年27になります。りんごほっぺの聡明な少年だった彼は、立派な青年探偵として明智事務所の実務を取り仕切っていたのです。
「うむう・・・それは心細いなあ。いやあね、きみが頼りないという意味ではないのだよ、小林くん」
キセルに火をつけて、わははと前澤は笑います。小林くんも苦笑いでこたえます。
もちろん、小林くんの探偵力は目を見張るものがあるのですが、何せ師である明智小五郎にはややかないません。そう言われることは慣れていますが、こうしたときに小林青年は苦笑いでお茶を濁すのです。
ですが、苦笑いするのはそればかりではありません。前澤が糖尿病患者なのは知っていましたが、糖尿病特有の甘酸っぱいような、古い柑橘類が放つような口臭が事務所いっぱいにひろがっているのです。
「ときに小林くん、この二十面相の予告状は目を通してくれたかね?」
前澤は従者に目配せをしました。従者は鞄から、丁寧に封に入れられた紙を取り出しました。
「はあ。新聞に載せられたものを拝見はしてますが、いま一度」
小林くんはいま一度、しっかりと予告状を見ることにしました。
【わたしがいかなる人物であるかは、貴殿も新聞紙上にてご承知であろう。
貴殿は、英国王室エリザベス女王がかつてご佩用されたダイヤモンドの指輪を、貴殿の家宝として入手し、先刻銀座の前澤宝飾店へ展示したと確聞する。
わたしはこのたび、このダイヤモンドの指輪を、貴殿より無償にてゆずりうける決心をした。
ついては3月22日の水曜日午後10時、前澤宝飾銀座本店へ参上する。
ずいぶんご用心なさるがよかろう。
怪人二十面相】
「まったくおそろしい男だ。この予告状が届いたのがおとつい。そのころわたしは松尾鉱山の始末に盛岡へ赴き、次いで新たに開いた前澤宝飾の仙台店へ陣中見舞いにいっていたのだが、報せを受けてあわてて夜行列車で戻ってきてね。朝イチバンで、警視庁と、帝都新聞や東西新聞といった新聞社へ報せて回ったところだ。そうしたら、皆口々に意見をそろえるではないかね。明智先生には相談されましたか、明智先生にもぜひお力添えをご依頼なさってくださいまし、そういった具合にだ」
「はあ。ご要望ありがたく存じます」
勢いつけて話し込む前澤に、小林くんはお鼻をつまみたくなる衝動を押しこらえております。
「それにしても予告状からわずか6日ばかりで、我が宝飾店へ盗みになど入れるものかねえ。いや、ウワサには聞いておったが、ただでさえ24時間寝ずの番を雇用している我が宝飾店にだよ、夜中や早朝にでも押し入ってみたまえよ。ただちに柔道3段の猛者に組み伏せられて捕縛されるのだよきみぃ」
「はあ。あの、お言葉を返すようですが、そんな中でも忍び込んで仕事を果たしてしまうのが、二十面相のおそろしいところです。油断は禁物だと考えますが」
「小林くん、そんなことはわたしも理解しているよ。無論警察諸君にもがんばってもらうのだが、ひとつ明智探偵事務所にも、総力を挙げて取り組んでもらえぬかとこうして訪ねてきておるんだから」
「もちろんです、そこは抜かりのございませんよう務めます」
「ふむう、もちろん君たちのご活躍はかねがね、頼りにさせてもらうがね」
前澤はキセルを灰皿に置くと、懐から小瓶を取り出しました。
「いやあ、うまい。小林くん、これは我が養蜂場で採れた極上の蜂蜜だよ。これはまさしく、食の宝石だ。この芳醇な味わい、とろけるような、もはや官能的ですらある甘さ」
前澤が無類の蜂蜜好きとは耳にしていた小林くんでしたが、いやはや、想像を上回るものでした。こうして話し合いの最中にも、はたまた招かれた晩餐の席でも、蜂蜜を舐めるそのクセは、誌上で知ったところでありました。
「ときに小林くん、警視庁の方でも、ずいぶんがんばってくれるようだね。前に鉱山投資仲間の鹿内氏が二十面相に網を張られた際にも指揮してくれた・・・ええと・・・常川くんか。たしか常川警部だったな。もうひとりの菅野警部と一緒に、躍起になって二十面相を捕らえんとしてくれたそうじゃないかね」
「ああ、常川さんですね。常川警部ですが、今年の正月から帝都警視庁淀橋警察署長に栄転と相成りまして、異動していったのです」
「ほほう、なんと」
「菅野警部も大変お世話になりましたが、やはり昨年岩手県警察へ異動なさってます」
「おお、そうかね。して、いまはどなたが重大事件の指揮をとるのだろうか?」
「わたしも面識はありませんが、最近矢野という若い警部が赴任したそうです。その方が指揮を振るうと思います」
「ほう・・・そうかね。ふうむ・・・」
前澤はなんだか落ち着きがないふうに、キセルに火をつけました。従者の男は黙って、下を向くのみです。
「小林くん、かえすがえすも失礼と受け取っては困るのだが、そのようなお若い方で大丈夫であろうか?」
「はい。わたしも伝聞ですが、英国ロンドン警察にて研修を受け、日本へ帰国したやり手だそうです」
「ほう、そりゃあすごい。英国ということは、英国警察方式の警備でもって二十面相と対決してくれるのか。これは頼もしい」
小林くんも英国式の警備とやらは詳しくありませんが、なにせ英国女王が召した指輪を家宝として購入するような英国好きの前澤です。どこか安心したように顔をほころばせています。
「いいえ、英国式警備とやらにも穴はある。日本式警備と英国式警備の両方で事にあたるべきなのです」
どこからともなく、知らない声がします。
「ああ、先生!」
顔を上げた小林くんは、いつの間にかこの部屋の主人が戻ってきたことに感嘆の声を上げました。
「先生・・・やあ!あなたが明智探偵かね。これはこれは」
前澤は立ち上がり、握手を求めました。6尺は優にある明智小五郎と握手する前澤ですが、やや高身長の彼でもこうして明智と並ぶと、いまひとつ背が低く見えるものです。
「先生、もう横浜の事件はよろしいんでしょうか?」
小林くんは隣に座った明智探偵に尋ねます。
「ひととおり片付いたさ。まあ事後処理などで、いま半刻は横浜へ出向かなくてはならぬがね」
「ほう、明智さん。よろしければその横浜の事件とやら、耳に入れても差支えないものか?」
興味津々といったふうに、前澤はにおいある顔を近づけて参りました。
「ははは、まあ詳しくは語りませんが・・・厄介千万な事件でした。人間関係がひどく入り組んでいる上に、どこから着想を得たのか、奇怪なトリックを使われましたし、その上金田一なる素人探偵が口をはさんできましたし。まあ、金田一探偵の意見は実に的を得ていて、彼の出馬がなければ、こうしていま事務所へ戻ることもかないませんでしたがね」
「ときに明智探偵、今回の事件にも出馬してもらえるのかね?」
これまでになくひどく真剣な表情で、前澤は訊いてきます。
「ええ。早いところ横浜の事件を最後まで片付けて、なんとか参上するとしましょう」
「ほう・・・ほう!はははは!これは良かった!明智探偵が来てくれるというのなら、もう大丈夫!百人力だ!これはもう、大船に乗ったつもりでおりましょうぞ!」
すっかり安心したように、前澤は大笑いを始めます。隣室で編み物をしていた文代がいやな顔をするくらい、彼の口からにおいが放たれているのです。
「まだ安心はできませんぞ。なにせ相手は、あの稀代の大犯罪者である怪人二十面相ですからな。ですが、必ずや彼の裏をかいて、この事件を抑えてしんぜましょう」
「うむ!うむ!心強いばかりなり!おい小泉、戻ったら明智探偵への送金手続きをするのだ。いやあははは、愉快痛快なり」
明智探偵が参上したとなって、よほど上機嫌なのでしょう。前澤は蜂蜜の小瓶からたっぷりと指にすくい、うまそうに指をしゃぶるのです。
「ときに前澤さん、貴殿が乾坤一擲の勝負に出た岩手県は松尾鉱山、記録的な産出不足と相成っているそうですが、そちらはご心配ではありませんか?」
まるですっかり安心して愉快にしている前澤に、冷水を浴びせるようなことを明智は言いました。さすがにほんの少しムッとしたような顔をした前澤でしたが、すぐにまたがははと笑い出しました。
「いやなあに、たしかに昨年松尾鉱山へ投資した莫大な金額からの利徳は心もとないものになりそうだが、宝飾事業と養蜂に加えて、養蜂にかこつけた山梨県の土地売買と温泉旅館が大きく当たりそうでしてな!この勢いですと、また来年にも英国から素晴らしい宝玉を買い付けに至ることになりそうでしてな」
「それはなによりです。ま、好事魔多しといいますから、ここはひとつ我々も心をひきしめて事にかかりましょう」
明智は前澤と、そして従者の小泉をしっかりと見遣りました。小泉従者は恥ずかしそうにうつむき、明智と目を合わそうとはしません。
「うむ!では明智さん、今日の夜7時に警視庁を招いてウチの警備体制を相談することになっておる。その折にはぜひ明智さんもお越し願いたい」
「はい。ですが生憎いますこし横浜へ向かいます。この小林を向かわせますので、何卒」
「よろしい。よおし、ここはひとつ松尾鉱山の損失も二十面相の策謀もあべこべにひっくり返してだね、ますます商売精勤と励めるようしようではないか。明智さん、それから小林くん、よろしくお頼み申しますぞ。あ、これ、ウチの養蜂場で採れた蜂蜜です。これを諸君らにも食べてもらおう」
前澤は従者の鞄から蜂蜜を取り出しました。話のついでにいつでも売れるよう、そして自身の蜂蜜が足りなくなったときのために、持ち歩いていたのです。
「ああ、蜂蜜の代金はお支払いする探偵料から差し引いておきますぞ」
出がけにそういって、前澤と従者は事務所を後にしたのです。
「・・・いやあ、成金富豪とは奇人変人が多いと耳にしておりましたが、まさしくでございますね」
すっかり前澤がいなくなってから、小林くんが言いました。
「ホント、それになんて小ずるいのかしら。贈り物じゃなくて探偵代金差っ引きなんて」
文代夫人も憤りをかくさず、食の宝石と喩えられた蜂蜜の小瓶を手に取りました。
「まあ、お金を残す人は違うね」
明智探偵は腕組みをして、目を閉じました。そんな彼のしぐさをみて、文代夫人は淹れていたコーヒーを黙って差し出しました。しばしコーヒーで落ち着いた後、明智探偵は再度横浜へ向かうのです。彼の数少ない、落ち着いて物事を考えられる時間なのでした。
さてそれから幾日か過ぎまして、いよいよ二十面相が犯行を予告してきた3月22日となりました。
前澤との打ち合わせには小林青年と地元所轄である丸の内警察署の刑事数名が立ち会ったのですが、警備当日から警視庁の刑事一行も合流することになっています。
ですがその当日、午後も半刻を回ったころです。前澤宝飾店銀座本店にて、小林青年は周囲の誰もが振り返るような大声を出していたのです。
「お払い箱ですって!?」
これまでの明智探偵事務所と警視庁の連携を考慮すれば、およそ理解しがたいことだったのです。
「はい。わたしは英国で、ライフル銃を用いた狙撃班と高所よりの望遠レンズ班を複数駆使した遠隔監視警備を学んできました。今回は対二十面相警備及び逮捕に際して、我が国の警備実施において初めて適用してみるのです」
小林くんと対峙しているのは、帝都警視庁捜査一課へ新たに赴任した矢野光則警部です。おそらく小林青年と年は変わらないものの、かなり切れ者の風貌としゃべり方をします。
「し、しかし、警備実施に関して、事前に丸の内警察署を交えて前澤氏と打ち合わせております。そこで話し合った内容からも刷新させるのですか?」
「もちろん、人的警備体制は維持しますとも。わたしが不要と申しているのは当初の警備体制ではない。小林さん、そして明智探偵、あなた方です」
面と向かってそう告げられ、小林青年は息を呑みました。
「これを申し上げると我ら警視庁の諸先輩方を愚か者と申し上げるようで気が引けるが、あなた方は怪人二十面相と一進一退繰り広げるばかり。遅々として二十面相を捕縛できていないではありませんか。警備体制の補強に加えて、そろそろ民間人に警察捜査参入をご遠慮願う必要もありますし」
どうやらこの矢野警部、相当な自信家のようです。小林青年は何かを言いかけましたが、口をつぐみました。
「・・・わかりました。引き揚げます。明智先生にもそう申し上げます」
目と口を真一文字と閉じ、小林青年は矢野警部にお辞儀をしまして踵を返しました。ちょうどそこへ、前澤氏が戻ってきたのです。
「やあやあ、これはこれは矢野さんに小林くん。遅くなりまして!西大井の蜂蜜倉庫へ様子を見にいっておりましてな!」
相当多忙にもかかわらず、笑顔で精力的なものです。
「前澤さん、よろしく」
不敵な笑みを浮かべて、矢野警部はお辞儀をします。なんだか「学もない下品な成金め」とでも言いたそうな表情です。
「前澤さん、どうやら僕らはお払い箱となったようです。残念ですが、これにて失礼します」
小林青年は言葉少なく、その場を去ろうとします。
「おお?なんだね、これはいったい・・・」
「前澤さん、ここは我々警察へお任せください。英国式警備で宝物を守り、そのうえで今度こそ二十面相を捕らえてみせましょう」
「おお、おお?そうかそうか、いやあ、あなたのような切れ者がそこまで自信持っておっしゃるなら、わたしも信じましょう。えー、小林くん。探偵料はもう支払ってあるが・・・まあ、よかろう。小泉もおらぬし、取り消し料と思って納めてくれたまえよ」
小林青年は言葉少なく、軽く会釈して場を去りました。
「おい小林くん」
宝飾店を出ると、顔なじみの園田部長刑事が声をかけてきました。
「ああ、園田さん。大変ご無沙汰しております。警視庁に復帰なされたんですね」
この園田刑事とは、明智探偵を含めて戦前からのつきあいです。とても血気盛んでやや気が短いところもありますが、これまで何人もの凶悪犯を組み伏せてきた腕利きの刑事です。大東亜戦争より陸軍に出向し、帝都防衛の任に就いていたときいておりましたが、こうして警視庁勤務へと戻ってきたのでありましょう。
「ああ。おかげさまで出戻りだが、帝都防衛の設計図をせっせと描くよりも、こうして賊を取り締まる方が僕には向いているようだ」
戦争前は若手でしたが、さすがにもう40を迎えようとする園田刑事は落ち着きも併せ持ったベテランといった風格です。
「それよりもウチの矢野警部が大変失礼なことを申していたね。本当にすまない」
園田刑事はペコリと頭を下げてきました。
「いえ、そうした方針と相成ったのならば・・・悔しい気持ちもありますが、しかたがありません」
「うむ。実は、昨日の捜査会議でもその件で紛糾したのだ。前澤氏を交えて取り決めた警備体制を覆すのはいかがなものか、とね。だが功名心の強い若手秀才刑事さんは、自分が二十面相を捕らえんと大変意気込んでおってね。あの通り生意気な若造なのだが、将来は警視総監とも云われるほどの大変な秀才であり、また由緒ある家柄だ。いまでも階級はあちらさんが上だが、将来の大親方に歯向かうようなことができなかった。我々役人のツライところだよ」
「そうだったんですか・・・でも、大丈夫です。第一、明智先生もまだ横浜の事件にかかりきりで、今夜まで帝都へ戻ってこれるかわかったものではないのです」
「ああ、そうか。耳にはしていたが、横浜の石川亭を巻き込んだ大事件だね・・・。うむ、明智先生にも、大変もうしわけなく思っていると園田が申していたと伝えてくれたまえよ。それでは」
宝飾店の窓より、矢野警部がこちらを見ているのが気になったのでしょう。園田刑事はそそくさと店舗へ戻っていきました。
小林青年は宝飾店から麻布の事務所へ戻るべき歩き始めました。銀座の喧騒からやや離れ、西新橋の問屋街まで来たところで、公衆電話に手を伸ばしました。横浜の明智探偵が滞在している宿舎へと電話をかけ始めたのです。
「先生、小林です。はい・・・そうです、我々は捜査陣から外されました。先生がおっしゃっていた通りです。はい・・・ええ、いらっしゃいませんでした。あ、あと、先生、いくつか気がついたことがありまして・・・」