さて、銀座東光百貨店が天地をひっくり返したような騒ぎとなっていますが、それより前、自動車に乗り込んだ前澤氏と護衛の刑事はどうなったのでしょうか。
いったい、この前澤氏は何者なのでしょうか。
前澤氏に次いで柔道三段の猛者である体格の良い刑事が自動車へ乗り込むと、すかさず出発しました。そして乗り込むなり、刑事は車内に違和感を覚えたのです。
岡部運転手は運転席に座っておりますが、その助手席には、やや汚い身なりの女性が座っていたのです。
「前澤さん、このご婦人は・・・」
刑事は最後まで言葉を継げませんでした。隣席の前澤氏が何やら鼻と口に液体をふきつけたのです。
「うぐっ・・・ぐぐ・・・」
刑事は即座に襲い掛かった猛烈な眠気に抗い、どうにか身を起こそうとしますが、たまらず眠り込んでしまいました。
「矢野のヤツ、厄介な弁当を寄こしてきたものだな」
そんな言葉を口にしたのは、他ならぬ前澤氏です。いえ、前澤氏の顔をした、何者かですね。
「英国帰りだとかで抜かりのない警備を敷いてましたが、うまく出し抜いてやりましたね、ボス」
岡部運転手が口を開きます。
「うむ。して、その助手席の婦人はどなたかね?」
「それがこいつ、花売りのフリして百貨店の回りをウロチョロ嗅ぎまわってたんでさ。いえねえ、おなごに見えますが、よくご覧になってくださいよ、コイツ」
「ふうむ・・・」
前澤氏の顔をした人物は、じっくりと助手席で眠っている女性に顔を寄せます。
「ああ!コイツは小林だ、明智くんところの助手じゃないか」
「そうなんですよ、まったく油断のならないヤツで、花売りに扮してこっちうかがってやがったんで、近づいてってボスが最近仕入れた眠り薬を嗅がしてやったんでさ」
「ふはははは!でかしたぞ近藤、これで小林君を捕らえることができた。明智にひとつ勝負を挑みやすくなったぞきみぃ~!」
大喜びする前澤氏ですが、「どれ、そろそろこの顔も飽きたな」と、なんと顔を剥がし始めたのです。まるで本物の皮膚のように見えるその皮は、きれいに剥がれていきます。そうして現れた顔は、小さく口ひげを生やした男性でした。
「ボス、わたしはハンドルを握ってますからまだ顔を取りませんが、今回も大成功でしたね」
そして岡部運転手に化けているのは、いまほど顔を剥がした男性の忠実な部下である、近藤という男なのです。
「ふふふ、英国式警備とやら、これまでにない警備布陣でこちらも苦労したが・・・7日ほど、前澤の従者である小泉に化けてしっかり勉強した甲斐があったというものだな、わっはっは!」
そう、いままで前澤氏に化け、そして7日前に小泉従者に化けてずっと前澤氏と行動を共にしながら、警備体制や百貨店の様子を調べ込んだこの男こそ、怪人二十面相だったのです。そして恐ろしいことに、普段の素顔であるこの小さな口ひげに鋭い目をした顔も、もしかしたら本当の素顔ではないのかもしれません。部下を含めて誰ひとり、二十面相の本当の素顔を知らないのです。
「どれ、あとは手筈通り、アジトへ向かおう。それまで、いただいたダイヤの指輪をしげしげと眺めさせてもらおうかな」
「ええ、ボス。今日は祝杯ですねえ」
陽気に運転手の近藤は言います。道は街灯がなく、薄暗い住宅地を走り抜けています。どうやら三田の高級住宅街あたりまで来たでしょうか。
二十面相は奪ったダイヤの指輪を、じっくりと観察します。極上の輝き、惚れ惚れとするような心を恍惚とさせる輝き・・・ですが、何かが妙です。
「・・・おかしい、これは・・・ダイヤの輝きではない?」
二十面相は怪訝な表情で、そうつぶやきます。やがてその表情は、憤怒といえる激情に満ちた顔となりました。
「ちくしょう!やられた、この指輪は偽物だ!」
自動車の中いっぱいに響き渡る声で、二十面相は怒りを露わにしました。
「え、なんですって!」
近藤も素っ頓狂な声をあげて反応します。
「だが、ショウケースに入っていたときは、たしかに輝きが・・・まさか、ケースのガラスに細工でもしやがったのか・・・して、そんなことをするのは・・・あの英国帰りの小僧ではないな。もしや・・・」
怒りから疑念の表情に様変わりするのは、これこそ二十面相の所以かもしれません。ふいに、二十面相は外の様子に気づきました。
「・・・おい近藤、ここはどこだ。なんだか、坂を下っているではないか。うん?乃木坂・・・なぜ乃木坂をくだる、道がまったく違うじゃないか」
素直な疑問を口にした二十面相でしたが、その表情はすぐさま疑念と怒りにとってかわられたのです。そして、問いかけられた近藤も、返事をしません。街灯や商店の灯りが増えてきた乃木坂の道を、銀座方面へ走らせています。
「・・・キサマ、近藤ではないな・・・?」
二十面相はその名に違わず、表情をアッという間に変えます。疑いそのまま、近藤を凝視しています。そして、その正体に薄々気づいているのです。
「ふふふ。ボス、ご冗談はおよしなさいな。あたしゃ運転手ですぜ、向かうべき場所へ向かっている職務を果たしているだけでさぁ」
間違いありません。声も、話し方も、近藤なのです。ですが、こんな芝居じみたカタチで不敵に笑う者など、二十面相の部下には誰ひとりおりません。
自動車は乃木坂から虎ノ門付近へと出ています。深夜の時間帯になってますが、まだ人通りも多い地域です。もちろんその中には、銀座で繰り広げられたショウを観にきた人々も大勢います。そのまま、銀座へ向かい始めたのです。
「うぬ!」
二十面相は外へ飛び出そうと、自動車のドアを開けようとしますが、まるでビクともしません。
「ボス、この車は中から開けられぬように細工をさせてもらったんでさぁ。このままいま少し、自動車遊覧にお付き合いくださいませんかねえ」
「いい加減にしろ!お互い、化かし合いはもうこれまでだ」
二十面相が言うと、近藤はシャッポを脱ぎ、まるで二十面相がそうしたように顔を剥がすのです。そうして、後ろ座席を振り返ります。
「キミとこうして自動車遊覧する時間、もうすこし楽しませてもらいたいね」
そうニッコリと微笑み、それでいて目は笑っていません。不敵な笑顔を見せるその男、近藤ではありません。うつし世の名探偵、明智小五郎だったのです。
「キサマ・・・ややっ、すると・・・」
二十面相は助手席で眠る小林青年に目を向けると、とっくに目を覚ました小林青年が目に入りました。こちらを向くその手にはピストルが握られています。
「うぬっ、よくも騙したな」
仕事の成功からよもやといった展開に、二十面相はいささか慄きそして怒りを隠しません。
「お前こそ、よくも僕を人質になどと考えたな。そうそう、お前の部下の近藤は、お前と同じ手法と眠り薬で眠ってもらったさ。いまごろ、銀座の路地裏で夢見心地だろうね」
余裕しゃくしゃくといったふうの明智探偵に比べて、小林くんはどこか緊張し強張っています。もちろん怒りや義憤からくるものもありますが。
「し、しかしいくらキサマといえど、あの警備網をくぐり抜けて指輪をすり替えるなど・・・第一、矢野とかいう小僧に捜査から外されていたではないか」
そうじっくり考えこむ二十面相でしたが、やがて「・・・ははあ。明智くん、さては・・・」と言い出しました。
「そうだね。今日はキミも盗人支度で忙しく、従者の小泉氏に化けることはしなかったようだが・・・今日になって、前澤氏を訪ねた米国帰りの富豪がいたそうだね。普通なら丁重にお引き取り願うところだが、出資者である伊藤商事の伊藤忠総帥から紹介を受けたとあっては、前澤氏も断れぬだろう」
「さすがだね、鮮やかなものだ。元よりそんな米国帰りの成金とやらは存在しなかった。いや、キミは存在しない成金に化けて、ダイヤの指輪に近づき、すり替えたというのだね」
「敵を欺く前に、まず・・・というヤツだね」
残念ながら、今回は明智探偵が1枚上手だったようです。それを悟った二十面相は、険しい表情を落ち着かせ、むしろ微笑すら浮かべました。
「・・・参った。認めるのは癪だがお見事と言うべきだね、明智クン」
「二十面相、抵抗しても無駄だぞ。今度こそ観念するんだ」
「小林クン、そうカッカしなさんな。もう僕には逃げる術がないのだ。往生際まで悪党でおるつもりはないよ」
そうは言いますが、これまで何度も、捕らえられては逃げ出すを繰り返した二十面相です。油断はなりません。
「どうれ、間もなく目的地だ。二十面相、キミとの自動車遊覧、楽しいものだったよ」
自動車はすっかり人もまばらとなった銀座・東光百貨店前に到着しました。和光時計台の針は、午後10時40分をやや回ったと指しています。
「明智クン、まるでご婦人との別れ際に吐くような、浮ついたセリフはやめたまえ」
達観したようでいて、二十面相も内心穏やかではありません。精いっぱいに皮肉を言いました。
自動車から明智探偵と小林くんが降りると、近寄ってきた警邏の者に何かを告げます。ややあって、中から刑事が大勢やってきたのです。
「おお、二十面相!ああっ、小松!大丈夫か!」
真っ先に後ろ席のドアを開けたのは、園田部長刑事でした。年齢を重ねて落ち着きを見せても、こうして血気盛んで真っ先に飛び込んでくる性格は変わりません。二十面相の隣でのびている屈強な刑事を下ろすと、二十面相にピストルを向けました。
「二十面相、年貢の納め時だな!神妙にしろ!」
いまにも発砲せんとばかりの怒りをぶつけてくる園田部長刑事に対し、やれやれ、といった風に、二十面相は両手を挙げて自動車を降りました。園田部長刑事以下、刑事たちはいっせいに二十面相へピストルを向けます。皆、二十面相の恐ろしさと狡猾さを知っているので、微塵の隙も見せません。
「ああ!明智先生!それに小林くんも!」
百貨店から血相を変えて飛び出してきたのは、顛末を耳にした本物の前澤氏でした。それまでダイヤの指輪をまんまと盗み出されたことに、激しい怒りと落胆を同時に味わったことで血圧があがったのでしょう、しばらく1階に臥されていたそうです。
「ご安心ください。ダイヤの指輪は無事です。わたしが責任をもって保管しております」
明智探偵は不敵な笑みを浮かべながらも、この成金が喜ぶであろう言葉を口にします。
「なんと!いったいどうやって・・・いや、それはもう良い。間違いなく無事なのですな!」
「ええ、もちろん」
それを聴いた前澤氏は、その場に膝をついてうれし泣きを始めました。今回最大の被害者といっても良いでしょう、小泉従者も毛布をまとったまま、外へ出てきて主人へ寄り添います。
さて、刑事諸氏に囲まれた二十面相はそんな様子を、なんとも面妖な面持ちで見遣っております。
「このヤロウ、何をヘラヘラ薄ら笑い浮かべてやがる」
許されるなら、これまで帝都を大きく騒がせてきたこの怪人をこの場で撃ち倒してやりたい・・・そんな気持ちをあらわにしたような勢いで、園田部長刑事が怒鳴ります。
そこへ、園田部長刑事以上に逸る気持ちの治まらない男が現れました。矢野警部です。
「怪人二十面相、キサマを窃盗と騒乱の罪で逮捕する」
矢野警部は自身の名誉挽回、何より権威失墜を取り戻すかの如く、強い口調で二十面相へ手錠をかけます。
真っ先にハッとしたのは、明智探偵でした。
「しまった!」
この名誉挽回に生命をかけんとばかりの若き警部の素早い行動に、すっかり気がつきませんでした。明智探偵からややあって、園田部長刑事を始めとした周囲の刑事たちも「・・・あっ!」と声をあげたのです。
「なにっ!」
矢野警部は、間違いなく二十面相の手首に手錠をかけました。ですがその手首が、すっぽりと手錠ごと抜けてしまったのです。
その抜けた手首から、ものすごい勢いで白煙が上がりました。目の前で煙に包まれた矢野警部はたまりません、目が痛み、まるでぜんそく患者のように咳が止まらなくなります。周囲の刑事たちも慌てて距離を取ろうとしますが、それ以上に白煙で目と喉を大いに痛めてしまいました。
これには明智探偵も小林くんも前澤氏も、慌てて逃げ出す他ありません。まだわいわいと残っていた野次馬たちも、その白煙に咳き込むばかりです。
どうにか白煙が晴れて落ち着く頃には、数分が経過していました。どうにか立ち上がった矢野警部は、涙と涎で顔がぐしゃぐしゃです。
そのころには、すっかり二十面相の姿は消え失せておりました。
「緊急配備!」
咳と一緒にそう怒鳴る園田部長刑事でしたが、満足に目を開けられる刑事や警邏の者は多くありません。野次馬たちも「こりゃたまらん」と咳き込んでいます。二十面相かどうかたしかめる術はこの夜闇の中ありません。第一、すっかり変装した二十面相はとっくに紛れ込んでどこかへ逃走したことでしょう。
「うぬう、なんということだ!二十面相のヤツめ!」
白煙を吸い込んでしまった前澤氏はゲホゲホと咳をしながらそう怒鳴りましたが、また血圧が上がってしまったのでしょう。フラフラと倒れ込みそうになり、小泉従者に抱えられております。
「先生、これはもはや・・・」
鼻と口を衣服で覆い、少しばかり目から涙を滲ませている小林くんが話しかけます。
「我々はダイヤの指輪を二十面相の魔の手から守り切ったが、二十面相はまんまと逃げおおせてしまった。残念だが、今回も引き分けだな」
同じようにハンケチで鼻と口を押さえる明智探偵が言いました。和光時計台は、間もなく午後11時を示そうとしていました。