距離を置きたいだけなんだけど 作:ろしでれ
玄関の鍵を開け、政近は部屋へ入る。
「ただいまー」
誰もいないリビングへ向けて何となく声を掛けながら靴を脱いだ。
政近の父は相変わらず海外出張中なので家には誰もいないのが普通……だが。
「(……少し遅いな? 何かあったか?)」
今日は、以前から言ってた通りしばらく有希くる、それも今日は泊まりに来る予定だったのだが、まだ帰ってきていないらしい。
アリサを送っていった帰りだから自分のほうが遅くに着く計算になる筈なのに、だ。
政近はちらりと腕時計へ目を落とす。
「……実家に寄る用事でもあった、か?」
迎えの車の件は体裁を整えるためのもの。実は兄妹だということは、生徒会のメンバーも学園のメンバーもほぼほぼ知らない超極秘事項のようなもの。唯一例外がいるが、身内も同然なので省いてる。
車で迎えに来てもらいつつ、ここへ来るとなると、どれだけ時間がかかっても、そんなに遅くならないはず、だが……。
「まあ、子供じゃあるまいし、大丈夫か」
そこまで気にすることでもない、と政近は頭を振った。本性はともかくとして、有希はこの上なく優秀な妹だ。心配するだけで損、というものだろう。
……それでも、兄としては心配してしまうのは性のようなものか。
政近は頭を掻き、制服のネクタイを緩めながらリビングへ向かう。
冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、一口飲んだ、その時だった。
──ガチャ。
玄関のドアが静かに開く音。
呼び鈴もなく、遠慮もなく、堂々と入ってくるのは泥棒とかを除けば最早1人しか知らない。
「お、噂をすればなんとやら、だ」
やはり心配は杞憂。損である、と確信しつつ、政近は顔を向けて立ち上がり、ゆっくりとリビングの扉を開く。そこには玄関を開けて入ってきた有希が、小さく靴を揃えているところだった。
「おう、おかえり有希。遅かったな?」
「……ただいま、お兄ちゃん」
その返事を聞いて、政近は思わず瞬きをしつつ2度見もした。
────妙だ、あまりにも違和感がある、と。
普段なら
『お兄様ぁ、愛しの妹様が帰ってきたぞー』
だの
『おかえり〜〜! アーリャさんとよろしくやってきた割にはご帰宅時間早くないかい? 兄者よ』
だの
一言目からテンションあげあげの騒がしい妹なのがデフォルトだ。
それなのに今日は、妙に静かな出だしだった。嵐の前の静けさ、と言えなくもないが、そもそも嵐が標準装備みたいなものだから、静けさ、にする必要性さえ、有希には無いはずなのである。
「……どうした?」
「うん、なにが?」
「いや、お前がそんな大人しいの珍しいから」
「……そう?」
有希は首を傾げて笑ってみせる。
だが、その笑顔はどこかぎこちないし、上の空。
まさに、心ここにあらず。
そんな言葉が妙にしっくりきた。
「……何かあったのか?」
「別に? 何も無いよ」
即答だった。
即答だったが。
長年兄妹をやっていれば分かる。
何もない人間は、そんな顔をしないし、それが有希であれば尚更。自分の前で取り繕うなんて無いのだ。
「…………」
「…………」
妙な沈黙が流れる。
テレビも点けていないリビングは、妙に静かだった。
やがて有希は、小さく一礼すると、
「ちょっと、部屋借りるね、お兄ちゃん」
「ん? おう。……は?」
そう言い残し、有希は政近の部屋へと消えていく。いよいよもって訳がわからない。無断侵入を普段からしてくる有希がわざわざ了承を得ようとするのもわからないし、そもそも入る意味もわからない。
「……ちょ、おい、有希?」
呼び掛けても返事はない。
政近は眉をひそめた。
「(マジでどうしたんだ……?)」
ファミレスからの帰りに何かあったのか、それとも体調でも悪いのか。
珍しく心配になり、後を追うように政近も見に行くことにした。そっとしておくのも正解かもしれないが、今は見に行くことを選んだ。それが後悔に繋がるとも知らずに。
部屋の前へ着くと、扉は半開きになっていた。
「有希?」
コンコン、と軽くノックをしながら扉を押し開ける。
その瞬間だった。
『────ふおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!』
「うぉっ!?」
突然、ベッドへダイブしながら絶叫する妹の姿が目に飛び込んできた。
「────ふおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
2度目の奇声絶叫。
部屋中へ響き渡る絶叫。ある程度は音漏れしても大丈夫な位置に家はあるのだが、ご近所に聞かれてないか? と不安になってくる……以上に有希の奇っ怪な行動に目が点になる政近。
そのまま有希はベッドへ顔を埋め、枕を抱き締めるように両腕を回した。
バタバタ。
バタバタバタバタ。
脚だけが忙しなく動いている。
「は……? え?」
政近は部屋へ入ったまま、その光景を唖然とした様相で見つめていた。
──なんだこれ。いや本当に。なんだこれ。
有希は今でこそ周防家と久世家で別れているが、小さい頃から何度何度も見てきた妹である。離れても交流を絶やさない自慢の妹である。
機嫌が良い日も。
落ち込んでいる日も。
怒っている日も。
そして、意味不明なテンションの日も。
一通り見てきたつもりだった。
だが、今回のこればかりは初めてこ事で困惑している。
「あの…………有希さん??」
恐る恐る政近は話しかけるが、有希から返事はない。バタバタバタ、と忙しなく脚をバタつかせている。普段ならばスカート姿だというのにはしたない! と言いたくもなるが、今は政近にも余裕は無かった。
枕へ顔を押し付けたまま、小さく肩だけが震えている。
顔は枕に押し付けてるので見えないが、体勢的に泣いている……ようには見えなくもない。
もしも、万が一にでも、あの有希が泣くような事があればそれこそ異常事態。
泣かせるような事があるのならば、本当に許せない。全力をもって根源を断絶する気分にもなってくる……が、まだまだ真偽が、真意がわからないから行動のしようがない。
暫く感情が限界を迎えた人間だけが出せる、何とも言えない空気だけが部屋を支配していた。
「おい」
また、声を掛けてみる。
先ほどよりは動きが鈍くなっている様なので、声を再びかけたのである。
すると、有希は枕へ顔を埋めたまま、右手だけをひらひらと振った。
『今は話し掛けるな』
そんな意味なのだろうか。
或いは。
『大丈夫大丈夫!』
と言っているのだろうか。
有希と兄妹になって10数年。
ここまで読めないのは初めてのことだ。
「(これは本格的に何かあったな)」
政近は軽く頭を掻きながら部屋へ入り、勉強机の椅子へ腰を下ろした。
無理に聞き出すつもりはない。
有希は、話したい時は勝手に話す。
逆に話したくない時は、誰であってもその口を割らせることは出来ない。
それくらい頑固な妹だ。
だから待つ。本人が口を開くまで。
部屋には、有希が枕へ顔を埋めたまま時折漏らした。
「うぅぅぅぅ……」
という唸り声だけが響いていた。
体感時間は異様に長いが、時間にして数分程度で、ついに有希はガバッ! と身体を起こした。
「……お兄ちゃん! 男であるお兄ちゃんに聞きたいことがありまする!!」
「ッッ!! お、おう?? 何でも聞いてくれ!」
どういう表情を、してるのかわからない。でも声色と勢いはいつもの有希。ただ、顔を見せられないのは羞恥の表れか、
「と、言うわけでお聞きします!! 尚、虚偽は重罪だぜ!」
「いや、内容によるわ。不穏な気配する以上安易に頷けねーし」
一体何を聞いてくるかわからない。なのに、安易に約束しようものなら、またある意味の生殺与奪を有希に握られかねないのだ。BL疑惑とか。
それはそうと、有希は特に何も言うことはなく、約束させることもなく、続けた。
「男の人ってさ──────」
そこで一度言葉が止まる。
まるで、この先を口にしていいものか迷っているようだった。
「…………」
「…………」
政近も急かさない。
いや、急かせなかった。
何となく、ここで茶化したら、本当に何も話さなくなる気がしたからだ。
また異様に体感時間が長い沈黙の末。
ようやく有希は、小さく息を吐いた。
「…………その、えっと……ねえ?」
「おう」
「
「……………………は?」
政近の思考が、完全に停止した。
それは、ほんの数10分ほど前のこと。
夜道に響いた、小さな泣き声。
それは決して大きなものではなかった。
車が一台通れば掻き消えてしまいそうなほど弱々しく、震えた声。それでも伊織は、その一声だけで足を止めて、視線を向けた。
街灯の明かりが辛うじて届く植え込みの傍。
小さな女の子が、膝を抱えるようにしゃがみ込み、嗚咽を零し肩を震わせていた。
迷子。そう理解するのに時間は掛からなかった。
伊織は駆け寄ることはしなかった。
驚かせないように。
怖がらせないように。
ゆっくりと歩幅を落とし、女の子の前で静かにしゃがみ込む。
視線を合わせる高さまで腰を下ろし、優しく微笑む。
やがて嗚咽が落ち着き始めて事情を聞くと、女の子は袖で涙を拭いながら、話してくれた。
家族でご飯を食べに来たこと。
気になったものを見付けて、お店の外へ出てしまったこと。
戻ろうとした時には、お母さんの姿が見えなくなっていたこと。
外は暗くて、お母さんもいない、お父さんもいない、自分は1人だと感じるようになって、怖くなって、もうどうすればいいか分からなくなってしまった、と。
話を聞き終えた伊織は、周囲をゆっくり見渡した。
この辺りで家族連れが食事をするようなお店は、そう多くない。
少し先にあるファミリーレストラン。
自分たちが剣崎にご馳走になった、あのお店くらいしか思い当たらない。
──向こうへ戻ってみようか。
そう言い掛けた、その時だった。
女性の切羽詰まった声が夜道へ響いたのは。
振り返ると、そこには息を切らせながら、一人の女性がこちらへ向かって全力で走ってきていた。
その姿を見付けた瞬間、女の子の表情がぱっと明るくなった。
「ママ!」
泣きながら駆け出す小さな背中。
そのまま勢いよく母親の胸へ飛び込み、二人は強く抱き締め合った。
何度も謝る母親。
何度も「ごめんなさい」と首を振る女の子。
それでも最後には2人とも笑っていた。いい笑顔だった。
その光景を見つめる伊織くんの横顔は、とても穏やかだった。
誰かに感謝されたいから助けた。
そんな表情じゃない。
ただ、見つかって良かった。
心の底から、そう思っている顔だった。
『……やっぱり、伊織くんは変わらない。困っている人がいたら、助けてくれる』
そこには見返りなんて考えないんだろう。昔、助けてくれた時もそうだった。
『だから私は』
どこか、眩しいものを見るように視線を細めて、そして笑顔で有希は想う。
『そんな伊織くんのことを、尊敬するようになっていたんだ』
そのまま、根っからの淑女に育っていたら、周防家の望む周防有希そのままに育っていたとしたなら、もしかしたら伊織を白馬の王子様のように見初めて、今は周防家に迎え入れていたかもしれない。
そして有希は望みを叶えるために祖父を納得させるだけの結果を出し、更に周防家の何相応しい成績を残せるであろう伊織。
それらを鑑みると、まるで未来が見通せるようだ。
生憎、それは妄想の域、パラレルワールドでしかないが。
なぜならば有希は我が道行くスタイルを貫いている。愛すべき、オタク文化をその身で堪能している。心ゆくまで。
だけど、欲張りだから。
『欲しいものは何としても手に入れる。それに困難なほど、障壁が、あればあるほど……燃える展開だよね!』
そう、心に改めて決めていたのだ。
「やっぱり、伊織くんってすごいですね」
安心し切ったように、母娘を見守る伊織に、有希は隣に立つとぽつりと呟いた。
「ん?」
「困っている人を見つけたら、迷わず助けに行く。そういうことって、簡単そうで、案外できる人はいないと思いますよ」
有希の言葉に伊織は少し照れくさそうに笑った。
「それは大袈裟だよ。別に大したことしてないって」
「大したことしてます。大袈裟でもありません」
有希は首を横へ振った。
その表情は、いつもの悪戯っぽい笑みではない。
どこまでも真っ直ぐで、飾り気のない笑顔だった。
「私だったら……あんなに落ち着いて動けませんでした」
「そうかな? 周防さんも僕と同じことをすると思うけど」
「ふふ。そう言ってくれるのは嬉しいです。ですが、私よりも遥かに早く、伊織くんはあの子を助けにいきました。それが事実です。────だから」
有希は伊織のほうを見て、そのまだ母娘を見守ってる優しい横顔を見ながら、
「尊敬してます。……あの娘にとってのヒーロー、ですね」
その一言だけで十分だった。
伊織は思わず目を丸くし、有希の方へ向き直る。
「ちょ、ちょっと待って」
頭を掻きながら苦笑を浮かべる。
「そういうの、面と向かって言われると……流石に恥ずかしいんだけど」
「ふふっ」
珍しく照れたように視線を逸らす伊織を見て、有希は思わず笑みを零した。
その笑みが、まだ完全に消えないうちだった。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
小さな声が、すぐ近くで弾んだ。
母親の腕から離れた女の子が、両腕を大きく広げて駆け寄ってくる。
無邪気な、感謝の全力疾走。
だが、伊織はすでに体の向きを変えていた。
有希の言葉に反応して、彼女の方へ向き直っていたのだ。視線も、はっきりと有希に向いている。
そのせいで、女の子が飛びついた先は、伊織の正面ではなかった。
背中だった。
「わっ——」
後ろからの、完全に予期しない衝撃。
如何に小さな体とはいえ、体勢を変えた直後の、まだ安定していない姿勢に真後ろから乗られる形になれば、流石に踏ん張りきれない。
伊織の体が、半歩ほど後ろへ、そして有希の方向へと傾く。
有希も、その傾きに気づいていた。
とっさに手を伸ばす。支えようとして、抱きとめる。
「っ!!」
支えようと伸ばした腕が、伊織の背中に回る形になった。
同時に、傾いた体の勢いで、互いの距離がぐっと縮まり、結果必然的に、伊織と有希の距離はゼロになった。
そして、それは極限まで圧縮された時間の中で。
「(うおおおおおおおおおおおっ!!)」
有希の脳内で、何かが爆発した。
「(来た来た来た来たぁぁぁぁぁっ!! ラブコメ王道イベントッ!! しかもこのタイミング!? こんなの漫画でも「ベタだけどやっぱり最高!」って言われるやつじゃん!!)」
よくある。本当によくあるやつ、である。
何かの拍子で身体がよろけて、それを支えるために抱き合う。嬉し恥ずかしのイベントで、専用のイラストが描かれるやつである。
そして有希の思考はまだまだ止まらない。
「(世の男子が一度は妄想する神イベント!! いや、むしろ夢イベント!! ラノベでも漫画でもアニメでも、この展開を何度見てきたことか!! 王道! 王道中の王道ッ!! 現実で起こらんやつ!!)」
胸の鼓動とは別に、オタクとしての血が騒ぐ。
「(いいぞぉぉぉ!! これだからラブコメは最高なんだよぉぉぉぉっ!!)」
そこまで一気に駆け抜けた、その瞬間だった。
「ご、ごめっ────」
伊織の声に呼応する様に、時が少し動いた。
――いや、待って………。………え。
今起きているのは
──私が。ヒロイン側……?
その一言が頭に浮かんだ瞬間、止まった時から、音が消えた。さっきまで脳内を埋め尽くしていた実況も、興奮も、歓声も、嘘のように静まり返った。
代わりに聞こえてきたのは、自分の鼓動だった。
どくん。
どくん。
どくん。
──……近い。伊織くんが、近い。
支えようと伸ばした腕の中にある重み。着痩せするタイプなのか、想像以上にガッチリした体躯。
服越しでも感じてしまう、触れてしまったその体温。
ふわりと届く、どこか安心する匂い。あの時と変わらない匂い。
かあっと、頬が熱くなっていた。
大型イベントが、いやそれを遥かに超える超大型イベントを有希は認識した。
そして夜でよかったと、暗くて、本当によかった、と。
こんな顔を見られたら、きっと私は――。
「…………っ」
息を呑むことしか、できなかったが、時間があまりにもゆっくりと流れてる。伊織の声で進んだように思っていたのに、極限まで圧縮された体感時間、というものをリアルで有希は味わっていた。
だから────だろうか。
抱き合わさり、伊織が慌てて離れる刹那の瞬間だったはずなのに。
有希の意識が、ほんの一瞬だけ、別の感触に引っかかった。
──……何かが、当たってた?
伊織の体の、少し下の方から。
服の生地越しに、硬く、はっきりとした感触が、自分の下腹部あたりに伝わってきていた。
『……え』
頭の中が、真っ白になる。
『今のって…………?』
有希は初心なつもりはない。
男兄弟がいる。兄である政近がいる。更に言えばオタク脳を共有できる政近がいる。だからこそ、分からないわけがない。
その手の類の作品も山のように見てきているのだから。
普段の有希なら、ここで脳内実況が始まっていたかもしれない。
『密着からのこれ!? 薄い本よりの王道中の王道じゃん! 神イベきたあああ!!』
と、オタクとしての血が騒いで、ネタとして処理しようとしたかもしれない。
だがそれは、あくまで、他人事として見た場合に限り、なのだ。
そしてその後は殆ど頭に入らなかったが、いつもの対応は出来てたと思う。ぶつかった事を母が詫び、娘は笑顔。
伊織はしっかりと対応して、有希自身も笑顔で手を触れていた。
そこまでは良い。
その先の伊織の対応が直ぐにいつも通りに戻っていたのがかなり引っかかっているのである。
そして、元の時間軸へ戻る。
政近は先ほど有希が言っていた言葉を脳内で反芻していた。
『男の人って……反応してるの、相手にバレても……普通にしてられるもんなの?』
「……………………は?」
何度か反芻して、ついには政近の思考が、完全に停止。
有希の言葉が、あまりにも唐突で、あまりにも核心を突いていたせいで、頭の中が真っ白になったのである。いや、普段もこんな風になる事は多いが、あくまで二次元的な要素満載の時に限ったりしているわけで、まるで自分の、実体験のような感じで言うことなんてこれまでには無くて────。
数秒後、ようやく脳が再起動した。
「……よし、ちょっと待て。今の、もう一回言ってくれ」
「? 男の人って、硬く反応してるの相手にバレても……普通にしてられるもんなの?って」
有希は表情はそのまま、顔だけ赤くさせたまま、平静を装いながらバカ正直に伝えた。
視線は決して逸らさずに政近を真っすぐ見ている。
普段の「お兄様ぁ〜」という調子は微塵もなく、本気で答えを求めている目に見える。
政近は椅子に座ったまま、ゆっくりと息を吐いた。言葉の真意を問う前に、告げる。
「……そりゃ状況によるな」
「状況?」
「相手が誰かとか、どこまで関係が進んでるかとか、後は場所がどこか、か? ……全部で変わる。ただ」
そこで一度言葉を切る。有希が身を乗り出してくるのがわかったからだ。
「正直に言うと、バレた瞬間に『普通』でいられる奴は少ないと思う。特に意中の相手、気になってる女の子だったら、尚更だ」
「……そっか」
有希は小さく呟くと、再び顔を枕に埋めた。今度はバタバタしなかった。ただ、耳まで赤くなっているのが見えた。
そして政近も頭が冷えてきたのか、大分考えを巡らせる事ができるようになってきた。
と言うより、有希がこんな風になる相手ともなれば……そう、あの『大型イベント』を発生させたあの男しかいない。
「……なあ有希。伊織と何かあったんだな?」
政近が静かに言うと、有希の肩がびくりと動いた。
「……かなりデリケートな話だし。有希が話したくないなら無理に聞かない。でも、兄として一応言っとく」
「……なに?」
「もしも、俺が言ったのが正しいっていうなら——」
有希の体が、明らかに強張った。
政近はそれを見逃さなかった。
「——ちゃんと誠実になれよ。前も言ったが伊織は希少種だ。いい男だって俺もわかってる。変なことするやつじゃないからな(俺以外……)」
部屋に、再び沈黙が落ちる。
有希はしばらく動かなかったが、やがて枕から顔を上げた。目元が少し潤んでいる。
「……お兄ちゃん、私ね、薄情しちゃうとね? 伊織くんと、ちょっと……密着、しちゃって」
「は? 何?」
「支えるつもりが、結果的に。で、そのとき……」
「いや、マジ声小さいもっと大きな声だせよ」
有希は言葉を濁した。顔がさらに赤くなる。
「……何か、硬くて。当たってて、……って、あーーーもう!!」
有希は絶叫する。
「こんな言わせんなよバカ兄者!! そうだよ! いおりんと抱きついたんだよ! 抱きしめたんだよ!! そんでもって、その時
私の下半身に、いおりんの硬いのが当たってたんだよ!!!」
どうにでもなれ、精神で有希は絶叫した。
この場にいるのが、政近だから大丈夫、と打算的な考えも少なからずあったが、最早ヤケクソ、と言う方が正しいだろう。
また数秒政近は固まる。そして徐々に動かせるようになり、表情が微妙に引きつった。
「……で、お前はそれを『反応』だと思った、と」
「思ったも何も、明らかに! 硬いし!」
「いや、待て。そんな抱きついたのか? 伊織が有希ね? いや、お前がか? 誰が見てるかわからん道端で? そんなわけないだろ」
「シスコンお兄ちゃんにとっちゃ脳破壊〜〜……って、あ、うん……。まあ、数秒、とか? いや、一瞬? わかんない」
「そんなんでわかるか。普通に無理だ」
政近は呆れたように息を吐いた。
「でも確かに感じたんだぜ!! いおりんを! 男の獣欲を!!」
「お前の主観だろ。脳内補正。伊織の風評被害になりかねねーし! そもそも反応してない可能性が高い、数秒、一瞬とかだったら尚更!」
「いーや違うね! 絶対にあれは……!」
有希はヤケクソ気味ではあるが、当時の光景を思い出せば出すほどに、顔が熱くなるのを感じる。
恥ずかしさと、どこかで感じている嬉しさと、それを認めたくない気持ちが、ぐちゃぐちゃに混ざっているのが、政近にはわかった。
だから、あえて少しだけ毒を吐く。
「……お前、実は伊織に反応されたくて、反応されたことにしたいだけだったんじゃないのか? だから普通? な伊織を見て戸惑ってる感じ?」
「なっ……ななっ!?」
有希がばっと顔を上げる。
「違うわーい! これはそう! 起きた事実を言ってるだけなのさ! 私の中の私がそう叫んでる!」
「いやだから、事実かどうかは怪しいもんだな。伊織が反応しない、とまでは言わないが、ほんの一瞬って考えたらそうとしか思えん」
「お兄ちゃんはいいよな! いつもアーリャさんのことばかり見てて、おっぱい星人なんだから! 私みたいな魅力には気づかないんだから! いおりんが私の魅力に気づいた可能性だってあるだろ!」
「なんでいきなりアーリャが出てくるんだよ!?」
「そりゃ、私だけラブコメしてたらお兄ちゃん可哀想だろ!? ラブコメの世界へようこそ! だよ! そしてお兄ちゃんみたいなおっぱい星人にはわからない魅力が、この私にはあるんだからね!」
有希は自分の胸をわしわし、と掴んで揺らせながらいった。
「私のCカップで、いおりんを悩殺しちゃったんだよーーー!! あーー、罪な女だ私! 難攻不落、お兄ちゃんより先に落としちゃったもんねーーー!」
「カップ数を叫ぶな!! てか、なんだよ俺より先って!!!」
その後、暫く有希が落ち着くまで、発散するまで、政近と言い合いが続くのだった。
そして丁度その頃伊織はと言うと。
「くしゅん!!」
突然むずむずしていた鼻腔。
くしゃみを1つして、軽く啜ると。
「風邪ひいたらダメだよ」
「多分大丈夫。あ、忘れてた」
思い出したかのように、ポケットを弄り、何かを取り出した。
「はい、ご注文のR2」
コンビニにて、購入しずっと入れっぱなしだったもの。
ポケットに忍ばせていた某人気乳酸菌飲料をポイっと投げ渡すのだった。