距離を置きたいだけなんだけど 作:ろしでれ
教室へ足を踏み入れると、今日も見慣れた光景が繰り広げられていた。
窓際最後列。
席に着いたアリサは、隣で机に突っ伏したまま微動だにしない政近へ、いつも通り朝の挨拶を投げ掛ける。
もちろん政近からの返事はない。当然だ、完全に寝ていて夢の世界の住人になっているから。
それで数秒後。
乾いた衝撃音が教室に響き、政近の間の抜けた悲鳴が朝の静寂を見事に打ち破った。
教室中から苦笑混じりの空気が広がった。
今日初めて同じクラスのメンバーならまだしも、2人を知る身とすれば、これもまた見慣れた光景だと言えるだろう。
「おはよう久世君。また深夜アニメ?」
「おぉ……おはよう、アーリャ。ま、そんなとこだ」
そんなやり取りも、もはや様式美。
真面目を絵に描いたようなアリサと、不真面目を体現したような政近。
噛み合わないようで噛み合っている二人の掛け合いは風物詩。中学時代にも何度も見ているから。
その後は政近の説明。
深夜までアニメを観ていたこと。
その後も眠気を忘れるほど作品について語り続けていたこと。
オタク友達と寝る間を削って語り明かしたこと。
政近が悪びれる様子もなく語れば、アリサは呆れたように小さくため息をつく。
もっとも、その表情には本気で怒っている様子はなく、いつものことだと言わんばかりだった。
そんな二人のやり取りを横目に見ながら、僕は自分の席へ向かう。
教科書を机へ置き、鞄を掛ける。
新しい教室。
新しい高校生活。
もっとも、2人を観れば、なんだか中等部の頃と何も変わっていないようにも思えるから不思議だ。
「おっ、伊織」
席に着いた僕へ、眠そうに目を擦りながら政近が振り返る。
その顔には、昔と変わらない気安さがあった。
「あ、おはよう」
「おう、おはよう」
短く挨拶を交わす。
それだけで終わるはずだった。
「そうだ。昨日の『クロノス・レコード』見たか?」
政近の目が一気に輝く。
ああ、この顔だ。
好きな作品を語る時の、あの少年みたいな顔。
高校になっても変わってない顔。オタクの顔だ。
「文句なしの今季ナンバーワン候補! 作画もヤバいし、戦闘シーンなんて映画かと思ったわ。しかもラスト五分! あれ絶対続き気になる終わり方で!」
熱量そのままに語り始める政近。
昔なら。
ここから二人で一時間くらい平気で語り合っていただろう。
演出がどうだ。
原作との違いがどうだ。
声優の演技がどうだ。
気が付けば話題は漫画やラノベ、ゲームへと広がり、放課後まで終わらない。
そんなことも珍しくなかった。
僕はほんの一瞬だけ口を開きかける。
――昨日なら、こう返していた。
『あの作画、ヤバかったよ』
『ラノベ原作だけど、どうするのかな? って気になってたけど、完璧に再現してたし』
そんな言葉が喉元まで込み上げる。
だけど。
「……いや、見てないよ」
伊織はその一言だけで終わらせた。
政近の熱弁から、一気に温度が変わるよう。まるで静寂が突然降りてきたかのようだ。
「……え?」
固まっていた政近だったが、ようやく声が出る。
一瞬だけ教室の空気までもが止まったような気がした、のは政近だけだろうか。
「見てないって……お前が?? いやいや、そんな雰囲気出てたけど、あれは絶対に見る! って思ってたのに!?」
信じられない。
そんな顔だった。
いや、寧ろ裏切るのか!! と言わんばかりだ。
無理もない。
以前の、細かく言えば、アリサが来る2年生の時までの伊織なら、新作アニメはほとんど欠かさずチェックしていた。
対等に語れる男子は、盤上一致で伊織だろう、と諸手を挙げると思われていて、それを誰より知っているのは、政近本人なのだから。
「ちょっと最近はいろいろ忙しいから」
伊織は曖昧に軽く笑って、それ以上は続けない。
政近も何かを察したのか、それ以上深く聞いてくることはなかった。
「そっか……まあ、時間ある時にでも見てくれよ。絶対お前も好きだから」
そう言って笑う政近に、小さく頷くだけで返す。
そのやり取りを、左隣で聞いていたアリサは、僅かに目を瞬かせた。
「Он тоже смотрит аниме...?」
――真田君も、アニメを見るの?
あまりにもその事実が意外だったのか。政近の口ぶりだと、応えれるだけは見ていたように思えるが、彼女の中の伊織は、3年からの伊織しか知らないので、あまりにも人物像がつかめかねる。
少なくとも、驚異的に学力を上げてきて、迫ってくる感覚。後ろにつかれて、突き放されるような感覚を覚えたあの人物像とはかけ離れてる印象かのだ。
あれほど嬉しそうに話していた久世君との会話が、あまりにもあっさり終わってしまったことが意外だ。
どんより、と沈んでいる様に見える顔は、何だか可哀想にも思える。
だからといって、深夜アニメを見続けて、睡眠を忘れて、眠りこけるような政近に同情はしないが。
取り敢えず、一つだけ分かったのは。
政近が向けた熱量に対して、伊織の返事はあまりにも淡白だったということだけだろうか。
「……伊織が冷たいよなぁ〜。アーリャもそう思わん???」
政近が肩を落としてぼやく。
その言葉に、アリサは呆れたように小さくため息をつく。
「普段からもう少し真面目に生活していれば、そういうことも減るんじゃないかしら」
「違う違う、そういう話じゃないんだって!」
すぐさま身を乗り出す政近。
「オタクにとってアニメっていうのはさ、ただ映像を見るだけじゃないんだよ! 一週間待った期待とか、放送直後の熱量とか、語り合う時間まで含めて作品なんだ!」
力説する政近。
その勢いは止まらない。
「漫画だってそうだし、ラノベだってそう! 読み終わった瞬間に誰かと語りたくなるだろ!? そして、伊織はかつては同志だったんだ! 読んで字のごとく、同じ志をもつ存在にして、ソウルメイト!! わかるだろ、アーリャ!!」
「わかりません」
アリサが即答する。
「……」
僕は教科書を開いたまま、小さくページをめくる。
「伊織、お前は分かるだろ……? 思い出してくれるだろ……?? 記憶、失ったわけじゃないんだろ……?? 何かの主人公みたいに」
またどんよりとさせながら、縋るように名前を呼ばれる。
けれど僕は視線を教科書から外さず、小さく首を横に振った。
「ごめんね。今は予習の続きしてるから。始まりから躓かないようにしないと」
「うっ……」
「まったくね。私も真田くんと同意見」
アリサは、伊織の手元を見る。さっそく勉強している姿にある種の尊敬と感銘を覚えるが、それで終わりとするわけじゃない。
「Я тоже не хочу проиграть Санада-куну」
――私も真田君には負けたくないんだから。
強烈なライバル意識が、アリサのロシア語から伝わる。
そう言えば、デレるときに使うのではないか? と、思ったりしていた時期もあるが、もう特に考えなくなったりもしていた。
そんな2人を、ちらちら、と交互に見て言葉を失う政近。
左を見れば、呆れたようなアリサの視線、そして教本を取り出そうとする。
右を見れば、教科書へ目を落としたままの伊織。
「……今日は両側とも冷たい。ブリザードに囲まれた気分」
小さく漏らしたその愚痴に、返事をする者はいなかった。
何度も確認するが、その度に政近はがっくりと肩を落とした。
オタクがオタクを卒業するなんて、信じられない、信じたくない、と言わんばかりに。
でも、現実は変わらない。
右を見れば、教科書へ視線を落としたまま予習を続ける伊織。
左を見れば、呆れたような目を向けながらも、対抗心で予習をしようとするアリサ。
これ以上は、どちらからも助け舟は期待できそうになかった。
「世間はオタクに厳しいぜ……。いつの間にこんな世の中になっちまったんだ……」
「大袈裟過ぎるし、自業自得じゃないかしら。これを気に学生の本分を思い出すことをおすすめするわ」
アリサは淡々と言い放つ。
「ぐっ……学生の本分……、それだけは否定できねぇ」
政近は机へ突っ伏し、小さく唸った。
そんな姿を見て、アリサはほんの一瞬だけ視線を向ける。
さっきまでの呆れ顔とは違う。
口元が、ごく僅かに緩んだ。
誰にも気付かれないほど小さく。
そして、窓の外へ視線を逸らしながら、ぽつりとロシア語を零す。
「Какой же ты милый...」
――そんなところも、本当に可愛いんだから。
「……っ」
政近は顔だけを上げて、アリサを見る。
けれど、アリサは何事もなかったかのように教科書を取り出している。
「あの、アーリャ?」
「何?」
「いや、その、今なんか言った?」
「別に? みっともないな、って言っただけよ。いい加減に大人になりなさい、とも」
「いや、まだ高校生だから……」
涼しい顔で返され、政近は最後に「そりゃ失礼」と付け加えた後に、肩を竦める。
――もちろん。
その言葉の意味は、政近は理解している。
彼女が操るのはロシア語だ。普通はロシア語を理解できる高校生はそうはいないが、政近は違う。
「Дурак, совсем ничего не замечаешь.」
――ばーか、全然気づいてない。
アリサは、ちらちら、と見ながら笑みを浮かべて続ける。
「Если бы ты был хоть немного серьёзнее, был бы даже довольно красивым. Хотелось бы, чтобы ты хоть немного взял пример с Санада-куна.」
――……真面目にしてたら、ちょっとはかっこいいのに。真田くんの影響、受けてほしいわ。
実に対比だとアリサは感じていた。
伊織のように、完全に冷めた政近は、あれだけど、ある程度は真面目になってくれれば、と思うのだ。
「Но я тебе этого никогда не скажу.」
――ま、一生伝えてあげないけど。
でも、思うだけに留めている。自分の胸の内だけで。と。
でも、アリサは知らない。政近に伝わっている。
「(いや、全部伝わってるんだけど!?)」
実は政近が、ロシア語が分かるということを。時々ボソッと漏らすロシア語のデレが、全部本人に伝わっているということを。
「(伊織の影響を受けたら良い?)」
そして、ちらりと伊織を政近はみた。
学生の鏡で、学生の本分をしっかりと体現している優等生がそこに映る。
アニメも、漫画も、ラノベも、全部捨ててあの領域に??
「……うん、無理」
「は? そっちも何か言った?」
「いいえ、なんでもございません」
不穏な感覚だったのか、アリサはジト目を向けるが、政近は降参したように手を挙げるのだった。
そして、ここでもう一つ。
ロシア語を理解できるのは政近だけじゃない。
「(やっぱり、こっちのほうがしっくりくる、かな)」
項垂れて突っ伏す政近の先にいるアリサを横目に、伊織は思う。
政近に対してのみ、使うロシア語が一番いい、と勝手ながら思うのが伊織だ。
ある種、政近と分かりあえる能力を兼ね備えている伊織だが……、同じ土俵に下りるつもりも、分かち合うつもりもない。
もう、遠い過去のように感じるが、政近に言った言葉。
※ハーレム系主人公は無理。NTRよりも嫌※
と言うもの。
かつて、ここではない日本の世界で。ずっと推していたヒロインが、酷い目にあい、そのまま恋にも敗れて、更にその後の結末も曖昧にされて、描かれてないという不遇っぷりを見せられて、それがトラウマレベルに昇華されて、嫌悪するようにもなったのだ。
「(だから、距離置きたい)」
「…………んん? なに?」
「いや、なんでもないよ」
「冷たい。春なのに、真冬……」
政近にとっては理不尽極まりない。
でも、こればかりは仕方ない、と思ってもらいたい。
オタク心の魂にまで刻まれた傷は、次元を超えてもなお、燻っているのだから。