距離を置きたいだけなんだけど   作:ろしでれ

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第20話 言ってなかったこと

 

乃々亜に耳元で囁かれた、たった一言。

それだけで引っ張り出された記憶は、あまりにも鮮明だった。

告白された時のことも。 乃々亜の表情も。 交わした言葉も。 そして最後、自分から余計なお世話まで口にして、逃げるようにその場を離れたことも。

 

何一つ、色褪せてはいない。

 

 

「…………」

 

 

それは長いようでいて、実際にはほんの僅かな時間。

過去から現在へと意識を戻した伊織は、すぐ隣にある乃々亜の顔へ視線を向けた。

 

 

「……いおっち?」

「…………」

「おーい、いおっち〜?? んー?」

 

 

じぃ、と。

乃々亜が伊織の顔を覗き込んでくる。

その距離の近さ、慣れることは無いけど、今更驚くことでもない。

乃々亜の距離感。その詰め方は有希とはまた違うタイプだが昔から知っている。

 

ただ、今は少々――いや、かなり間が悪かった。

 

 

「……あれ?」

 

 

乃々亜がぱちぱちと瞬きをする。

そして何かに気づいたように、口元を緩めた。

 

 

「やっぱ気まずかった?」

「あ、いや……」

 

 

反射的に否定しかけて。

伊織は口を閉じた。

気まずくない、と言えば嘘になる。自分が悪いことをしたとは思っていない、と言うか乃々亜にも言われたことだ。 告白されたからといって、それを受け入れなければならない理由なんてない、あの時の自分なりに考えて答えを出した。でも、理屈じゃない。頭では分かっていても、そう簡単にのみ込めることでもない。

鮮明に残すことが出来る記憶、と言うのはこういう時に厄介だと痛感させられる。

 

本人の口から直接『一回フッた女』などと言われてしまえば、その瞬間に頭の奥底にある記憶の扉が一瞬にして開いてしまうのだから。

 

 

「……その、やっぱり、えと」

「んんん? なになに?」

「フったって、言うのが、その────」

「あー」

 

 

乃々亜は納得したように手を打った。

 

 

「あはっ♪」

「……なんで笑うの?」

「だってー」

 

 

乃々亜はますます楽しそうに笑う。

 

 

「いおっち、やっぱまだ気にしてたんだなーって」

「ぅ…………」

 

 

図星だった。

だから何も言い返せない。すると、それだけで十分だったらしい。

 

 

「変わんないねー、いおっち」

「……何が?」

「そーいうとこだよ」

 

 

にっ、と笑ってみせる乃々亜。

指をぴん、と立てて1つずつまとめていく。

 

 

「いおっちは悪くないのに気にしてる、でもアタシが困るって言った部分まで考慮してくれてる、色々と考え過ぎてて、わ〜〜って感じかな?」

「ぁぅ………」

 

 

的確に見抜いてくるその観察眼は脱帽もの。

本当に本心まで見抜かれてしまった、と伊織は変な声が出た。

 

 

「あははっ♪」

「わ、わらわないでよ」

「ごめんごめん。いやマジでさー? ほんと、気にしないでよ。アタシが来ると困る、って言われるのはさみしーけどさ? そこまで気にするなら今後────」

 

 

乃々亜が最後まで言い切る前に、伊織ははっきり言う。

 

 

「別に、そこまでじゃないから!」

 

 

突然の声、その大きさに乃々亜が、ぱちりと目を瞬かせた。

思っていた以上に大きな声が出た。 それは伊織自身もすぐに気づいたらしく、遅れて自分の声に驚いたように口を閉じる。

 

 

「…………」

「……あ、えと」

 

 

一瞬の沈黙。

乃々亜は何も言わない。 ただ、先ほどまで楽しそうに細められていた瞳を僅かに開いて、伊織を見ていた。

 

 

「いや、その……」

 

 

伊織は気まずそうに視線を逸らす。

何も、ここまで勢いよく否定する必要はなかった。 乃々亜が何を言おうとしたのか、最後まで聞いてすらいないのだから。

それでも。今後、その言葉が聞こえた瞬間、身体が先に反応してしまった。

 

 

「……僕は別に宮前さんと話すのが困るわけじゃないから」

「…………」

「告白されたこととか、断ったこととか。その……思い出すと気まずいのは、本当だけど」

「うん」

「だからって、それで宮前さんを避けたいとか、もう話しかけないでほしいとか、そういうことじゃないよ」

 

 

1つ言えば、また1つ。

誤解されたくないと思えば思うほど、言葉が増えていく。

そして途中から、伊織自身も思い始めていた。

自分は一体、何をこんなに必死になっているのだろう、と。

 

 

「……だから」

「うん」

「今まで通りで、いいから」

「…………」

 

 

言い切った。

その途端、また沈黙が落ちた。

ほんの数秒。 普段なら気にも留めないほどの短い時間。

けれど乃々亜からすぐに返事が来なかったことで、伊織には妙に長く感じられた。

 

 

「…………宮前さん?」

「んー?」

 

 

返事はいつもの調子だった。

けれど。

乃々亜は伊織を見ている。

何か珍しいものでも見つけたように。 あるいは、今聞いた言葉を頭の中でもう一度転がしているように。

 

 

「そっか」

 

 

ぽつり、と。

短い言葉が落ちる。

その声が普段より少しだけ静かだったような気がして、伊織は僅かに首を傾げた。

けれど、その意味を考えるより先に。

 

 

「じゃ、遠慮なく♪ 今後もヨロシク! ってことで」

「……うん、その、お手柔らかに、ね?」

「あはっ! だっていおっちが今まで通りでいーよって言ったんじゃん? いつもどーりのアタシでヨロシク!」

 

 

これはなかなかに大変なスイッチを踏んだのではないか? と伊織は思わず仰け反りそうになるが、乃々亜は笑顔だ。

少なくとも、その笑顔は過去の罪悪感を、考えなくていい、と言われていても割り切れないが故に感じてしまうそれを、洗い流してくれるようだった。

 

 

「あ、うん。よろしくね」

「よっし! 言質いただきー♪」

「ほっ────ん? げんち?」

 

 

乃々亜の口元が、にんまりと持ち上がる。

伊織は、ほっとしたのも束の間、乃々亜の言葉に違和感を覚えると同時に……嫌な予感がした。

 

 

「じゃあさー」

「……えと、何?」

「今まで通りってことは――」

 

 

すっ。更に詰め寄る。

更に更に一歩、一歩、と距離を詰めて……ぴたっと、ゼロになる。その肩に乃々亜の頬が乗る。電流が身体に走る。

 

 

「こーいうのもオッケーってこと?」

「〜〜〜〜ッッッ!」

 

 

今度こそ反射的に伊織の上体が仰け反った。

目の前には乃々亜の顔。 鼻先が触れるような距離とまではいかないが、それでも普通に会話するには明らかに近い。

 

 

「あはははっ! ウブウブのウブ子ちゃんだねー! いおっちー」

「そ、そんなこと言われても、いや、ちかい! すっごく近い! いつも通りって、いつもこんなこと、してなかったでしょ??」

 

 

あの日からも、顔を合わせれば挨拶を交わし、時には軽く雑談もした。気まずさを引きずって疎遠になったわけではない。

とはいえ、ここまで距離を詰められたことは、今まで一度だってない。

それだけは断言できる。

 

 

「えー? そーだっけ?」

 

 

乃々亜は、まるで本当に覚えていないかのように小首を傾げる。

伊織は高速でぶんぶんぶん、と頭を上下させた。

 

「そうだよ! 少なくとも、こんな距離まで来たことはないから!」

「ん~~……じゃあ」

 

 

乃々亜は半歩下がった後に、少しだけ考える素振りを見せる。

そして、にまっ、と笑うと。

 

 

「今日からこれも『いつも通り』に追加ってことで♪」

「いや、勝手に上書き更新しないで!?」

「あはははっ!」

 

 

完全に遊ばれている。

伊織が慌てれば慌てるほど、乃々亜は楽しそうに笑う。

しかも困ったことに、この距離で笑われると、それなりどころか、とんでもなく心臓に悪い。

整った顔立ち。 金色の髪。 普段から人目を惹く少女が、真正面から至近距離で自分だけを見て笑っているのだから、これで平然としていろという方が無茶だ。

 

 

「……宮前さん、絶対面白がってるでしょ」

「そりゃーね♪ いおっち面白い反応だから!」

「うー、否定する気すらない……」

 

 

乃々亜ほどの美女に接近されて、平常心を保てるなんてそれこそスクールカースト上位勢のみだ。そこまでの域にいける精神状態を保てるような強い心臓は伊織には持ち合わせていないのだ。

それを分かっているのか、乃々亜はただただ楽しそうに笑っていた。

 

 

「だって、いおっち反応いーんだもん」

「僕は遊具じゃないのに……」

「ふふん♪ そーいうとこそーいうとこ。アタシのよーな悪い子に遊ばれちゃうんだ」  

 

 

何がそういうところなのか。

聞いたところで、また煙に巻かれそうな気がして、伊織は諦めた。

すると乃々亜も十分満足したらしく、ようやく一歩だけ後ろへ下がる。

 

 

「はいはい、冗談冗談♪」

「……本当?」

 

 

顔を赤くさせる伊織はやはり面白い、と思うが乃々亜は今は《可愛い》とも思い始めている。だから、これで終わるのは勿体ない、と思い、また口角を上げて小首を軽く傾げる。

 

「たぶん?」

「疑問形やめてー!」

 

 

反応の1つ1つを楽しみつつ、分からないことを知ることと同じくらいの楽しみを感じながら、カラカラと乃々亜は笑う。

 

 

「いつも細かいよねー、いおっち」

「いや、結構大事だと思うんだけど……」

 

 

先ほどまでとは別の意味で、伊織は小さく息を吐く。乃々亜は楽しんでる様だが、伊織はだんだん疲れてきている、といった様子だ。

天邪鬼じゃないつもりなのだが、だからといって乃々亜とのやり取りを早々きり上げたい! という気持ちになるわけではない。

距離感、というものが抜群に絶妙に、乃々亜は上手いということなのだろうか。

 

そして、それ以上に。

 

気づけば、伊織の胸の奥に残っていた妙な重さは随分と薄れていたのも感じている。

告白を断ったこと。

あの日、余計なお世話まで口にしたこと。

そして、今でもそれを気にしていたこと。

全部、乃々亜本人に笑い飛ばされてしまった。

 

それで救われた気がしたんだ。

 

この性質や性格が早々直るなんて無いと思ってるけど、少なくとも必要以上に自分一人で抱え込むようなことでもないのだろう。

 

 

「…………」

「ん? どしたの?」

「いや……」

 

 

伊織は僅かに笑った。

 

 

「やっぱり、宮前さんは宮前さんだなって」

「なにそれー、お返しのつもり??」

「あはは。そうかもね?」

 

 

乃々亜も笑う。

乃々亜自身も、伊織は変わらない、と言っていたので、その返しとして、伊織も使ったのでは? と思ったが、真意は別の所にあるように思える。それが、伊織の顔に出ていると思ったから。

 

伊織の表情が先ほどより随分柔らかくなっているんだ。

だから。

 

 

「ま、いっか♪」

 

 

乃々亜はそれ以上聞かなかった。

 

 

「……それで?」

「ん?」

「結局、宮前さんは何しに来たの?」

「…………」

 

 

また、時が止まった。

そして、止まっているのは伊織ではなく────乃々亜の方。

 

「あ」

 

 

だが、直ぐに動き始める。

パチパチパチ、と何度か瞬きをさせた後に、口元に手を当てた。

 

 

「ひょっとして……忘れてた?」

 

 

呆れ半分に、伊織が乃々亜に聞くと、乃々亜は今度は頭に手を当てて、ぽりぽり、と掻くと。

 

 

「ちょーっとだけ?」

 

 

親指と人差し指で、すき間を作ってアピールをする。

でも、伊織には乃々亜がいうように少し、とは思えない様子。

過去を思い返していた時間もきっと伊織の中では含まれていたんだろう。

 

 

「結構長いこと僕で遊んでたよね?」

「あはっ、ごめんごめん♪ だっていおっちの反応が面白くってさー」

「人を本来の目的より優先して遊ばないでよ……」

「でも、ちゃんと思い出したからセーフセーフ!」

「何のセーフなの、それ」

 

 

乃々亜は聞き流す。

そして、先ほどまでとは少し違う笑みを浮かべた。

何かを知っている、そんな顔である。

 

 

「昨日さー」

「昨日?」

「いおっち、周防さんと一緒にいたでしょ?」

「…………」

 

 

ぴたり。

今度は伊織が別の理由で固まった。まるで交互に代わりばんこでもしているかのように。

 

 

「え……周防さん?」

「そ♪」

「…………」

 

 

昨日。

周防と一緒にいた、と言う言葉。

その二つの情報が繋がった瞬間、伊織の頭には昨日の出来事が鮮明に蘇る。

 

元々は、瑠璃乃と色々あって出かけたこと。

そこで、有希と政近、そしてアリサと合流をしたこと。

激辛店で食事をみんなでして、その後は有希と一緒に何軒もの店を回ったこと。

荷物を持ったこと。

色々な話をしたこと。

有希が楽しそうに笑っていたこと。

そして――。

 

 

『これはデートですからね?』

 

 

 

「…………」

「お! 今なんか思い出したっしょ?」

 

 

伊織の強張り、それを乃々亜は見逃さなかった。

ほんの一瞬。 有希の名前を出した途端、伊織の表情が僅かに固まったことを。

じぃ、と遠慮なくその顔を覗き込む。

 

 

「…………なんで分かるの?」

「顔?」

 

 

よく読み取られる。何度か経験して、とうとう伊織は本人に直接聞くと、乃々亜はあっさりと即答をした。顔に出ている、と。

伊織は自分の顔に手を当てて触れると。

 

 

「僕、そんな出てるの?」

「うん。いおっち、分かりやすい時はほんっと分かりやすいよねー」

 

 

乃々亜はけらけらと笑う。

今日はどうにも表情筋に裏切られてばかりである。

別に感情を隠すのが致命的に下手というわけではない。 ただ、予想外の言葉を不意打ちで投げ込まれると、どうしても最初の一瞬だけ反応が漏れる。

そして目の前の乃々亜は、その一瞬を拾うのがやたらと上手い。

 

 

「……見てたんだ?」

「うん、見てた見てた♪」

 

 

あっけらかんと肯定されて、伊織は僅かに目を見開いた。

昨日の記憶を、反射的に掘り返す。 有希と歩いた道。 入った店。 すれ違った人々。

けれど、そのどこにも乃々亜の姿を見た覚えはない。

少なくとも、自分が彼女を認識した瞬間は一度もなかったはずだから、遠目で見られたのだろうか?

 

 

「……いつ?」

「昨日」

「いや、それは分かってるよ」

 

 

思わず即座に突っ込んでしまう。

乃々亜は悪びれもせず、くすくす笑っている。

 

 

「そうじゃなくて。昨日の、どの辺で見てたの?」

「ん~~? そこ、そんなに気になる??」

「ちょ、ちょっとね……」

「あはっ、ちょっとじゃなさそう!」

 

 

乃々亜はわざとらしく視線を上へ向けた。

本当に思い出そうとしている、というより。 どう答えれば伊織が一番面白い反応をするのか、考えているようにしか見えない。そんな事を考えている顔だ、と伊織も読める。

 

 

「それは企業秘密、ってことにしよっかなー? その方がおもしろそーだから? いつでもいおっちを見てるぜ〜って感じで! あははっ♪」

 

 

やっぱり遊ばれている。

もう一度伊織は記憶を探るように目を細めた。

昨日見た店。 歩いた道。 通り過ぎた人影。

一つ一つを辿っていく。

見た光景を動画のように保存することは出来るが、その瞬間瞬間を全て認識することは出来ない。意識的に動画を持ち出し、巻き戻したり、早送りしたり、停止したりさせて、見つけ出す。

 

瞬間記憶能力があるとはいえ、何もかもを神の視点で記録しているわけではない。 そもそも意識に入らなかったものや、視界の外にいた人間まで後から都合よく取り出せるわけではないのだ。

 

そして。

 

どれだけ探しても、昨日の記憶の中に乃々亜の姿は見つからなかった。

 

 

「……全く気づかなかった」

「だろーね。こっち見てもなかったし」

「声掛けてくれればよかったのに」

「えー?」

 

 

その一言に。

乃々亜の眉が、ぴくりと楽しそうに上がった。

 

 

「え? なになに?」

「いやいや?」

 

 

疑問に対して呆れ顔+疑問形で返す乃々亜。

手を顔の前まで上げて、軽く振る。

 

   

「ないないないない。アタシだってさー、空気くらい読むし」

「え? え?」

 

 

乃々亜は、また少しだけ距離を詰めた。

先ほどのようにからかうための異常な近さではない。

それでも。

伊織の表情を観察するには十分すぎる距離だった。

 

 

「なんか、いー感じだったし?」

「…………何が?」

「いおっちと周防さん」

「…………」

 

 

ここまで来たら、伊織でもわかる。と言うか、何故わからないのか? と思う。乃々亜の言う通りだ。自分でもそう聞かれたら『ないないないない』と、返答するだろう。

 

 

「流石にデートしてる2人を邪魔できないでしょ?? いおっち、そーゆーの嫌いじゃん?」

「別に邪魔とか……」

「へぇー?」

 

 

言った瞬間。

伊織は失言したと理解した。

乃々亜の目が、露骨に細められる。

面白いものを見つけた時の顔だ。

 

 

「…………」

「なになにー? アタシいても邪魔じゃなかったんだ?」

「いや、そういう意味じゃなくて」

「ふーん?」

「だからその『ふーん』やめてよ」

「あはっ♪ まー、いおっちならそう言うかも、だけど流石に周防さんは違うでしょ?」

 

 

乃々亜は全くやめる気がない。

むしろ、伊織が焦るほど楽しそうだった。

そして、その通りである。有希もあの時『デートですから』といい、伊織も了承しているのだ。そこに、乃々亜がいても、邪魔にならない、というのは、最悪の選択肢だと言える。

恋愛シミュレーションゲームだとするなら、好感度が二段階は下落する悪手だ。乃々亜のような性格キャラじゃないと。

 

 

「いやー、でもビックリしたなー」

「何が?」

「だって、いおっちだよ?」

 

 

即答すると、乃々亜が一瞬きょとんとして。

次の瞬間にはまた笑った。

 

 

「女の子と二人っきりで休日にお出掛け。彼女できたーって話も聞いてなかったしさ?」

「いや、その……彼女ってわけじゃ……」

 

 

伊織は反射的に否定しかけて、そこで少しだけ言葉を濁した。

有希と自分は付き合っていない。 それは事実。

だから『彼女』ではない。

 

ただ。

 

だからといって、昨日の時間まで全部ただの友人同士の外出だったと言い切ってしまうのも、何か違う気がした。

 

 

何より有希は、あの周防家の人間。

 

 

家柄も。 育ってきた環境も。 背負っているものも。

自分とは違う。

そんな相手と自分が、恋人として並ぶ姿を想像しようとすると、どうしても現実味が薄く感じてしまうのだ。そもそも好かれる要因がいまいちわからない。

 

 

「へぇー?」

 

 

乃々亜は、その僅かな迷いを見逃さなかった。

 

 

「え? そーなの? じゃ、デートじゃない感じ? たまたま?? あ! 生徒会関係とか??」

「あ、それは……」

 

 

今度こそ。

伊織の言葉が完全に止まった。

昨日の記憶が、また頭の中へ浮かぶ。

 

有希から最初にそれをデートだと念押しされたこと。

その後も、何度か冗談めかしながら同じ意味の言葉を向けられたこと。

そして伊織自身も。

最後まで、それを明確に否定しなかったこと。

 

むしろ──あの時間を楽しいと思っていたこと。

 

二人で歩くことを嫌だと思わなかった。

それら全部を思い返した末に。

 

 

「……デート、でした」

「おー」

「でも、その……付き合ってるわけでは、なくて」

 

 

乃々亜が一度だけ瞬きをする。

それから。

伊織の顔をじぃ、と見た。

 

 

「…………なるほどねー」

「何が?」

「いやいや?」

 

 

乃々亜は意味ありげに笑う。

 

 

「いおっち的には、デートはした。でもまだ彼女ではない、と」

「……うん。まあ、そうなる……かな」

「ふーん?」

「その『ふーん』何?」

「べっつにー?」

 

 

口ではそう言う。

けれど。

乃々亜には何となく分かった。

少なくとも伊織は、有希との時間そのものを否定したいわけではない。

ただ。

そこに『恋人』という名前を付けるところまでは、まだ行っていない。

あるいは――自分からそこへ踏み込んでいいのか、まだ決めきれていない。

若しくは、伊織の性格的に自らがデートに誘う、と言うことは無さそうだし、今の話的にもそれは確定している。

 

つまり、有希の方が伊織を誘い、『デート』と称した。

 

そんなところだろうか。

 

 

「あはっ」

「……何?」

「いおっち、一皮むけたんだねー」

「????」

 

 

どういう意味? と聞こうとした時、乃々亜のスマホが鳴り始めた。

そして、それに気づくと伊織に断りを入れ、伊織も了承した後に、スマホに耳を当てる。

 

数秒何か話をしたあと。

 

 

「ごっめーーん! いおっち! ちょっと用事、入っちゃった!」

 

 

ぱん、と手を合わせて謝罪をする姿勢をとる。

伊織も手を振りながら、大丈夫である事を告げると。

 

 

「じゃ、アタシ行くね! またねー、いおっち!」

「うん。またね、宮前さん」

 

 

乃々亜はひらひらと手を振ると、そのままスマホを片手に歩き出す。

随分と賑やかで、濃い時間だったと伊織は思う。

突然現れて。 昔のことを掘り返して。 散々こちらをからかったかと思えば、昨日の有希とのことまで見られていて。

 

そして、また突然去っていく。

 

伊織は小さく息を吐いた。

けれど、数歩進んだところで、乃々亜の足が止まった。

 

 

「あ、そーだった!」

 

 

何かを思い出したような声。

乃々亜がくるりと振り返る。

 

 

「いおっち」

「ん?」

 

 

呼び止められて、伊織も顔を上げる。

乃々亜はいつもの笑顔だった。

先ほどまでと何も変わらない。 軽くて、明るくて。 何を考えているのか、分かるようで分からない笑顔。

 

 

「あの時、言ってなかったことあるんだけどさー」

「……あの時?」

 

 

一瞬、何のことか分からなかった。

だが。

乃々亜は少しだけ目を細めて。

 

 

「アタシ、もう男遊びしてなかったんだよ?」

「…………え?」

 

 

あまりにも唐突で。

伊織の思考が止まった。

 

 

「実は、少し前にさー、さやっちにも、見られてめちゃ怒られちゃってさー」

「…………」

「じゃーね、いおっち!」

「あ、うん……また」

 

 

今度こそ乃々亜は立ち去っていく。

伊織は、その背中を見送ったまま動けなかった。

 

 

「…………」

 

 

もう男遊びはしていない。

それだけならば。 沙也加に怒られたから、という話で終わる。

けれど――。

なぜ、わざわざ今、自分にそれを伝えたのだろうか、と少し考える。

 

そして答えは────見えていた。

 

 

少し考えるだけで、顔が赤くなってるように思う。それに凄く熱い。伊織は、ふぅ、と小さく息を吐いた。

 

 

「ん……、戻らないと」

 

 

それは、教室に戻らないと。という意味と、平常心に戻らないと、の2つの意味を併せ持つ。こんな顔をしている所はあまり見られたくない、というのが本音だ。

 

どうにか抑えようとしたその時だ。

 

 

「そうですね。もう直ぐお昼休みが終わってしまいます」

「うわぁっ!?」

 

 

びくっ!! と肩が跳ねた。

突然、後ろから声が聞こえてきたからだ。

伊織は勢いよく振り返る。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

そこには1人、女子生徒が立っていた。

いつからいたのか。

腰まで伸びた艶やかな黒髪を揺らすこともなく、まっすぐ正しい姿勢で伊織を見据えている。

 

 

「……き、君嶋さん?」

「はい」

 

 

立っていたのは、君嶋綾乃。

同級生であり、周防家――つまり有希に仕える従者でもある少女だ。

伊織とも、もちろん面識はある。

 

 

こくり、と綾乃が頷く。

 

 

「こんにちは、真田さん」

「こ、こんにちは……」

 

 

挨拶を返しながら。

伊織の頭には、たった一つの疑問しか浮かばなかった。

 

 

―― 一体いつからそこにいたの?

 

 

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