距離を置きたいだけなんだけど 作:ろしでれ
―― 一体いつからそこにいたの?
そんな疑問が頭の中を埋め尽くしていたものの、伊織は結局、それを口に出すことが出来なかった。
聞けば答えてくれるだろう。目の前の少女は、質問をはぐらかしたり、こちらの反応を面白がる乃々亜とはまさに正反対。
むしろ、聞かれたことには可能な限り正確に正直に答えるタイプだから。
だからこそ、そこに怖さがある。
もしも聞いて『宮前様がお越しになる前からです』などと返された日には、今度は自分が何をどこまで聞かれていたのかという、より深刻な問題が発生する、と言える。
先ほどまでどうにか平常心へ戻そうとしていたというのに、これ以上余計なことを考えて顔を赤くするのは御免だ。そして綾乃は平然として見ているだろう。凄まじい羞恥に襲われること間違いなし。
もっとも、そんな伊織の内心など知る由もなく、綾乃は腰まで伸びた艶やかな黒髪を背へ流し、背筋をまっすぐ伸ばしたまま静かに立っている。
その表情にもほとんど変化はない。
つい先ほどまで相手をしていた宮前乃々亜が、笑って、近付いて、こちらの反応を見てまた笑うという感情表現の塊のような少女だっただけに、その落差は凄まじかった。
「……えっと、君嶋さん」
「はい」
「僕に何か用かな?」
昼休みが間もなく終わることを知らせるためだけに、自分の背後で静かに待っていたとは考えにくい。
伊織が尋ねると、綾乃は僅かに頭を下げた。
「突然失礼いたしました。真田くん、少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか」
「あ、うん。もちろん大丈夫」
相変わらず丁寧、そして物腰は低姿勢そのもの。
同級生なのを忘れてしまいそうなほどに、である。
因みに綾乃が自分を呼ぶ呼び方は『真田くん』。
それは遡ること中学時代。
普段からあまりにも丁寧に接してくる綾乃へ、伊織は同級生なのだから自分にまで様付けをする必要はないよ、と伊織は軽く伝えたことがあった。
その結果。
伊織の呼称だけが『くん』へ変更され固定された。
それ以外彼女が呼ぶときは様敬称だったのに。
それ以外は何一つ変わらなかったが。
無論それには理由がある。
綾乃が伊織を気に入っているから特別扱いをした────などではない。
実は有希から綾乃に、伊織に対して失礼のないよう言い含められているから、である。
そして普段から伊織には助けられているため、希望には可能な限り聞くように、と。
※恋愛ごとは絶対にNG。
そして伊織本人からは、様付け不要と言われた。
しかし主人からは不敬のないよう厳命されている。
その二つを綾乃なりに両立させた結果が『真田くん』なのだろう。
伊織としては、そこまで畏まらなくてもいいのにと思わなくもないが、綾乃本人がこれで良いのなら、今さら口を挟むつもりもなかった。ただ、綾乃が唯一敬称つけない、という部分が中学時代結構広がって色々と噂されてしまったのはまた別の話。
そして気付いたときには遅かったので今更辞めてほしい、とは言えず今日にまで至る。
「ありがとうございます。では、早速で恐縮ですが……有希様のことで、真田くんにお願いがございます」
「周防さんの?」
「はい」
思わぬところから再び有希の名前が出てきて、伊織は僅かに目を瞬かせた。
乃々亜との会話でも散々その名前を聞いたばかりである。
今日はどうにも有希に縁のある昼休みらしい。
「現在、生徒会で進めている仕事の中に、少々人手を必要としているものがございます。可能であれば、真田くんにもお力をお貸しいただけないかと」
「ああ……それなら」
内容を聞いて、伊織はすぐに頷いた。
必要な時には手伝うと以前から伝えているし、出来る範囲なら協力することに異論もなかった。それに自分の事情を考慮してくれているので、無理難題、と言うわけでもない。今のところは────と、枕詞がつくが。
「全然いいよ。前にも必要なら手伝うよ、って約束したしね」
「ありがとうございます」
綾乃は丁寧に一礼する。
それだけならば、単純な依頼で終わる話だった。
けれど伊織は、そこで一つ引っ掛かった。
「……あれ? でも、周防さんが僕に頼んでって? 彼女なら自分から────」
『言いにきそうなのに』
と、伊織が言い切る前に綾乃は言葉を挟む。
「いいえ」
まさに即答だった。
「…………え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
てっきり、有希が伊織に手伝ってほしいと言い、それを綾乃が伝えに来たのだと思っていた。
しかし、違うらしい。
「有希様より、真田くんへお願いするよう申し付けられたわけではございません」
「じゃあ……どういう?」
「わたくしの判断でございます」
綾乃は何でもないことのように答えた。
けれど伊織は、その返答を聞いて少し考える。
綾乃が勝手に主人の名を使って、人を連れてこようとしているわけではないことは分かる。彼女の性格を多少なりとも知っていれば、そんな雑な仕事をする人物ではない。
恐らく。
生徒会で現在抱えている仕事。 必要な人手。 締め切りまでに掛かる時間。 そして誰へ助力を求めれば最も円滑に進むのか。
その辺りまで考えた結果、自分のところへ来たのだろう。
「真田くんが以前、必要であれば生徒会のお仕事をお手伝いいただけると仰っていたことは、有希様より伺っております」
「うん。それは言ったね。大丈夫だよ」
「加えて、先日のご様子からも、真田くんにお力をお借りできれば有希様の相当な負担軽減になるものと判断いたしました」
「相当って……そんなに?」
「はい」
迷いなく断言された。
伊織は少しだけ困ったように笑う。
自分では単に、頼まれた仕事を出来る範囲で処理しただけのつもりだったのだが、どうやら綾乃の中でも思っていた以上に評価されているらしい。
「有希様が改めてお願いなさるのをお待ちするより、わたくしから先に確認させていただいた方がよろしいかと考えました」
「なるほど……」
「勿論、真田くんのご都合を最優先にしていただいて構いません。ご無理をお願いするつもりはございませんので──」
最後には、有希も迷惑ならば望んでない────と、綾乃は付け加える。
そこでようやく、伊織も完全に理解した。
綾乃は有希の考えを勝手に決めつけたのではない。
有希が困るであろう状況を事前に把握し、必要なものを先に整えている。
主人に言われてから動くのではなく、言われる前に必要な形へ持っていく。望むべき未来を形成するように一助となるように。
それも、有希からすれば余計なお世話になるような方向ではなく、本当に助かる形で。
綾乃は極めて優秀・有能な従者なのだろう、という漠然とした印象は以前からあったが、こうして直接その動き方を見ると、伊織はより分かった気がした。否、今までははっきりとその輪郭が見えていなかっただけ、とも言える。
「……君嶋さん、すごいね」
「何がでしょうか」
「いや。周防さんに言われる前から、そこまで考えて動いてるんだなって」
「有希様のお力になることが、わたくしの務めでございますので」
特別なことをしているつもりなどない。
そんな声音だった。 誇るでもなく、謙遜するでもなく、彼女にとっては、それが当たり前。
伊織は思わず小さく笑った。まさしく忠臣という存在たま。
「そっか。じゃあ改めて、僕でよければ手伝う。時間も大丈夫」
「ありがとうございます。有希様も、真田くんがお力を貸してくださるのであれば、お喜びになるかと存じます」
「……そ、そうかな」
「はい」
即答される。
その返事には一片の迷いもなかった。
伊織は少し照れくさくなって視線を逸らした。
昨日のことまで思い出してしまいそうになり、慌てて頭の中から追い出す。
今は仕事の話だ。
デートだ何だという話ではない。
そう自分に言い聞かせたところで、綾乃が再び口を開いた。
「それと、もう一点お願いがございます」
「もう一つ?」
「はい。真田くんには、一度生徒会室へお越しいただければと考えております」
「生徒会室に?」
「はい。勿論、日時につきましては真田くんのご都合に合わせるとのことでございます」
今度は先ほどより明確に首を傾げた。
仕事を手伝うのなら、生徒会室へ行くこと自体は不思議ではない。
ただ。
綾乃の言い方には、単に作業場所として来てほしいという以上の意味があるように聞こえる。
綾乃は、伊織の表情を読んだのか、静かに頷いた。
「生徒会への加入をお願いするものではございません。あくまで、真田くんご自身のお考えを尊重する、との意向です。故にその点は、ご安心ください」
「あ、良かった」
「無論、真田くんがお望みになられるのであれば、その限りではございません、とも伺っております」
「……今のところは、変更はない、かな?」
思わず本音が漏れる。
生徒会そのものが嫌なのではない。
ただ、正式に所属すれば当然役割も責任も増える。
他にもやりたいことがある伊織としては、可能な範囲で協力するという今の距離感が一番ありがたかった。それに何度も断るのは気持ち的にもきつい。それだけ評価をしてくれている、とも言えるのだから。
事実、今自分が目指していることを続けながら、この征嶺学園の生徒会役員として責任まで背負うのは、いくらなんでも風呂敷を広げすぎだと伊織自身も思っている。
有希たちがどれだけ自分を買ってくれていたとしても、それと実際に背負えるものの大きさは別の話だった。
「真田くんには今後も、必要に応じてお力をお借りすることになるかと存じます」
「うん。そのつもりだよ」
「でしたら、一度、生徒会役員が揃っている際に顔を合わせていただいた方が、今後何かと円滑かと」
「……うん、それもそうだね」
理由を聞けば納得出来るものだった。
伊織は生徒会役員ではない。
だからこそ、正式な役職もなければ仕事の担当もない。
今後手伝いを続けるのであれば、その度に『この人は誰だ』『どこまで事情を知っている』『何を頼んで良いのか』という確認から始めるより、一度きちんと紹介しておいた方が互いに楽だろう。
着実に生徒会入りの道筋を作られてる感は否めないが。それでも問題ない範囲内なのも事実。
「真田くんからしても、誰が何をご担当されているのか事前に把握していただいた方が、お仕事をお願いした際にご不便が少ないかと存じます」
「確かに。分からないことが出るたびに周防さんへ聞くより、その担当の人に直接聞けた方が早いもんね」
「左様でございます」
実務面だけでも、十分に理由は成立している。
けれど。
綾乃の話は、それだけではなかった。
「加えて、皆様からも一度、真田くんへ直接お礼を申し上げる機会を設けた方がよろしいかと」
「お礼?」
「はい。真田くんは正式な生徒会役員ではございません。その中でお力を貸していただいている以上、ご厚意に甘えるだけというわけには参りませんので」
「いやいや、そんな大袈裟なことじゃないよ」
「そういうわけには参りません」
きっぱり。
あまりにも迷いなく返されて、伊織は口を閉じた。
どうやらこの点に関しては、綾乃に譲るつもりはないらしい。
「お手伝いいただくことを当然として扱うべきではないかと存じます。真田くんが善意でお力を貸してくださっているのであれば、尚更です。これは生徒会の意向でもある、と頂いてます」
「…………」
随分と律儀だ。
そこまで畏まられるほどのことをした覚えはないのだが、相手がそう考えているのなら、頑なに断るのも違う気がする。
今後も手伝うつもりなら、一度挨拶しておくことに不都合はない。それどころか、綾乃の言う通り、その方が後々やりやすいだろう。
「分かった。じゃあ、一度行くよ」
「ありがとうございます」
「でも、本当に挨拶だけだからね? その場で『じゃあ今日から生徒会ね』とかは無しだよ?」
「そのような騙し討ちはいたしません」
「あはは。なら安心」
伊織が冗談めかして笑う。
綾乃は表情をほとんど変えなかったものの、その冗談自体は理解したらしい。
「日時につきましては、皆様の予定を確認した上で、改めてご連絡いたします」
「うん。僕の方は授業とかと被らなければ、大体大丈夫だよ」
「畏まりました」
綾乃は静かに頭を下げる。
これで用件は済んだ。
少なくとも伊織は、そう思った。
しかし改めて考えてみれば、綾乃は有希から直接命じられたわけでもないのに、必要な人手を見極め、自分へ声を掛け、生徒会側との今後の連携まで整えようとしていたことになる。
しかも、そのどれもが伊織にとって不都合ではない。
むしろありがたい。
主人のために先回りする。
言葉にすれば簡単だが、それを余計なお世話にせず、本当に相手が助かる形で実行するのは難しい。
「……君嶋さんって、やっぱりすごいね」
気付けば伊織は自然にそう口に出していた。すごい、は2回目短い時間に2度も。
また不意にそう言われて、綾乃が僅かに首を傾げた。
「何がでしょうか」
「いや、こういうところ。周防さんに言われてから動くんじゃなくて、必要になりそうなことを先に考えて、それでちゃんと相手の都合まで確認してるでしょ? 当然、って感じだけど、やっぱりすごくて、思わずまた声にでちゃったよ」
「…………」
伊織が思ったままを口にすると、綾乃は静かにその言葉を聞いていた。
以前から、彼女が優秀であることは知っている。
中学時代から面識はあるし、有希の傍に控えている姿だって何度も見てきた。頼まれたことを正確にこなす。必要とあらば先回りして準備する。それくらいは伊織も知っていたつもりだった。
けれど、こうして自分自身がその対象になってみると、改めて分かる。
ただ先回りすればいいわけではない。
主たる有希が、相手が何を望んでいるのか。どこまでなら負担にならないのか。それを踏まえた上で、本当に必要なものだけを整えている。
少なくとも今回、伊織には余計なお世話だと思える部分が一つもなかった。
「僕だったら、良かれと思ってやったことが逆に迷惑だった、なんてこともありそうだし」
「真田くんが、ですか?」
「うん。僕だって人の考えてること全部分かるわけじゃないからね。だから、君嶋さんはやっぱりすごいなって。あはは、3回目のすごい、だ」
「……恐縮です」
頬をぽりぽり、とかいて気恥ずかしそうにする伊織をみた綾乃は僅かに頭を下げる。
大袈裟に謙遜することもなければ、誇らしげに胸を張ることもない。先ほどと同じく、それが自分の務めだからしているだけだとでも言うような反応だった。
そして、顔を上げると。
「ですが、わたくしからすれば、真田くんも十分にお力を尽くしてくださっているかと存じます」
「……そう?」
「はい」
今度は伊織が首を傾げる番だった。
自分が綾乃を褒めていたはずなのに、いつの間にか話の矛先がこちらへ向いている。
「いやいや。僕はそんな大したことしてないよ?」
「そのようには思いません」
「でも、僕がやってるのって頼まれた時に手伝ってるだけだし」
「真田くんは、生徒会役員ではございません。そもそも、この学園において、【生徒会に頼られる人材】である事自体が素晴らしいことです」
淡々と。
けれど、綾乃ははっきりと言った。
「本来であれば、生徒会のお仕事にお力を貸していただく義務はございません。それでも、以前から必要であればお手伝いいただけると仰ってくださっているのでしょう?」
「それは……うん」
「そして今回も、事情をお聞きになられてすぐに了承してくださいました」
「約束してたからね」
「約束であったとしても、それを違えず実行されることは当然ではございません」
返す言葉がなくなった。
伊織としては、本当にそれほど大したことをしているつもりはない。
一度手伝うと言った。自分に出来ることで、有希たちの負担が減る。だったら手を貸す。
ただそれだけのことだった。
「加えて、真田くんは先ほど、わたくしの都合にまでお気遣いくださいました」
「え?」
「わたくしの行動を評価してくださったことも含めて、でございます」
「あー……いや、それは思ったことを言っただけで……」
「はい。ですから」
綾乃はそこで一度、言葉を区切った。
特別な意味を込めた様子はない。
恐らく彼女にとっては、これもまた見たものをそのまま口にしただけだったのだろう。
「真田くんは、素晴らしい。そして相手の気遣いを忘れず、慮れるお優しい方なのだと思います」
その言葉を聞いた瞬間。
伊織の表情から、僅かに笑みが消えた。
「…………」
ほんの一瞬だった。
別に綾乃が何かおかしなことを言ったわけではない。
むしろ、好意的な言葉を向けられたのだ。
だったら普通に礼を言えばいい。照れくさければ笑って誤魔化したっていい。普段の伊織なら、恐らくそうしていただろう。
けれど。
――優しい。
その言葉だけが、妙に胸の奥へ残った。他の誰でもない、綾乃からの言葉ゆえに、強く反応した。
そして、その一言から連想するように。
一人の顔が浮かぶ。
「────はは」
そして、自分の中で否定となって伊織の表情に表れたのである。
そんな自分を『優しい人』と言い切ってしまっていいのかと問われれば――素直に頷くことは出来なかった。
「……真田くん?」
黙り込んだ伊織を不思議に思ったのか、綾乃が呼び掛ける。
それで我に返った。
伊織は一度だけ瞬きをして、それから。
「……あはは」
また、小さく笑った。
けれどそれは、先ほどまで浮かべていた笑顔とは少し違っていた。
嬉しそうでもなく、照れくさそうでもない。
どこか困ったような。
ほんの少しだけ、寂しそうな笑みだった。
「僕、そんなに良いやつじゃないよ」