光が、畳の目を真っ二つに叩き割っていた。
遮光性の高い障子が、百鬼夜行連合学院の喧噪を向こう側に押し留めている。六畳の和室は、静かだ。部屋の中央には榧の碁盤が置かれ、その木目が陽光を吸って鈍く、重い輪郭を保っている。
桐生キキョウは座布団の上に背筋を伸ばし、端座していた。黒い猫又の耳が、時折、室内の微弱な空気の破裂を拾ってぴくりと動く。彼女の細い指先には青い紐糸が絡みつき、幾何学模様を作っては、すぐに次の形へと遷移していく。百花繚乱紛争調停委員会の作戦参謀。その肩書が示す通り、彼女の指先は彼女の頭脳が処理する情報の密度と冷徹さをそのまま表していた。
対面に座るmeは、何も言わずに碁笥から白石を一つ、指先に挟んだ。冷たい石の感触が皮膚に伝わる。
盤面はすでに中盤の終わり、勝負の分岐点に差し掛かっていた。キキョウの展開した黒石の陣形は、完璧な定石の集積だった。右辺の厚みから中央にかけて、meの白石を包囲し、退路を断つための論理的な防壁が完成しつつある。彼女の収集した情報が、この十九路の盤上で過不足なく機能していた。
「先生。あなたの左辺はすでに死に体です」
キキョウが言った。声に感情の起伏はない。淡々とした事実の指摘だった。
「ここから中央へ這い出ようとしても、私の黒石がすべてを遮断します。あなたが次に打つべき場所は、定石に照らせばこの三々の一手しか残されていません。それ以外はすべて、自滅に繋がる悪手です。私の計算に間違いはありません」
meは何も言わなかった。ただ、盤上を見つめた。
meの視界にあるのは、眼前の黒と白の配置ではない。この一手から派生する、百手先、二百手先の確定された未来の終着点だ。
そもそも、このキヴォトスにおいて、己の命を守るための戦術や論理なるものが起こって既に久しい。ヘイローという不壊の象徴を持ちながらも、なお傷つき、怯え、明日の不確定さに絶望する生徒たち。それを口にし、信奉する者は、皆それぞれの根拠あっての事と思う。meの知る限りにおいては、またmeが了解し得たる限りにおいて、それらの定石に必ずしも非難すべき点ばかりはない。不完全な世界で、不完全な人間が、死や忘却の恐怖から逃れるために生み出した最善の足掻き。それが論理であり、定石だ。
だが、meという絶対的な意志の前にあっては、それらはすべて等しく無価値な砂の城に過ぎない。生と死の境界を消し去り、すべての因果をmeの支配という名の庇護下に置く救済。未来の終着点を見通すmeの「眼」の前にあっては、この盤上もまた、その大義の縮図に過ぎなかった。
meは白石を落とした。
パチリ、と硬い音が響く。
打たれた場所は、三々ではなかった。キキョウが築き上げた、最も強固な黒石の厚みの中心。一歩足を踏み入れれば、瞬時に圧殺されるはずの空隙だった。
キキョウの指先が止まる。青い紐糸が、彼女の細い第一関節にきつく食い込んだ。
黒い耳が警戒を示すように真横へと寝る。彼女の丸い瞳が、盤上の白石とmeの顔を往復した。
「……何ですか、これは」
キキョウの声音に、明らかな不快感が混じった。
「自ら死地に飛び込むような真似を。冗談のつもりなら、やめてください。私は本気で打っています。こんな無意味な捨て石に、私の黒石が惑わされるとでも?」
meは答えない。ただ、次の白石を指に挟んだ。その視線は、キキョウの防壁を通り抜け、彼女の本質そのものを捉えていた。
キキョウは冷ややかに黒石を打ち下ろした。meの白石を包囲し、殲滅するための当然の一手。盤上のロジックに従えば、meの打った白石は次の瞬間に消えるはずだった。
しかし、meは迷うことなく、さらにその隣へと白石を連ねた。
二手、三手。対局は進む。キキョウの打ち込みは正確だった。meの白石は孤立し、黒石の大軍に飲み込まれていくように見えた。だが、十手を超えたあたりで、部屋の空気が明確に変質した。
キキョウの手が、黒石を掴んだまま空中で停止した。
彼女の額から、一筋の汗が頬を伝って落ちる。二本の黒い尻尾の動きが完全に止まっていた。
「……あり得ない」
彼女の呟きは、先ほどまでの冷静さを完全に失っていた。
彼女の頭脳という優秀な計算機が、恐るべき未来を弾き出していた。meが打った一見すると無意味な捨て石の数々。それらは、キキョウの完璧な厚みを破壊するための一手ではなかった。
むしろ逆だ。meの白石は、キキョウの黒石を「殺さない」ために配置されていた。
もしキキョウがこのまま定石通りに白石を取りにいけば、彼女の黒石の全軍は、知らず知らずのうちに盤上の外周へと追いやられ、最終的に一つの巨大な「生きた石の塊」として完全に固定化される。それは勝負の放棄ではない。キキョウのすべての石が、meの敷いた絶対的な庇護の檻の中に閉じ込められ、一石も死ぬことなく、しかし同時に一歩も動けなくなる未来だった。
完璧な包囲。完璧な支配。解き放つべき恐怖すら存在しない、狂気的なまでの救済のロジック。
「あなたは何を考えているの……?」
キキョウは碁石を碁笥に戻し、meを鋭く睨みつけた。彼女の瞳には、参謀としてのプライドと、それ以上の、理解不能な存在に対する根源的な恐怖が宿っていた。
「私の集めた情報にも、過去のあらゆる棋譜にも、こんな歪んだ戦術は存在しない。あなたは勝とうとしていない。私を……私のすべてを、この盤ごとあなたの手の中に収めようとしている」
meは静かに彼女の視線を受け止めた。言葉は不要だった。meの視線そのものが、すべてを語っていた。世界から不完全な恐怖を消し去るには、すべての因果をmeが引き受けるしかない。盤上の黒石も、目の前の少女も、すべてはmeの絶対的な統治の下でこそ、真の安らぎを得るのだ。
キキョウは呼吸を荒くしながら、膝の上の青い紐糸を強く引っ張った。糸が絡まり、複雑な結び目がいくつも出来上がる。彼女は必死に理性を保とうとしていた。ここで屈すれば、自分という存在の根幹が、この無口な存在の意志に上書きされてしまうという危機感があった。
「私(わたくし)は百花繚乱の参謀です。調停委員会の意志として、あなたのそんな傲慢な支配は認めない」
彼女は再び黒石を掴み、盤上の最も激しい激突が予想される箇所へ叩きつけた。抵抗の一手。meの構築する完璧な檻の、わずかな隙間を抉じ開けようとする決死の反撃だった。
meの指が動いた。パチリ。
キキョウの反撃は、最初からmeの予測の範疇にあった。その白石は、彼女の抵抗を優しく、しかし圧倒的な質量で押し潰すように配置された。
「くっ……! 」
キキョウは座布団の上でわずかに身じろぎした。彼女の防壁が内部から崩壊していく。それは物理的な破壊ではなく、彼女の張り巡らせた情報網が、meの持つさらに巨大な意志の前に無力化されていくプロセスだった。
meは静かに右手を伸ばした。盤面を越え、彼女の手元へと。
キキョウは反射的にその手を拒絶しようと、自分の右手を引こうとした。参謀としての冷徹な理性が、これ以上の接近を拒んでいた。だが、meの動きには迷いがなかった。遮るもののない、絶対的な引力。
meの掌が、キキョウの細い手首を捉えた。
「離しなさい……、先生」
キキョウはmeを強く睨み返した。猫耳が逆立ち、威嚇の姿勢を取る。しかし、meの手首を握る力は、痛みを伴わないほどに穏やかで、同時に決して解けないほどに強固だった。そこから伝わってくるのは、彼女を世界のあらゆる脅威から守り抜くという、底なしの執着と庇護の波動だった。
掴まれた手首の緊張が、一秒、二秒と引き絞られた弦のように持続する。キキョウの瞳が、盤上の白石からmeの冷徹な、しかしすべてを抱擁する眼差しへと泳いだ。唇が微かに震え、拒絶の言葉を探すように宙を彷徨う。だが、言葉になる前に熱がその思考を掠め取っていく。
彼女の知性が頑なに維持しようとしていた薄氷の防衛線は、meという人間の枠を超えた絶対的な引力の前に、抗う術もなく融解させられていた。
キキョウの身体から、徐々に力が抜けていくのが分かった。
彼女の呼吸が徐々に熱を帯びていく。完璧な論理で世界を割り切ろうとしていた少女の防衛線が、meの圧倒的な体温によって内側から融解させられていく。
「どうして……」
彼女の黒い耳が、ゆっくりと力を失って伏せられていく。二本の尻尾が、畳の上で力なく揺れた。睨みつけていたはずの瞳は潤み、そこには恐怖ではなく、絶対的な強者にすべてを委ねてしまいたいという、抗いがたい快感と諦念が混ざり合っていた。
「私の計算が、全部意味を成さない……。あなたの前では、私の情報なんて、ただの砂の城みたいに崩れてしまう」
meは手を引き、彼女の身体をこちら側へと手繰り寄せた。
キキョウはもう抵抗しなかった。彼女の膝が座布団から滑り落ち、碁盤の横を通り抜けて、meの胸元へと倒れ込んできた。張り巡らされた参謀のプライドも、彼女を形作っていたあらゆる拒絶の論理も、meの圧倒的な存在感の前には跡形もなく無に帰していく。
柔らかな黒髪がmeの指先に触れる。彼女の頭がmeの胸に預けられた瞬間、室内の張り詰めた空気は完全に霧散し、濃密な甘やかさだけが後に残った。
「ずるい人……」
キキョウはmeの衣服を細い指で強く掴んだ。彼女の手から滑り落ちた青い紐糸が、畳の上に歪な形で転がっている。もう彼女は、世界の情報を紡ぐ必要はなかった。ただ、目の前の絶対的な引力に身を委ね、小さく呼吸を繰り返している。
「言葉もくれないくせに、そうやって力ずくで私を奪っていく。……でも、不思議と怖くないのは、なぜかしら。あなたの腕の中だけが、世界で一番安全な場所だと、私の本能が理解しているからかもしれない」
キキョウはmeの胸に顔を埋めたまま、喉の奥で小さく鳴いた。二本の尻尾が、meの腰回りに吸い付くようにして絡みついてくる。それは彼女が完全にmeの支配を受け入れ、その庇護の中に引き籠もることを決意した証だった。理性の敗北は、彼女にとって絶対の甘い破滅だった。
盤上では、勝負のつかない黒と白の石が、静かに光を反射していた。死ぬことのない石の列柱。それはmeが彼女に与えた、小さな、しかし完璧な救済の世界だった。