その日は、朝から風が強かった。ゲヘナ学園という場所は、不条理な爆破と、それに伴うささやかな悲鳴で一日が始まる。窓の外では、今日も何かが吹き飛ぶ音が聞こえ、黒い煙がゆっくりと空へ昇っていく。万魔殿の執務室は、それらの喧騒から切り離されたように静かだった。室内には無駄に高価な調度品が並び、大きな革製のソファが部屋の中央に座している。
meは窓辺に立ち、微動だにせず硝子越しにその灰色の景色を見下ろしていた。
万魔殿の連中はmeを「先生」と呼ぶ。滑稽なことだった。だが、その滑稽な呼び名に命を吹き込む者が、この退屈な領域にもただ一人だけ存在している。纏うのは一切の汚れを拒絶する純白の服。世界はmeの瞳のなかにあり、その未来のあらゆる分岐は、すでに確定された一本の線だった。この地上のすべての営みは、meの視界のなかでただ静かに収束していく。
不意に、騒がしい足音が廊下を叩き、重い扉が勢いよく撥ね開けられた。
「マコトちゃん! あのね、イブキ――あ、いないや」
部屋に入ってきたのは、丹花イブキだった。彼女は部屋の主がいないことを知ると、少しだけ歩みを緩めた。しかし、窓際に佇むmeの白い後ろ姿を見つけると、その黄色い瞳を大きく見開いた。
「先生!」
彼女は、頭に載せた大きな軍帽を不器用に手で押さえながら、こちらに向かって駆けてくる。低い位置で結ばれた明るい金髪のツインテールが、彼女の短い歩調に合わせて、まるで生き物のように跳ねた。足元で音を立てる黄色のレースアップブーツが、冷たい床の上に確かな生気をもたらしていく。
meの目の前で立ち止まった彼女は、胸元の小さなくまのぬいぐるみポシェットを揺らしながら、赤と黒のオーバーサイズの軍服コートの袖を一生懸命に動かした。サイズが大きすぎるせいで、手先は完全に布の奥に沈んでいる。その不自由な「萌え袖」のまま、彼女は脇に抱えていた一枚の画用紙を、両手で挟み込むようにしてmeの前へと差し出してきた。
「これね、イブキが描いたの。先生に一番に見せる!」
彼女の頭上に浮かぶ、太陽のようなトゲトゲとした黄色のヘイローが、興奮を示すように小刻みに明滅する。
meは無言のまま、窓辺に佇んだ姿勢を崩さず、白い手袋に包まれた手で画用紙を受け取った。そこには、白い服を着た巨大な影と、その傍らで小さな黄色い影が手を繋いでいる構図が、拙いクレヨンのタッチで描かれていた。背景にはゲヘナの日常を表すような、赤や青の雑多な色彩が乱暴に塗りたくられている。
「あのね、こっちの白いのが先生。こっちの、お帽子を被ってるのがイブキだよ」
イブキはmeの側面にぴったりと寄り添い、その顔を覗き込んできた。彼女のゴールドの瞳の奥には、ハサミの刃を交差させたような「×」の模様が静かに刻まれている。口元からは、無邪気な笑みにふさわしい、小さなギザ歯が覗いていた。
「イブキね、先生と一緒にいるとすっごく楽しいの。マコトちゃんたちもお仕事中にイブキとお話してくれるけど、先生の隣にいるのがいちばん特別な場所なんだよ」
彼女はまるで、自分を無条件に甘やかしてくれる絶対的な存在を、その野生的な本能で見抜いているかのようだった。ゲヘナを象徴する「角」「羽」「しっぽ」の三要素をすべて宿した、最も純粋な悪魔たるその身。万魔殿の狂信的な猛獣どもが、この幼き少女の前でいかに牙を収め、その無垢な瞳に跪くか。それを、meはよく知っていた。彼女の存在自体が、混沌の巣窟たるこの地において、理屈を超えて万物を無自覚に魅了する絶対的な息吹なのだ。
meは画用紙を傍らの窓台に置き、空いた手を彼女の頭へと伸ばした。白い手袋の布地が、彼女の髪に引っかかって微かな摩擦音を立てる。ややウェーブがかった明るい金髪は、驚くほどに柔らかい。meの指がその髪を梳くように動くと、イブキは嬉そうに目を細めた。彼女の背中にある、一対の小さな黒い羽が、くすぐったそうにパタパタと震える。同時にお尻から伸びる、先がハート型になった細いしっぽが、左右へ楽しげに振られた。
「えへへ、先生になでなでされるの、すっごく好き」
彼女は窓辺に立つmeのスラックスをきゅっと掴み、その場に屈むようにして、自分の大きな軍帽をmeの太ももへと預けてきた。ハートのブローチが、meの白いスラックスの生地と擦れて、かすかな金属音を立てる。
「先生、もっとこっち来て。イブキの隣にいてね」
イブキは少しだけ上目遣いになり、まるで雛鳥が親鳥に身を寄せるように、自らmeの足腰に両腕を回してきた。meは窓外を視界に収めたまま、彼女の小さな肩を静かに抱き寄せ、窓際の僅かなスペースへと引き寄せた。イブキは、まるで体重を感じさせない軽さでmeの傍らに寄り添い、当然のような動作で、meの腰へと身体を密着させた。大きな黒いコートの生地が、meの白い服に覆い被さる。
そのとき、廊下の向こうから再び騒がしい足音が響き、扉が荒々しく開かれた。
「ちょっと先生! …なんで貴様がイブキと並んでるのだ! ……ああっ、もういい! とにかくこれを見ろ! ヒナの奴め、またしても我々の区域に――クソ、あやつめ、絶対に許さん、絶対にだ!」
入ってきたマコトは、meの純白の外套にぴったりと張り付くイブキの姿を見るや否や、手にしていた分厚い報告書の束を机に叩きつけた。紙束がばさりと音を立てて散らばる。激しい憤怒の勢いそのままに怒鳴り散らす彼女の言葉は、支離滅裂な不満の羅列となって室内に響き渡る。だが、meはただ冷徹に窓外を見据えたまま、その指先に、迫り来る事象の軌道を曲げて回避する『迂余曲折』の絶対防御を静かに宿した。
「なっ、なんだこれは……!? 私の華麗な突進が、滑るように逸らされているというのか!?」
マコトが掴みかかろうとする挙動も、その苛立ちの声も、meとイブキの周囲に展開された目に見えぬ障壁に阻まれ、霧散していく。どれほどマコトが腕を振り回そうとも、その干渉は届かない。meが微動だにせず拒絶の意思を示し続けると、マコトは地団駄を踏み、散らばった書類を不器用に抱え直した。
「く、くそぅ……! 覚えていろよ先生! イブキ、後でちゃんと万魔殿の部屋に戻ってくるのだぞ!」
捨て台詞を残し、マコトは乱暴に扉を閉めて去っていった。室内に残ったのは、静寂と、冷めかけた紅茶のわずかな香りだけだった。
meは白い手袋のまま、机の上に置かれた冷めきった紅茶のカップを無言で片付け、シャーレから持ち込んだ報告書の整理という、毎日の仕事にとりかかった。締め切りは明日の朝に迫っている。気乗りのしないまま、ペンだけを動かし続けた。けれども、meの服の裾を小さな手できゅっと握りしめ、胸元へ完全に顔を埋めてくるイブキの、規則正しい呼吸の音はとかく神経に触わりがちだった。
「先生、イブキね、ずーっとこうしてたいな。先生の匂い、なんだかすごく落ち着くんだもん……」
イブキはさらにmeの体にぴったりと寄り添い、小さな頭をこすりつけながら、まるで甘えるように深く息を吐き出した。その無邪気な仕草は、どんな頑なな心をも溶かしてしまうほどの温かさに満ちていた。のみならず、イブキが完全に眠り込んだ思うと、今度は隣の部屋から他の万魔殿のメンバーたちも思い切り、大声で騒ぎ出したりした。だが、meの隣で眠る少女の呼吸が乱れることはない。
それは、無機質な純白の外套に染みついた、微かなインクと、硝煙の匂いだったかもしれない。その小さな手から伝わる確かな体温と無垢な愛情が、meの絶対的な世界を静かに揺らす。そのまま、彼女は長い睫毛を伏せ、ゆっくりと規則正しい呼吸を続け、meの胸の温もりを独占していた。頭上のトゲトゲとしたヘイローの光が、徐々に緩やかで、温かみのある明滅へと変わっていった。先がハート型になった細いしっぽの動きが、完全に止まる。
meは、傍らで眠りについた少女の、柔らかな金髪を、ただ静かに撫で続けた。世界の行く末など、meが指先を一つ動かすだけでカタがつく退屈な記録に過ぎない。しかし、この微熱だけは別だ。確定された未来の線上にあって、meの白い外套を掴んで離さないこの小さな熱だけが――どうしようもなく、meの視界を狂わせる。