THE IMPERIAL SAVING   作:夏目陽光

12 / 27
回想メモリアル【棗イロハ】

ゲヘナ学園の本校舎から外れた場所に、古い温室があった。錆びついた鉄骨には茨の蔦が絡まりつき、割れたガラスが床に散らばっていた。

 

meは温室に入った。汚れ一つない純白のコートを羽織っていた。

 

温室の奥の古いベンチに、棗イロハが座っていた。彼女は自分の背丈よりも大きな万魔殿の紋章入りの旗を古い木枠に立て掛け、膝の上の本を所在なさげに眺めていた。meの白い衣服がその視界に入ると、彼女はひどく億劫そうに、重めの前髪の隙間からオレンジ色の瞳をこちらに向けた。頭上には、青紫色のトゲのように尖った五つの角を持つヘイローが、彼女の無気力さを表すように微かに揺れている。

 

彼女の声は気怠げだった。

 

「……はあ。やっぱり、ここまで来ちゃいましたか、先生。本当に、私のサボり場所を見つけるのだけは無駄に早いんですから。万魔殿のあのアホたちの相手からようやく解放されたと思ったのに、これじゃあ場所を変えた意味がありません」

 

meは静かに歩み寄り、埃の積もったベンチの端に腰を下ろした。イロハの着ている黒いオーバーサイズのミリタリーコートが、meの白い衣服と重ね合わさる。彼女のコートの袖はあまりにも長く、その両手は完全に布地の中に隠れてしまっていた。全てはmeの眼の前に開かれた未来の光景に過ぎず、この微小な逃避の結末さえも既に定まった盤上の歩みに過ぎない。おまえは戦う理由を覆い隠すようにその身を縮めている。冷や汗が出るのか。それはmeの眼が見据えるこのゲヘナの戦乱の予兆と同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。すべてがこの温室の停滞の中に溶けてゆくと思えばよい。未来の光景がmeの眼の前に開かれ、確定した破滅への歩みが刻める。喧騒から解放された今こそ、外で無駄な政争に明け暮れている生徒たちの運命を呑み干す権利がある。

 

「そんなに近くに寄らないでください。私のコートの汚れが、先生のその綺麗な白い服に移ってしまいますよ。……まあ、移ってしまえば、先生も少しはサボる気になってくれるかもしれませんけど」

 

イロハは本を閉じ、それを傍らに置いた。だらしなくスカートから飛び出した白いシャツの裾を直すこともせず、meの方へとわずかに体重を預けてきた。彼女の首元で緩められた赤いネクタイが、meの腕に触れる。meは手を伸ばした。彼女の頭に載った黒を基調とする立派な制帽の縁に触れ、その左右から垂れ下がる黒いリボンを指先で軽く弾く。meはそのまま、帽子の隙間から覗くえんじ色の柔らかな髪へと指を滑らせ、ゆっくりとそのウェーブのかかった髪を梳いていった。これから如何なる闘争と終焉が彼女らを待ち受けようとも、meの与える猶予だけが今の彼女にとっての絶対的な真実であった。

 

「……んっ。本当に、先生の手は容赦がありませんね。子供扱いしないでくださいと、何度も言っているはずです。私はこれでも、万魔殿の戦術部門を率いる身なんですから」

 

彼女は前髪の奥から睨むような視線を送ってきたが、その瞳には甘えの色が滲んでいた。太もものホルスターに収められたクラシックな黒い拳銃も、今の彼女にとってはただの飾りに過ぎない。彼女は徐々に目を細め、meの白い胸元へと頭をすり寄せてきた。いつもは面倒な義務を押し付ける周囲を遠ざける彼女が、この沈黙とmeの理不尽なまでの拒絶のない距離だけには、自ら進んでその身を委ねていた。イロハは抵抗をやめ、meの白い衣服の袖を大きな布地越しに掴んだ。

 

「……ふう。先生の隣は、いつも妙に落ち着くから嫌です。明日からの面倒な仕事のことを、全部忘れてしまいそうになります。……少しだけ、このまま、眠らせてくださいね」

 

彼女の頭上のヘイローが、穏やかな光を放ちながら静かに回転を止める。

 

夕暮れの光が斜めに差し込み、古い温室の床に散らばるガラスの破片を赤く染めていく。白と黒の二つの色彩は、その境界線を夕闇の中に溶かしながら、一つの静かな塊となってベンチの上に存在していた。イロハの呼吸は次第に深く、規則正しいものへと変わっていき、彼女の頭上のヘイローもまた、その光の明滅を穏やかな一定のテンポへと落ち着かせていた。meは何も語らなかった。すべての未来がどうあろうとも、今のこの瞬間だけは、彼女の怠惰と信頼を完全に守り抜く大人としての務めを果たすように、meは彼女の頭を預からせていた。イロハの頭がmeの肩にこてんと乗り、重めの前髪がmeの白い上着に静かに擦れた。

 

ガラスの破片が鈍い光を反射していた。外界の騒音はここには届かない。ゲヘナの喧騒も、万魔殿の無意味な権力闘争も、すべてはこの閉ざされた空間の前に無力だった。meの眼が捉える未来には、彼女が背負わされる無数の面倒事と、それをすべて放棄してこの場所に逃げ込む姿が幾重にも重なって映し出されていた。それは確定された必然であり、抗うことのできない世界の条理だった。イロハの黒いミリタリーコートは、まるで世界のあらゆる悪意や義務を遮断するための盾のようであり、その内側に隠された彼女の本質はひどく繊細で、どこか脆さを孕んでいた。彼女はその脆さをだらしなさという防壁で覆い隠し、誰の手も届かない場所へと隠そうとしていた。だが、meの眼はそのすべてを見通していた。

 

meは静かに視線を落とした。膝の上に置かれた彼女の頭は心地よさそうな重みを持っており、規則正しい呼吸に合わせて微かに上下していた。彼女の赤みがかったえんじ色のロングヘアは、西日に照らされて妖しくも美しい光を放っていた。その髪の毛一本一本の動きさえも、meの眼が視る未来の軌跡と完全に一致していた。すべては定められた通りに動き、定められた通りに静止する。イロハの頭上にある青紫色のヘイローは、今は完全にその鋭いトゲのような形状を潜め、穏やかな光の環となって彼女の精神の安定を示していた。

 

温室の空気は冷ややかだったが、二人が触れ合っている部分だけは、微かな熱が絶え間なく生み出されていた。イロハの長い黒いリボンが、風もないのに小さく揺れた。それは彼女の微細な感情の揺らぎを代弁しているかのようだった。彼女は夢の中でさえも、現実の煩わしさから逃れようともがいているのかもしれなかった。だが、meの隣にいる限り、その逃避は完全なものとなる。なぜなら、meの存在そのものが彼女のすべての怠惰を許容し、世界の理から切り離された絶対的な猶予を与えるための楔だからだった。彼女がどれほどだらしなくシャツの裾を出し、ネクタイを緩めようとも、meはそのすべてをあるがままに受け入れる。

 

それが大人としての、およびこの眼を持つ者としての義務だった。

 

meの白いコートの袖を掴む彼女の指先は、時折思い出したように強く握りしめられた。それは無意識の行動であり、彼女が抱く全幅の信頼の証左だった。彼女は決して口には出さないが、meが自分のすべてを見通していることを理解し、その上でこの場所に身を寄せている。風紀委員会の執拗な巡回も、この古い温室の結界を破ることはできない。meの眼がすべての侵入の可能性を事前に排除し、彼女のためだけの完璧な静寂を作り出しているからだった。夕闇は刻一刻と深まり、温室の内部を濃い影で満たしていった。割れたガラスの輪郭が曖昧になり、鉄骨の錆びついた質感が闇に溶けてゆく。

 

彼女の寝息はどこまでも深く、この世界のすべての闘争から隔絶されていた。彼女が万魔殿の戦術部門のトップとして振るう冷徹な指揮も、ここでは一切の意味を持たない。ただの無力で、めんどくさがりな一人の少女としての姿がそこにあった。meはその姿をただ見守り、彼女の頭にかかった制帽の位置を直すこともせず、そのままでいさせた。だらしなさこそが彼女の選んだ世界のあり方であり、meはその選択を全面的に肯定する。未来改変の力を持つmeの眼にとって、彼女のこの穏やかな眠りを維持することは、極めて容易なことであった。

イロハの身体が、さらに深くmeの方へと沈み込んできた。彼女の体温が白い布地を通して直接伝ってくる。彼女の呼吸がmeの胸元に小さな風を起こし、それはまるで世界が息をしているかとしての錯覚を覚えさせた。彼女の頭上のヘイローが、最後の微かな明滅を見せた後、完全に眠りの深度へと同調していった。meはただそこに座り続け、彼女のすべてを受け止める盾として機能していた。世界がどれほど混沌に満ちようとも、この場所にある平衡だけは、完璧な美しさを持って保たれていた。meの眼には、彼女が目覚めた後に浮かべるであろう、少し気まずそうで、それでも隠しきれない安堵に満ちた表情の未来が、すでに明確に映し出されていた。

 

夕闇が完全に温室を支配し、周囲の輪郭は失われた。鉄骨の隙間から覗く空には、星すらも昇らない重苦しい雲が立ち込めている。だが、その暗闇こそが、meの全知の眼にとってはもっとも明瞭なキャンバスだった。光が消え去った世界で、イロハの呼吸のテンポだけが、世界の正しさを証明する唯一のメトロノームとして機能していた。彼女の黒いミリタリーコートは、もはや周囲の闇と同化し、meの羽織る純白の衣服だけが、この閉ざされた空間の中で微かに孤立した光を放っていた。それはあたかも、すべての存在が虚無へと帰す中で、最後に残された特異点のような光景だった。

 

世界は常に不条理な変化を求め、生徒たちを果てしない闘争へと駆り立てる。万魔殿の議長が発する無軌道な命令も、風紀委員会が掲げる厳格な規律も、すべてはこの少女の持つ無限の怠惰の前には泡沫の如き存在に過ぎなかった。イロハがここで眠り続けるという選択は、世界のシステムに対するもっとも静かで、かつもっとも強固な反逆だった。meはその反逆のすべてを視通し、限界なき肯定を与えていた。銃を抜く必要のない未来、弾丸が飛び交うことのない空間を、meの眼は今この瞬間に固定していた。

 

彼女の小さな寝息が、meの白いコートの襟元を僅かに揺らす。そのたびに、微かな温もりがmeの肌へと染み込んできた。言葉による対話など、この絶対的な静寂の前には何の意味も持たなかった。meの沈黙は彼女のすべてを肯定する法であり、彼女の眠りはその法に対する完全な帰依だった。温室の外では、ゲヘナの風が建物の壁を叩く音が微かに聞こえていたが、その音すらも二人の距離を縮めるための背景音に過ぎなかった。イロハの頭上にある星型のヘイローは、完全に光を失ったかのように静まり返っていた。

 

meは動かなかった。彼女の眠りを妨げる可能性のあるあらゆる未来の分岐を、meの眼が次々と摘み取っていく。ベンチの木枠が軋む音も、風がガラスの破片を動かす音も、すべてはmeの意志によってあらかじめ排除されていた。この空間における唯一の許された動的な要素は、彼女の胸の上下運動と、それに伴う衣服の擦れる音だけだった。白と黒の境界線は完全に消失し、二人の存在は闇の中で不可分な一つの質量へと変貌していた。

 

時間は意味を失っていた。この古い温室の中では、過去も未来もすべてが一つの点へと収束し、meの眼の中にのみ存在していた。イロハが明日目覚めたとき、彼女はまた万魔殿の重責へと戻り、日常へと帰っていくのだろう。だが、その未来がどれほど決定事項であっても、今この瞬間の猶予が揺らぐことはない。meが与えたこの静謐な時間は、彼女の魂の深層に刻まれ、如何なる闘争の場においても彼女を支える見えない楔となる。彼女のえんじ色の髪が、meの上着の上で静かに広がり、夜の闇に溶けていく。

 

鉄骨の錆びた匂いと、割れたガラスに付着した古い土の匂いが、夜の冷気とともに温室の底に澱んでいた。イロハの黒いオーバーサイズのミリタリーコートからは、微かにゲヘナの本校舎の喧騒の残り香と、彼女が好む古い本の紙の匂いが混ざり合って漂っていた。その匂いは、彼女がどれほどこの場所に逃げ込もうとも、完全に現実から切り離されることはできないという残酷な事実を示していた。しかし、meの隣にあるこの瞬間だけは、その現実の引力すらも完全に無効化されていた。

 

彼女の規則正しい呼吸は、meの心音と奇妙な同調を見せ始めていた。イロハの小さな身体から発せられる熱量が、meの白いコートの繊維を伝わり、内側の皮膚へと浸透していく。彼女の緩められた赤いネクタイが、meの腕に絡みつくようにして静止していた。そのだらしなさは、meの持つ絶対的な秩序に対する、もっとも親密な形での侵入だった。もしmeの精神が世界の破滅を望む悪鬼のようなものであったとしても、この少女の圧倒的な怠惰の前には、その破壊衝動すらも静かに牙を抜かれるしかなかった。

 

meは彼女のえんじ色の髪に触れていた指をゆっくりと離し、彼女の背中を覆う黒いコートの上にそっと置き直した。その手のひらを通じて、彼女の背骨の微かな湾曲と、呼吸に伴う筋肉の弛緩がダイレクトに伝ってくる。彼女は完全に自己の防衛を放棄していた。ゲヘナの生徒が、これほどまでに他者に対して背中を預けるなど、通常の論理ではあり得ないことだった。だが、meという存在の前では、そのあり得ない事象すらも最初から計算に含まれたパラメータに過ぎない。

 

温室の片隅で、夜行性の小さな虫が羽音を立てた。その微小な音波すらも、meの全知の眼は事前に察知し、それがイロハの睡眠深度に影響を与えないことを確認していた。世界のすべての事象が、meの管理下に置かれているかのように錯覚させる静寂だった。だが、meは世界を支配しようとはしていなかった。ただ、この少女がサボるための完璧な環境を維持すること、それだけがこの古い密室におけるmeの唯一の機能だった。

 

夕闇が完全に夜の底へと移行し、温室の内部は一切の光を失った。しかし、meの眼には、イロハのストッキングに包まれた細い脚の曲線や、スカートの裾から覗く白いシャツの不揃いな境界線が、鮮明に視えていた。そのだらしなさこそが、彼女を万魔殿の狂気から守るための唯一の防具であることを、meは深く理解していた。だからこそ、meはその姿を正そうとはせず、むしろそのだらしなさが生み出す独特の不調和を、この空間の至高の美として受け入れていた。

 

彼女の寝息が、時折小さな排気音へと変わる。そのかすかな音が、温室の静寂に小さな波紋を広げ、形成されては消えていった。meは彼女の体温を感じながら、ただ静かに時の経過を傍観していた。未来はすでに確定しており、そこに驚きや動揺の余地は存在しない。だが、この少女がmeの白い服の裾を握りしめるその手の微かな震えだけは、決定された未来の枠組みを超えて、meの魂の最も深い部分へと直接訴えかけてくる何かを持っていた。

 

夜の冷気はさらにその密度を増し、温室の割れたガラスの隙間から、凍てつくような風が侵入してきた。だが、meの白いコートとイロハの黒いミリタリーコートが重なり合うその領域だけは、外界の寒冷から完全に隔離された熱の揺り籠であり続けた。イロハのえんじ色の髪が風に煽られて一筋だけmeの頬を掠めたが、彼女自身はその冷たさに気づくこともなく、meの胸の温もりに守られて深い眠りを維持していた。

 

夜は、まだ明けない。

 

温室の古い木製のベンチは、二人の体重を支えながら、時折小さな音を立ててその存在を主張した。その微細な木理の軋みすらも、meにとってはあらかじめ知られた世界の旋律の一部だった。イロハの呼吸はさらに安定し、彼女の精神は日常のあらゆる義務から解放された完全な空白へと到達していた。万魔殿の戦術部門トップという肩書きも、太もものワルターP38Kも、今はすべて彼女の存在の周辺に浮かぶ無意味な残渣に過ぎない。

 

meの全知の眼は、彼女がこのまま夜明けを迎えるまでのすべてのプロセスを、一瞬の狂いもなく見通していた。雲がどのように移動し、星の配置がどう変わり、あるいは朝の最初の光がどのガラス破片を照らすのか。そのすべてのディテールが、meの脳内で完璧にシミュレートされ、現実へと出力されていた。この圧倒的な全能感の中にありながら、meの胸中を満たしていたのは、傲慢ではなく、ただこの少女の眠りを守り抜くという、静かな責任感だった。

 

イロハの手の指先が、無意識のうちにmeのコートのボタンに触れた。その冷たい金属の感触に驚いたのか、彼女は小さく身震いし、さらにmeの身体へと密着してきた。彼女の黒いスカートの裾が擦れ、ストッキングの生地がmeのズボンと摩擦を起こす。その微小な音と感触のすべてが、この闇に包まれた温室の中で、極限まで研ぎ澄まされた意味を持って現出していた。meは彼女のその依存を当然のものとして受け入れ、彼女の背中を支える手の力を僅かに強めた。

 

夜明け前の最も暗い時間が訪れた。世界のすべてが死に絶えたかのような錯覚を覚えさせる、圧倒的な暗黒と静寂。だが、meの眼の前にあるイロハの存在だけは、その闇の中でも決して色褪せることはなかった。彼女の頭上のヘイローが、日の出の兆しを感じ取ったかのように、極めて微かに、しかし明確な青紫色の光を放ち始めた。それは彼女の目覚めが近づいていることを示す予兆であり、この完璧な逃避時間の終わりを告げるカウントダウンでもあった。

 

窓の外では、一枚の枯れ葉が重力に従って冷たいコンクリートへと、映画の一幕のように静かに、しかし決定論的な軌道を描いて落下していった。その一瞬の運動すらも、meの全知の眼にとっては最初から予定された盤上の記録に過ぎず、世界の不条理な移ろいを示す象徴だった。イロハの髪が、微風に揺れるその散り行く木の葉のように、meの白い衣服の上で静かに流れを整えていく。すべてはmeの視る未来の通りであり、その予定調和の美しさの中で、二人の時間はどこまでも静かに、光の境界を跨いで確実に流れていた。

 

meの視線は固定されていた。イロハの黒いミリタリーコートのシワや、その隙間から覗く白いシャツの不均等な折り目。それらはすべて、この世界の物理法則に従って配置された記号であり、meの全知の前に並べられた無数の情報の一つに過ぎなかった。彼女がどれほどだらしなく、かつ頑なにその身を着崩していようとも、その輪郭はmeの白いコートの明度と対比され、暗闇の中で浮き彫りになっていた。彼女の存在のすべてが、meという観測者を通じてのみ、その意味を完全に保証されているかのようだった。

 

彼女の睡眠は、ただの肉体の休息ではなく、外界に対する完全な拒絶の意思表示だった。風紀委員会の追跡をかわし、万魔殿の愚行から目を背け、この錆びついた温室の最奥にたどり着いたその結果。meはそのプロセスのすべてを肯定し、彼女が求める「猶予」をその肉体をもって提供していた。彼女がmeの服の裾を掴む布地越しの感触は、時間が経過しても衰えることなく、むしろ静かな質量を伴ってmeの神経へと伝わり続けていた。

 

時間の経過は、温室内の温度の低下によってのみ証明されていた。冷気が足元から這い上がり、散らばったガラスの破片をさらに冷たく冷やしていく。しかし、二人が寄り添うベンチの中心だけは、異質な熱が滞留し、外界の寒冷を拒絶していた。イロハのえんじ色のロングヘアは、meの肩にかかったまま微動だにせず、その重めの前髪は彼女の眠る顔を半分ほど覆い隠していた。その隠された表情のすべてを、meの眼は正確に描写し、記憶の盤面に刻み込んでいた。

 

世界が如何なる終焉に向おうとも、この密室の中にある構造が揺らぐことはない。イロハの頭上にある青紫色のヘイローは、完全にその光のトゲを収め、静謐な輪となって彼女の頭頂部に静止していた。それは、彼女がこの場所においてのみ獲得できる、完全な精神の防壁の現れだった。meはその防壁の保守者であり、彼女の怠惰を脅かすあらゆる未来の可能性を、その全知の眼によって事前に断裁し続けていた。

 

彼女の細い指先が、meの白い衣服の繊維を微かに引っ張るたび、温室の闇の中に小さな緊張が生まれ、そして消えた。それは言葉のない対話であり、彼女がmeに対して抱く全幅の信頼の、もっとも純粋な形の表出だった。彼女は目覚めるその瞬間まで、自らの安全をmeに委ねきっており、その確信に満ちた無防備さこそが、この空間を支配する絶対的なルールだった。

夜霧が温室の割れた窓から静かに流れ込み、床のガラス破片の光沢を鈍く濁らせていった。イロハの呼吸の音が、その霧の粒子に溶け込むようにして、より低く、より深く変化していく。meはただの大人として、また全知の主格として、その変化のすべてを無機質に受け止め、彼女の眠りを妨げないための静止を維持していた。白と黒の色彩が完全に調和し、一つの完結した風景として、夜の底に固定されていた。

 

彼女が背負う万魔殿の重責、あるいは戦術部門トップとしての冷徹な判断。それらのすべては、この温室の古いベンチの上では何の意味も持たない。ただのめんどくさがりな一人の少女が、自らの拠り所を求めて大人の傍らに身を寄せているという、至極単純な事実だけがそこに残されていた。meはその単純さを愛し、そのためにすべての未来を固定していた。

 

イロハの頭の重みが、meの肩を通じて全身へと伝わり、その物理的な圧迫感が現実の存在を強く意識させた。未来のすべてを見通す眼を持っていながらも、この少女の体温と質量だけは、予測を超えた生々しさをもってmeの肉体に刻まれていた。彼女のえんじ色の髪が放つ微かな香りが、冷えた空気の中で静かに拡散し、meの感覚を微かに満たしていく。

 

夜明けの光が、東の地平線から極めて緩慢に、しかし確実に這い上がってこようとしていた。温室の内部の暗黒が、徐々に濃い灰色へと薄まり、イロハのミリタリーコートの黒と、meの衣服の白が、再び明確な境界線を持って分離し始める。その光の訪れは、この完璧な逃避行の終わりを意味していたが、meの眼はその先の未来をも完全に支配しており、彼女が目覚めるその一瞬まで、この絶対的な猶予を守り続けることを決定していた。

 

彼女の頭上のヘイローが、朝の気配を察知して再び青紫色の光を微かに放ち始める。その光のトゲが静かに蘇るのを見つめながら、meは彼女の背中を支える手の位置をわずかも変えず、ただその目覚めの時を、世界の運行を見守る神のごとき静寂をもって待っていた。すべての出来事は定められた通りに進み、そしてこの停滞もまた、完璧な美しさのまま、未来の盤面へと引き継がれていく。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。