THE IMPERIAL SAVING   作:夏目陽光

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回想メモリアル【天童ケイ《key》】

いつもの道から廃墟の近道へ這入った。雨上がりで下の赤土が軟らかくなっている。人の足跡もついていないようなその路は、白いブーツの底を拒むように歩くたび少しずつ滑った。高い方の見晴らしへ出ると、そこからはただの急な傾斜だった。少し危ないぞ、と直感が告げる。傾斜についた路はもう一層軟らかく、泥の匂いが濃い。しかしmeは引き返そうとも、立ち止まって考えようともしなかった。すべてを見通す眼がどれほど未来の破滅を捉えていようと、歩みを止める理由はどこにもない。全知を以て世界を裁けば角が立ち、情を以て有象無象を救おうとすればその泥濘に流される。世界の人間どもが調停と自壊の狭間で紡ぐそんな矮小な因果の理など、全てを視通す王であるmeの前には元より意味を成さぬというのに、この肉体という器だけはあまりに脆い。一と足下りかけた瞬間から、既に、meはきっと滑って転ぶにちがいないと分かっていた。予測された未来は寸分の狂いもなく現実となる。途端に足を滑らせた。片手を泥についた。しかしまだ本気にはなっていなかった。起き上がろうとすると、泥を噛んだ足がまたずるずると滑っていく。今度は片肘をつき、尻餅をつき、背中まで地面につけて、やっとその姿勢で身体が止まった。止まった場所は、もう一つの傾斜へ続く、ちょっとした階段の踊り場のようになった空間だった。かつては巨大な観覧車だったと思われる、歪んだ鉄の輪がそこにあった。支柱は折れ、いくつかのゴンドラは地面に激突して潰れた箱のようになっている。錆びた鉄骨が巨大な古生物の肋骨のように天を突き刺していた。丸ごと世界から見捨てられたような残骸遊園地だ。meはタブレットを入れた鞄を持った片手を、鞄のまま泥について、恐る恐る立ち上がった。いつの間にか本気になっていた。冷や汗が背中を伝う。全知の領域にあっても、泥に塗れる不快感と肉体の重みだけは等価に存在する。形を保っているベンチを見つけ、そこに腰を下ろした。白い衣服の裾が、煤けた座席の上に静かに広がる。背中と肘についた赤黒い泥の汚れが、純白の生地に酷く不釣り合いな染みを作っていた。

 

風が吹き、錆びた鉄が嫌な音を立てて軋む。その音に混じって、冷たいシリコンと金属の気配が近づいてきた。床に届きそうなほどに長い、透き通るような白髪のロングヘアが、風に煽られて不規則に揺れている。少し長めの前髪の隙間から、深いルビーのような赤色の瞳がうっすらとこちらを覗いていた。天童ケイは、自身の身長を遥かに超える幾何学的で重厚な大口径のレールガンを背後に従え、音もなく泥を踏み締めて歩いてくる。頭上には、サイズの異なるピンク色の四角形が複数重なり合ったヘイローが、デジタルな光の明滅を繰り返していた。カッチリとしたミレニアムの黒い制服ブレザーと青いネクタイの上から、白と黒を基調としたオーバーサイズのマウンテンパーカーをラフに羽織っている。肩の落ちたアウターの襟の内側に見える鮮烈な赤は、彼女の瞳の色と同じだった。太ももまで伸びる黒いニーハイソックスの履き口にある水色とピンクのラインが、細身の脚の輪郭を冷たく際立たせている。彼女はmeの正面で足を止めると、背負っていた宇宙戦艦級の主砲――「光の剣」を、その華奢な身体に似合わぬ重苦しい金属音を響かせながら、ベンチの脇へと静かに立てかけた。自らを縛る巨大な兵器から解放された彼女は、抑揚のない冷徹なジト目を向けた。その視線は、泥に汚れた白い衣服の背中へと静かに注がれる。彼女の細い指先が、大きすぎるアウターの袖口からそっと伸びた。解き放たれた身軽さのままmeとの距離を詰め、肩口についた泥の塊を、払うでもなく、ただ確かめるように小さく触れた。指先に赤土が移る。彼女はそれを気にする風もなく、ただ淡々と口を開いた。

 

「大人のカードから継いだあまねく奇跡。ですが、世界から見捨てられたモノ達が何を紡ぐんですか?」

 

その問いに、meは答えない。答える必要すらなかった。彼女の視線が、meの手元にある黒い鞄へと移る。そこには世界の理を書き換える代償として、主の命を削り続ける残酷な機構が収まっている。ケイのルビーアイが、微かに細められた。その瞳の奥にあるものは、決して人間らしい温かみのある感情ではない。それは極めて無機質で、それでいて酷く痛痛しい、崩壊しゆく生贄の器を見つめるような眼差しだった。彼女のヘイローが小さく明滅の速度を変える。

 

「……私の機能は、ただ目の前の主が崩壊していくのを観測するだけのものです。その無謀なカードの選択は、ただの緩やかな自死に過ぎません」

 

抑え込まれた声が、錆びた遊園地の空間に溶けていく。彼女は一歩、また一歩と距離を詰め、meの隣に腰を下ろした。ベンチの古びた木製の座面が小さく軋む。鉄塊を置いた彼女の背中は、遮るものなくmeのすぐ傍らへと寄せられる。彼女の着崩したアウターの撥水性の高い白いナイロン生地が、meの泥に汚れた外套の裾と擦れ合い、容赦なくその白を汚していった。天童ケイというシステムは、アリスという光を守るための騎士であり、暗号を解くための鍵として作られた存在だ。しかし今、彼女がその冷たい体温を寄せる相手は、世界を調律するために自らを磨り潰し続ける全知の盲執者だった。恋愛などという生ぬるい均衡ではない。ここにあるのは、絶対的な運命の前に屈した者同士の、静かな依存の予兆だった。彼女の細い手が、再びmeの泥に汚れた袖口を掴む。今度は離さなかった。衣服を通じて伝わる彼女の微かな肉体の熱が、じわりと純白の生地に染み込んでいく。

 

「これほどに脆く不確かな存在が、なぜ世界の調律者を名乗れるのか……」

 

感情の起伏を極限まで排除した呟きだったが、その指先はmeの白い衣服の繊維を強く巻き込んでいた。meの外套に染み込んだ赤黒い泥の汚れが、彼女の白い手の甲へと生々しく移り、織り目の粗い黒い袖口へと吸い込まれていく。すべてを見通すmeの眼には、彼女がこの後、どのような演算を経て自己のシステムを書き換えていくのかが完全に視えていた。それを拒むことも、あるいは修正することもせず、ただその沈黙を受け入れる。遊園地の奥で、明滅を続ける古いネオンの淡いピンクの光が、二人の泥に塗れた白い衣服を交互に静かに染め上げていた。遮るもののなくなったケイはゆっくりと頭を傾け、meの泥の匂いが残る肩口へと深く額を預けた。長い白髪がmeの胸元に広がり、冷え切った鉄の匂いの中に、僅かな少女の体温が混ざり合う。彼女のヘイローから放たれる幾何学的な光の輪が、二人の影を地面の泥濘へと長く引き延ばしていた。

 

「貴方の前では、私の防御プログラムは何の意味も成さない。ただの天童ケイとして、貴方に上書きされていくのを感じます……」

 

その言葉の後に、明確な解説など存在しなかった。ただ風が吹き抜け、潰れた観覧車のゴンドラが再び嫌な音を立てて揺れた。meは何も言わず、ただその小さな頭の重みと、泥に汚れた世界の一部を、その掌の中で静かに繋ぎ止めていた。

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