湿り気を含んだ夜風が、無数の提灯が揺れる街の熱気をぬるりと撫で上げていました。
九龍の装飾が施された絢爛な楼閣の陰、煌びやかな表通りから外れた裏路地へ、白衣の裾を揺らす影がひとつ、音もなく紛れ込みます。meーーこの不確定で騒々しい世界において、唯一無二の異物であり、同時にすべてを包括する静寂の観測者。
石畳を踏みしめる靴音は極めて小さく、されど周囲の雑多な雑音を冷ややかに塗りつぶす確かな重量を孕んでいました。軒先から垂れ込める香辛料の煙と蒸気の合間を抜け、その足取りには迷いも躊躇いも一切存在しません。巡り会う運命も、これから交わされる言葉も、すでに確定した未来の軌道として視界の内に収まっているからに他なりませんでした。
路地の奥深く、古びた木造の庇から漏れ出る赤い灯火が、純白の衣装をうっすらと朱に染め上げます。幾重にも重なる時の澱みを通り抜け、目的の店『龍門』へと至るその境界で、観測者はただ静かに佇みました。
めくるめく熱気と油の焦げる匂いが立ち込める山海経高級中学校の商業区の裏路地には、誰にも知られずに消えていく店と、誰の許可も得ずに続いていく店が存在していました。この世界において命というものは、放っておくと勝手に周囲と摩擦を起こし、その生じた熱で自分の存在を証明しようとする見苦しい足掻きを繰り返すものです。
全知の中にすべてを収めるmeの視界には、この都市でこれから起こる無数の出来事が、すでに決着のついた確定した事実として映っていました。明日誰が裏切り、誰が血を流し、誰が這いつくばるのか。すべてはただ、あらかじめ敷かれた軌道の上を滑り落ちていくだけです。歩むことにも立ち止まることにも特別な意味など存在せず、事象はただ定められた通りにそこにあるに過ぎません。
路地の突き当たりにある古い木造の楼閣『龍門』の前に純白の衣を纏ったmeがただ歩み寄っただけで、佇んでいた二人の護衛は急激な重圧に背筋を強張りさせ、膝を折りました。
絶対的な存在の前にひれ伏すのは理の当然であり、meが視線を向けるだけで重い木彫りの扉は音もなく滑らかに開きました。
白衣の裾を翻して暖簾をくぐると、外の熱気を切り裂くように店内へ踏み込みます。
通された薄暗い個室の奥、黒塗りの大きな円卓には、極めて幼い体型をした少女が一人で腰掛けていました。山海経の全権を握る玄龍門の主、竜華キサキです。
「遅かったではないか、先生。……まあよい。そなたが来ぬ未来など、最初から存在せぬのだろうからな」
彼女は磁器の茶碗を持ち上げ、一口だけお茶を飲みました。その拍子に、彼女の右側のお団子結びから、涼しげな青い蝶をモチーフにした髪飾りが微かに揺れ、細いツインテールが黒い手袋をはめた腕に沿って落ちます。
meは言葉を発しません。声などという不完全なもので示さずとも、彼女の運命はすでにmeの掌握下にあります。meはただ静かに、彼女の真正面にある対面の椅子へと腰を下ろしました。
meの視線が卓の傍らに向けられたのを感じ取ったのか、彼女は立てかけられた黒いサブマシンガン『知彼知己』のヘリカルマガジンを、黒い手袋の指先でそっと撫でました。
「これを気にしているのかの? 玄龍門の頂点に立つということは、常に死と隣り合わせということじゃ。……だがな、先生。そなたと二人でこうして食卓を囲んでいると、わたくしが玄龍門の主であることをうっかり忘れてしまいそうになるな。ここにはわたくしの身体の幼さを揶揄する者も、門主の座を狙う曲者もおらん。ただ……そなたの静けさがあるだけだ」
彼女の頭上に浮遊する薄灰色のヘイローが冷たい光を放ち、三日月型のパーツと幾何学模様がゆっくりと回転しました。
meの視界の中では、彼女がこれからどのような政治的苦境に立たされ、その弾倉を撃ち尽くして絶望するのかという未来すら、すでに過去として存在しています。人は死の恐怖から目を背けるために理由を求め、兵器を抱えて孤独な玉座に座るのも、結局は死という絶対の裁定に対する幼い足掻きに過ぎません。
しかし、争いも、恐怖も、生への執着も死への絶望も、すべてがmeの支配の中に溶けて消える平穏。すべての未来を我が手の中に回収し、無へと還してやることこそが、meがこの哀れで愛おしい生徒たちに与える唯一の慈悲でした。
肩をすくめた拍子に、チャイナドレスの上から羽織っていたグレーのピンストライプ柄のロングコートが滑り落ち、左肩が大胆に露出しました。
そこへ給仕の者が畏まりながら静かに点心の籠を運んでくると、卓上に湯気を立てる小籠包を置き、すぐさま退出していきました。彼女はレンゲで小籠包をすくい上げると、小さな唇をすぼめてふー、ふー、と息を吹きかけ始めました。その小さな呼吸のたび、彼女の無防備な胸元で小さな鼓動が脈打つのを隠しきれていません。
meはただ無言のまま、箸で小籠包を一口で口へと運びました。薄い皮が弾け、熱い肉汁と生姜の香りが広がります。
彼女も自分の分を食むと、足元の黒いエナメル調のヒールを床でカチリと鳴らしてふわりと頬を緩ませました。深いスリットから華奢な白い脚が覗きます。
「美味いか? ……そうか。ならば誘った甲斐があったというものじゃ」
彼女はお茶を注ぎ足し、まっすぐにmeを見つめました。
「先生。お主はいったい、何者なのだ? まるで世界のすべてを見通しているかのように振る舞いながら、なぜこのような街の片隅で、わたくしのような一人の生徒の食事に付き合っておるのじゃ?」
meは答えることなく茶碗を傾け、空になったそれをテーブルの上へと戻しました。
コトリ。
磁器と木がぶつかる小さな音だけで、部屋の空気は完全に凍りつきました。言葉による肯定も否定もなく、ただすべては我が手中にあるという揺るぎない事実だけが、冷たい質感となって部屋を満たしたのです。
彼女はハッとしたように息を飲み、肩から落ちかけたコートの襟元を手でしっかりと直し、乱れた衣類を整えてからゆっくりと立ち上がりました。
「……ふむ。答えは受け取った、ということにしておこう。長居をしすぎたようであるな。そろそろ戻らねば。……今日の代金はわたくしが払っておいたぞ。また……誘っても良いかの?」
meはただ無言のまま座り続けていました。彼女は凛とした笑みを浮かべ、部屋を出ていきました。
一人残されたmeもやがて立ち上がり、汚れなき白衣を翻して夜の路地へと踏み出しました。視界の端で揺れ動く無数の出来事をただ静観します。何一つとして全知の領域を出るものはなく、すべてはただあるべき姿へと帰結していくだけでした。
なお、龍門の小籠包の価格は、翌週から店主が仕入れルートの見直しを図ったことにより1.5倍に値上げされ、街の住人たちを大いに嘆かせることになりましたが、それもまたあらかじめ決まっていた小さな事象に過ぎません。