湿った古い石畳に、路地裏の小さな灯籠がぽつりと橙色の光を落としている。
夜の冷気が街の喧騒を覆い隠す中、白い衣の裾を夜風にはためかせる
その佇まいは、まるでこの世界の理から切り離された絶対的な異物。白手袋に包まれた指先が湿気を吸った重厚な真鍮の取っ手を押し開ければ、チリンと乾いたカウベルの金属音が、夜気の静寂を切り裂いて響き渡る。
扉の向こう側は、まるで時が停止したかのような錯覚を抱かせる、どこか懐かしい木と焙煎珈琲の濃密な香気に満ちていた。
そして――カウンターの最奥。
この店における特等席に鎮座していたのは、柚鳥ナツであった。
彼女はフォークとスプーンの刻印が踊る巨大なピンクと白の防弾シールドを床に突き立て、その重々しい金属の厚みにあごを預けて、だらんと全身の力を抜いている。
トリニティの制服の上に羽織ったダボついたカーディガンの袖先からは、指先すら覗いていない。
だが、その頭上に顕現するピンクの
ジト目気味の赤き瞳がこちらを捉えた瞬間、彼女はだらけきった姿勢のまま、萌え袖の先をパタパタとちょこんと挙げて見せた。
「やあ、先生。待ちくたびれたよ。私の『ロマン』に付き合う準備はできているかい?」
低い、どこか物静かで
自らを哲学者か物語の語り手であるかのように演出する、彼女特有の気取った仕草だ。
しかし、その背後で
対する
帽子を白手袋の手で少しだけ目深にかぶり直し、無駄のない静かな足取りで、彼女の隣の丸椅子へと滑り込む。
言葉など不要だった。
全知の領域に立つ者にとって、彼女がこのあと何を発声し、何を望むのかなど――すでに疑う余地のない
静寂の中、マスターの手によって静かに一皿のショートケーキが運ばれてくる。
白い陶器が木目のテーブルと擦れ合い、かすかな音を立てる。ナツはそのわずかな残響を慈しむように、ゆっくりとシールドからあごを離した。そして、萌え袖の先から器用に指先を覗かせると、皿の上の造形をじっと見つめる。
「ふむ……物事にはすべて理由があるのさ。たとえば、このケーキの上に鎮座するイチゴの孤独について、君はどう思うかい?」
出た。彼女の
彼女はフォークの柄にそっと指を添え、まるで重大な儀式でも執り行なうかのような重々しさで言葉を紡ぎ出す。
「純白のクリームの海でたったひとつ、真っ赤な果実が己を主張している。これは一見すると圧倒的な孤立だが……見方を変えれば、既存の平穏に対する至高の反逆であり、この小宇宙における完成された調和とも言えるのさ」
すましたポーカーフェイスでポエムを紡ぎ、おもむろにフォークへと手を伸ばすナツ。
――だが、その動作の途中で彼女の指先がピタリと止まった。
皿の脇にあったフォークが、すでに彼女の手の届く最良の位置へ滑り込んでいたからだ。彼女の手が伸ばされる軌跡をあらかじめ知覚していた白手袋が、一切の無駄なく動いた結果だった。
「……! ふふ、言葉を重ねずとも私の『ロマン』を完璧に理解してくれるとはね。さすがは私の理解者だ」
しばしの沈黙のあと、満足げにジト目を細めたナツはフォークを受け取った。
銀色の先端が柔らかい生地を沈め、一口分を切り取る。ゆっくりと口元へ運ばれるその数秒間、店内の空気がピンと緊張感を持って張り詰める。一切の無駄を削ぎ落としたその静寂は、まるで世界の理が彼女の次の一手に注目しているかのようですらあった。
そして――。
「……ふにゃあ……ん美味しいぃ……!」
――完全崩壊。
先刻までの気取った哲学者気取りはどこへ行ったのか。
一瞬で顔をトロトロに溶かしたナツは、ダボダボの袖先をパタパタと小刻みに振り泳がせ、萌え袖の端っこでちょこちょこと口元を拭い始めた。あまりのギャップに、店の静寂が物理的に揺らいで見えるほどだ。
「ふ、ふむ……咳払い。次は本丸だね」
数秒間、うっとりと余韻に浸っていたナツは、赤くなった顔をごまかすようにコホンと露骨な咳払いをひとつ。再びジト目を作ると、ターゲットである頂点のイチゴへとフォークを向けた。
だが、その手はイチゴの寸前でピタリと止まる。切り崩されたケーキの断面を見つめ、彼女は深々とした溜息をひとつ吐いた。
「考えてもごらんよ、先生。このイチゴを口にするということは、私という観測者の都合によって、この美しく完成された調和を永遠に失わせるということだ。しかし、この葛藤こそが『ロマン』の深淵であり、味わうという行為の本質ではないだろうか……」
長い前置きと、無駄に重厚な間。
急かすことなく見守る視線に背中を押されたのか、ナツは意を決したようにイチゴへと銀色の歯を立てた。
「このイチゴを口にする瞬間、孤独は終わりを迎える。それはひとつの世界の崩壊であり、消費という名の完成なんだよ」
自らに言い聞かせるようなドヤ顔で謎の解説を添えつつ、イチゴをまるごと一口で頬張る。
「……ふにゃあぁっ……あまぁい……しあわせぇ……!」
駄目だった。やはり耐えきれなかった。
頬を濃いピンクに染め上げ、うっとりと至福の表情で何度も大きく頷くナツ。袖の先で顔を隠しながら悶絶するその姿は、どこからどう見てもただの甘党な女子高生である。
「ふぅ……素晴らしいロマンの探求だったよ、先生」
完食したナツは名残惜しそうにフォークを置くと、大きなカーディガンを整え、重厚なシールドを抱えてゆっくりと立ち上がった。
ローファーの靴底が床を鳴らし、扉の前まで歩みを進める。取っ手に手をかけたところで、彼女はふと足を止めて振り返った。
「また私と……この至高のロマンに付き合ってくれるかい?」
夜風にピンクの髪を揺らす少女へ、
ナツはそれで全てを理解したように満足げに微笑み、カウベルの音を残して夜の闇へと溶けていく。
残されたセピア色の店内で、
(……歩むがよい。未来のすべては、
心の中でだけそう呟き、