キヴォトスは歪んでいる。そしてそれゆえに美しい、と誰かが言った気がする。学園ごとに異なる法律があり、生徒はそれぞれの信念を持って生きている。例えば、古い巻物だけで世界の存亡に関わるような騒ぎを起こす少女がいるもあれば、ただ静かに景色を眺めて過ごすだけの退屈な今を愛する場所もある。それぞれの場所にはそれぞれの風が吹き、それぞれの理不尽が満ちている。ここはそういう無数の日常の一つに過ぎない。
古い木造校舎の畳の上、香木の煙が頼りなく揺れる中、meは白い和服の裾をただ重たく垂らしたまま、足元に転がる破れた巻物の切れ端に目を落としていた。
「にんにん! 先生殿、見るでござるよ!」
桃色の長いマフラーが首元でほどけかけ、煤色の髪が跳ねる。ミチルは自作の武器の調整や動画のネタ探しに没頭する日々の延長線上のように、頼りない自信をそのまま我が物顔で誇示していた。そういえば、つい先日も彼女は百鬼夜行の露店で怪しげな木製の起爆装置を買い込み、不発に終わって大泣きしていたはずだ。物騒な機械を好むわりに構造の理解が致命的に浅いのは、一体どういう因果律によるものか。
その足元には、動画の機材やら怪しげな薬の瓶やらが乱雑に転がっており、片づけの概念というものが彼女の辞書には存在しないことが一目で知れる。ふと、とある学園で食べた奇妙な甘味の味を思い出す。塩辛いのか甘いのか判別がつかないまま、ただ喉の奥を通り過ぎていったそれと、ミチルの語る野望の質感は何処か似ていた。
「ここに書かれている秘術、まさに我が忍術研究部の未来を切り拓く最強の奥義に違いなしなのさ…!」
鈍色の耳がぴこぴことせわしなく動き、頭上の手裏剣じみた光輪がうっすらと明滅する。勢い余って前のめりになり、自らの重心を制御しきれないまま畳に手をつく姿には、失敗を恐れず前のめりに突き進む彼女特有の危うい無鉄砲さが滲んでいた。時折、怒られてはすぐに丸め込まれるその単純さは呆れるほど一途だ。
「どうですか先生殿! この巻物に記されし影分身の改修版、これを極めれば動画の再生数など一気に倍増…! いや、百鬼夜行の覇権すら私の手に!」
自信満々な笑みのまま、彼女はさらに距離を詰めてくる。その鼻先が触れそうなほどの距離で、meはただ静かに息を吐いた。言葉など不要だった。沈黙のまま見据えるだけの反応が、彼女には独自の肯定として映るらしい。部活の予算のほとんどを謎の特訓器具に消し飛ばし、周囲から何度呆れられても懲りないその図太さは、時として周囲の人間を盛大に振り回す原動力となっていた。
ミチルは満足げに鼻を鳴らすと、墨色の尻尾をふわりと揺らしながらさらに巻物の端を引いた。
「ふふーん、さすがは先生殿!さあさあ、もっと近くで見てみて…。ここ、文字がすり減っていて読めないから、頭を突き合わせよう…!」
ミチルが身を乗り出した瞬間、乾いた繊維が悲鳴を上げた。経年劣化に耐えられなかった羊皮紙の中心から、嫌な音が響く。
「ひゃうん!? な、なんでこれ!?」
破れた。文字通り、一瞬の出来事だった。ミチルの指先がそのまま頼りない古紙を切り裂き、彼女の肩が不自然に硬直する。
「ちょっと、これ古すぎじゃん! え、何これ、破れたんだけど…!? やばい、先生殿の前で大失敗したじゃん……!」
途端に忍者ぶった口調が消え失せ、焦燥の色がその顔全体を塗りつぶした。取り繕うように両手を無意味に空中で泳がせ、視線をさ迷わせる。自作の忍殺銃の暴発で黒焦げになりながらも言い訳を重ねていた普段の姿が嘘のように、この瞬間ばかりは素の女子高生の慌てぶりが露呈している。
そのあわてふためく無様なまでの動揺を、meは微動だにせず見下ろしていた。
白い和服の袖がかすかに擦れる。meはただゆっくりと手を伸ばし、その煤色のツインテールに触れた。そのまま逃げ場のない頭頂部、鈍色の耳の付け根を包み込むように撫でる。
「シャワット……!?」
奇妙な声を漏らしたまま、ミチルは全身を硬直させた。背後で大きく波打っていた墨色の尻尾がピタリと停止し、次の瞬間に激しく揺れ始める。頬から耳の端までが瞬時に朱色に染まった。
「せ、先生殿……? 急にそんなことするなんて反則じゃん……こんなの聞いてない……いや、違う、忍者は常に不意打ちに備えるべきで……でも頭撫でられるのは圧倒的満足……うぅ……」
日頃の強気な振る舞いや大言壮語の裏腹で、自作の道具を褒められたり真っ直ぐに気遣われたりすると途端に気恥ずかしさを隠せなくなるその素直さが、この不意の接触によって引き剥がされるように露わになっていく。
抗議の声は次第に小さくなり、彼女の全体重がそのままmeの体に預けられる。幾重にも巻きついたピンクのマフラーが乱れ、のぞき込んだ忍者服の合わせ目がわずかに緩んで無防備な鎖骨のラインが露わになった。狼狽える少女の熱を帯びた肌から漂う甘い香りが、静まり返る空間の温度を微かに狂わせていく。
「……先生殿、ズルすぎるでしょ。いつもこうやって、私のペースをめちゃくちゃにするじゃん……。これじゃあ、百鬼夜行最強の忍者への道が遠ざかる一方じゃない……」
かすれた文句を吐き出しながらも、衣服の裾を掴む指の力は抜けない。むしろ離れる気配すらなく、隠しきれない気恥ずかしさを隠すように、ぐっと顔を押し付けてくる。
外の空気が冷たさを増し、夕闇が静かに校舎を呑み込んでいく。meはそのままの姿勢で、腕の中で小さく息を潜める少女の温もりを受け止めていた。
静まり返った畳の上で、ミチルは不規則な呼吸を繰り返しながら、やがて安心したようにその小さな肩の力を抜いていく。
無防備に寝息を立てるその幼い横顔を見つめながら、揺らぐことのない絶対的な時間の流れを感じ取る。
meはこれまでもこれからもこのキヴォトスの行く末を、例え何も見えなくなろうとも見届ける。