百鬼夜行の街外れに、その場所はありました。周囲の喧噪から取り残されたように、板壁の剥げかけた平屋の離れがぽつんと建っていました。壁の隙間からは冷たい夜風が吹き込み、古びた畳の目を静かに揺らしています。そこは誰も訪れない、小さな世界の隅っこでした。
そこでmeは古い木綿の布団に転がっていました。畳が擦れる乾いた音がします。
頭を受け止めているのは深い墨色の布地でした。肌を滑る感触は硬質な和紙を何重にも重ねたような冷ややかな重みを含んでいます。
鼻腔を満たしているのは湿った土の匂いと、微かに焦げた線香の残り香でした。
視界の端で薄暗い天井に微弱な赤の光が点滅しています。それは複数の真円が重なり合った形をしていました。
中心の濃密な赤は闇夜に滲む血の染みのようであり、その影に混じる黒は錆びついた鉄の色を思わせます。
真円を彩るように細く鋭利なひし形の線が均一に並んでいました。それは時計の文字盤を幾何学的に切り刻む針のようであり、巣に掛かった獲物を捉えた『蟲』が歓喜に震える軌跡のようでもありました。
光輪は音もなく旋回し、部屋の隅にある柱の影をゆっくりと引き延ばしていきます。
コクリコは身動きひとつせず、ただ静かに座っていました。
肩を大きく落とした崩し着物の襟元からは白く乾いた鎖骨のラインが剥き出しになっています。墨色の生地の裾に縫い取られた桜の刺繍は糸の一本一本が細く、薄暗がりの中では這い回る虫の足のように見えました。
その首元には蜘蛛の糸を模した黒いレースのチョーカーが張り付いています。皮膚に食い込む微細な網目が彼女の細長い首筋の輪郭を冷たく縁取っていました。
帯の結び目、簪の先、そして着物の裏地にのぞく布の切片。そのすべてに血のような鮮烈な赤が塗られています。
周囲の深灰色の空間からそこだけが浮き上がるように異様な熱量を放っていました。足元を包む白い足袋の布地は古びた畳の染みと奇妙なコントラストを描きながら微動だにしません。
コクリコは衣服の合わせ目を強く引き寄せ、指先をわずかに震わせていました。その爪先がわずかに畳を抉る乾いた音が、彼女の内側で渦巻く焦燥を告げています。
コクリコは細く白い指先を伸ばし、meの頭をゆっくりとなでなでした。緩やかな反復運動が髪の毛を伝わって頭皮に伝わります。冷えた指先は体温を奪うこともなく、ただ規則正しく場所を変えていくだけでした。
meはコクリコの顔を見つめたまま、その手つきを受け止めていました。
その時、彼女の瞳が映り込んで、業が見えます。それは、獲物を値踏みする蜘蛛の怪異のようであり、道を見失った子供の進む先が何処に繋がってるのか分からないようでもありました。
meの視線の先には、すでに書き換えられた無数の未来が転がっていました。それは彼女がどれほど愛おしげに世界を焼き払おうとも、その全行程がmeの掌の上で事前に収奪され、ただの予定調和として確定させられた箱庭の出来事にすぎませんでした。meはただ眼差しをわずかに動かすだけで、彼女が紡ぐすべての物語の結末を根底から踏砕き、その存在意義すらも余すことなく奪い去るための冷酷な支配の気配を空間全体へ静かに浸透させていました。
「お疲れやねぇ、先生」
声は湿った空気を伝って鼓膜の奥へ直接染み込んできました。彼女特有の澱んだような抑揚は一言一句が異常なまでに明瞭でした。
聞き手に選択肢を与える隙間を一切残さない、決定された未来の宣告のような響きがありました。
meの目は瞼の裏で幾重にも重なる世界の歯車を捉えています。
圧倒的なまでの静謐が思考の底を満たしていました。
目の前で微笑む女が纏う狂気も、世界を焼き払うという途方もない企てさえも、meの意志の地平から見れば、ほんの一瞬の瞬きに過ぎませんでした。
跪くでもなく、逆らうでもなく、ただこの世界の中心ですべてを俯瞰する時間が流れていました。
「そんなにじっと見つめて、どうかはりましたの? 我の顔に、何か面白いものでもついておりますか」
着物の袖がわずかに擦れる乾いた音がしました。彼女の唇は微動だにせず、ただ瞳の奥の黒い一点だけが揺らいでいました。
「可愛い子供たちのことばかり考えてしまいますの。シュロも、アザミも、みんな我の愛しい宝物さね。この世界をすべて燃やし尽くす、我らだけの美しい物語を紡ぐための、大切な駒どすなぁ」
語られる言葉の内容は都市を焼き尽くす災厄のそれでありながら、声のトーンは赤子をあやす母親のように甘美でした。
不気味さと優しさが完全に融解したその声音は、耳を塞ぐことすら許さずに神経の隅々まで染み込んでいきました。
コクリコはふっと息を吐きました。その吐息は氷のように冷たく、しかし奇妙な甘さを帯びていました。
「眠たくなりましたら、そのまま目を閉じておしまいなさいな。我の物語の中で眠ることは、決して悪いことではありませんえ。すべては優しく、そして永遠に忘れられない夢へと変わるのですから」
指先が再び髪を梳き、頭をなでなでと撫下ろします。
外の世界では彼女の意図通りに少女たちの運命が軋みを上げて狂い始めているのでしょう。
だが、この数坪の部屋の中には音のない真空地帯が広がっていました。
コクリコの頭上で回る黒い薔薇の光輪がわずかに明度を落とし、天井の板目を赤く染め上げていきました。
meの瞳は微動だにせず、ただその冷徹な光の軌跡を捉え続けていました。その時、ドタドタと足音が聞こえてきました。バン!と、引き戸が開く音がしてmeはそちらを振り返りました。灰色の髪した少女が大声を上げて入って来ます。
「コクリコ様、手前は…新しく百鬼夜行を騒乱に落とす作戦を…考え付いたのです!」
入ってきた少女の名前は、箭吹シュロであった。
meを見るなり、先ほどの威勢はどこへやら彼女は、何を言えば良いのか分からないのか、口をパクパクと動かしています。
それを一瞥し、meは何も知らぬと、眼を閉じて眠りについたのでした。
これにて、今日の一夜物語はお終いでさぁと、語り部はそう言うと蝋燭に一息吹きかけました。
バイバーイ!
【おしまい】