すべてがあらかじめ理に抱かれ、世界は美しくなんかないと、長い長い旅を続ける者が言った。
このミレニアムサイエンススクールの一室にもまた、独自の理と静寂が満ちていた。窓の外の橙色はとっくに消えて、藍色の夜がガラスの向こうに貼り付いている。部屋の中には、パソコンの冷却ファンの駆動音が一定の周期で響いていた。
床には青いカーペット。中央のローテーブルを挟んで、二人が向かい合っている。
天童アリス。 床に届くほど長い黒髪の持ち主。濃いネイビーの色合いをしたその髪は、自分の身長よりも長いくらいの圧倒的なボリュームを伴い、毛先がゆるく広がってカーペットの上を這っている。 その顔には澄んだ青い瞳があり、華奢で可愛らしい少女の姿を形作っていた。 頭上には、薄いエメラルドグリーンのヘイローが浮かんでいる。四角形とデジタルメーターを組み合わせたようなメカニカルなデザイン。それは一定のリズムで明滅していた。 服装はミレニアムサイエンススクールの制服である。白とネイビーを基調としたセーラー服風のトップスに、黒のプリーツスカート。その上から、だぼっとした大きめの白いゲーム開発部のジャージを羽織っている。袖口から伸びる細い手首が、ジャージの大きさを際立たせていた。 足元は白と黒のハイカットスニーカー。アクティブに動けるその靴は、床にきちんと揃えて置かれている。
meは白い服装をまとい、背筋を伸ばして椅子に座っていた。 meの視界の端で、アリスの細い指がテーブルのふちを掴む。
「ふふーん……。アリスのターンになりました。…このカードで、勝負を仕掛けに行きます!」
アリスは小さな両手でカードを持ち、テーブルの板に叩きつけた。 乾いた音が狭い部室の空気を打つ。
テーブルの上のカードの配置を見る。 彼女の右手の親指に、わずかな絆創膏が貼られているのが見えた。ゲームの基板のハンダ付けで擦りむいたのだろう。その小さな傷痕が、白いジャージの袖口からちらりと覗く。
少女は自らの内部システムに刻まれた勝利への確信を淡々と処理しながら、カチカチと小さな歯車が噛み合うような機械音を立てて微かに首を傾げた。
「すごいのですか? 先生、なんだかとても静かです。もしかして、アリスの攻撃に驚いているのですか?」
アリスは首をかしげ、その澄んだ青い瞳をこちらに向けた。 そこには一切の淀みがない。
ゲームのルールブックをどこか斜めに解釈し、勇者としての冒険のつもりでカードを操る彼女の思考は、いつだって真っ直ぐだ。高度な演算能力を持つ機械体でありながら、レトロゲームの知識で世界を解釈し、健気に勇者を模倣する人間じみた純真さこそ、彼女の持つ根源的な可憐さだった。難解なゲームの勝利よりも、目の前の人間と一緒に遊べているという事実そのものに、彼女の純度高い喜びのすべてがあった。ふと見せる無防備な仕草や、自分の身長ほどもある長いネイビーの髪を気にして首を傾げるその無邪気な様子は、計算のない圧倒的な愛らしさを放ち、彼女がただそこにいるだけで部屋の空気が微かに柔らかくほどけていくような、そんな不思議な魅力を纏っていた。
meは言葉を発しない。 ただ、彼女の指先を見つめる。 彼女が引いたカードの角が、わずかに折れているのが見えた。何度も手札に加えられ、床に落とされ、雑に扱われてきた紙の摩擦の痕跡。
「ふふ。アリスの攻撃が、先生の壁を突破します!」
宣言とともに、アリスの超ロングヘアが揺れた。ネイビーの髪の毛がカーペットを擦る微かな音がする。だぼっとしたゲーム開発部のジャージの裾が少しだけめくれていた。
meは微動だにせず、ただその光景を見つめる。 テーブルの上のカードが一枚、音もなく動く。指先が紙の端を弾く。 それだけの動作。
「あっ……」
アリスの青い瞳がわずかに揺らぐ。 彼女が完璧だと信じていた計算は、目の前の現実の前に崩れた。
「そんな……。アリスの計算では、これで完璧だったはずです……」
震える手がデッキの上で止まる。 頭上のエメラルドグリーンのヘイローが、わずかに明滅の周期を乱した。
meは何も語らない。 ただそこに座り、静止した空気の中に身を置いている。
「先生……は、強すぎます……」
アリスは項垂れ、長いネイビーの髪を床に垂らした。 その華奢な肩が微かに上下している。白いジャージが、彼女の小ささを浮かび上がらせていた。
しかし、数秒の静寂のあと。 アリスは顔を上げた。 青い瞳に、わずかな光が戻る。
「でも、まだ終わりではありません! アリスには、まだ秘密のカードがあります!」
彼女は再びカードを引いた。 その指先が、新しい紙の枚数を数える。
meはただ静かに座り、次の瞬間を待っている。 窓の外の夜の帳はどこまでも深く、この部屋の時間は、ただ淡々と流れ続けていた。
それだけの時間が、ただ流れる。meは動かない。アリスは目を細め、また次の札に手をかけた。静寂。
彼女が切った最後の札が、乾いた音を立ててテーブルに滑り込む。 アリスの目が大きく見開かれた。 描かれた数字が、勝利の条件に一歩及ばないことを、彼女の頭脳が瞬時に計算し尽くす。 「……あ」 小さく零れた声のあと、彼女の小さな両手からすべてのカードがこぼれ落ちた。 床に散らばる紙片の音。 アリスは膝を抱え込み、不貞腐れたように頬を膨らませてから、やがて観念したように小さく肩を落とした。
「アリスの……負けです……。さすが、アリスの認めた光の嚮導者です……」 勝負の終わりを告げる静寂が、部室を満たした。
勝負はついた。テーブルの上の散らばった紙片を、少女は拾おうともしない。ただ、膝を抱えたまま、窓の外の暗がりを見つめている。世界には様々な人間がいて、様々な場所で、このような些細な勝敗が繰り返されている。それは特筆すべきことでもなく、世界の理を変えるわけでもない。ただひとつの結果がそこにあるだけだ。
夜は静かに更けていく。少女は小さく息をつき、それから満足したように頷いた。世界はどこまでも冷徹で、そして時折、こうして無意味な優しさと遊びに満ちている。meたちはただ、それぞれの明日へ向かうだけだった。