白い執務室の床に、砕けた白いチョークの粉が落ちていた。正六角形の幾何学模様が幾重にも描かれている。その中心で、赤と黒のとんがり帽子が小さく揺れていた。シルバーの髪。左側の細い三つ編みに結ばれた赤い紐。ワイルドハント芸術学院のブレザー。プリーツスカート。黒いハイソックス。ガンケースの底から下がる六芒星のチャーム。クリーム色のヘイローが左の側頭部で不規則に瞬く。
「にゅふふふ、マスター。見てください、この完璧なアルカナの奔流を」
オレンジ色の瞳が光る。meは白い服装の袖をまくり、無言で足元の魔法陣を見下ろしていた。未来とは選択ではなく、すでに通過した過去の連なりにすぎない。meの眼差しには、彼女が次にどの角度で重心を崩し、どのような顔で硬直するのかがすべてあらかじめ視えていた。無数の未来が掌の上で選び取られるこの世界において、先を分かっていることへの退屈すら覚える暇はない。ただ必然の歯車が噛み合う音が執務室の空気を満たす。
声は出さない。視線だけで存在を指し示すと、エリはわずかに息を呑んだ。お嬢様じみた笑みが微かに歪む。側頭部のヘイローが明滅の速度を上げる。彼女はスカートの裾を指先で引きつらせた。
「にゅふふ、何ですかマスター? 召喚の儀式に不安でも? 大丈夫です、私の魔力回路は絶好調ですから!」
上滑りした声が焦燥を伝える。meは右手を床の魔法陣へ向けた。
思考のみで告げると、エリは大きく息を吸い込み、両手を広げた。
「マナの奔流よ、我が呼び声に応えよ! アルカナの導きに従い、かの領域の扉を開け放て!」
古い魔導書の文句を叫び、幾何学模様へ赤い粉末を投げ入れる。瞬間、執務室の気圧が狂った――ように見せかけて、激しい破裂音と共にただの真っ黒な煙幕が室内に盛大に充満した。
「げほっ、ごほっ、ぶえっ……!? ま、マスター……!? これは異界の霧が、その、私の完璧な計算が……ひゃわっ!?」
煙の向こうでバタバタと派手に足をもつれさせ、エリは派手に尻餅をついた。その弾みで、トレードマークである大ぶりの帽子が床へぽんと転がり落ちる。隠されていたシルバーの髪と左側の細い三つ編みがくしゃりと無防備にほどけ、彼女の泣きべそをかきかけたあどけない表情をより一層際立たせる。
「まっ、マスター……これ、私の想定していたマナの逆流ではなくて、単にチョークの粉の配合を盛大に間違えたんじゃ……!」
涙目で白い頬を真っ赤に染め、背中のガンケースにしがみつくようにして後じさる。恐怖の代わりに押し寄せた恥ずかしさで、彼女の強がりは跡形もなく消え失せていた。
meは無言のまま、その濃い煙の中へ一歩踏み出し、モコモコと暴走して部屋中を走り回るお掃除ロボットのスイッチをぴっと切った。ただの機械の暴走劇だったそれを片付け、煙が晴れた執務室で汚れを軽く払う。
エリはその場に座り込んだまま、ぽかんと小さく口を開けている。数秒の沈黙の後、自分が怪我もなく無事であることを理解したらしかった。みるみるうちに、彼女の顔が耳たぶまで真っ赤に染まっていく。
「にゅ……」
小さく掠れた声が漏れた。
「にゅ、にゅふふ……さすがはマスター、ですね……!」
震える手で床を押さえ、立ち上がろうとした足元が再びもつれる。meは一言も発さず、すっと腕を伸ばして彼女の肩を支えた。その意志を伝えるように見据えると、エリはさらに身を縮こまらせる。目を泳がせ、明後日の方向を向きながら必死に声を張り上げた。
「べ、別に泣いたりなどしないです! 私はただ、その、今日のチョークの飛散データの収集に夢中になっていただけで!」
声は盛大に震えていた。中二病のメッキが剥がれ落ちたそこには、実力不足に赤面してぷるぷる震える等身大の可愛い女子高生がいただけだった。彼女は絡まったガンケースのベルトを直そうとごそごそと動くが、指先が上手く動かない。meは言葉を発せず、彼女の代わりにその革のベルトを直し、正しい位置に収めてやった。
エリは息を呑み、わずかに身を引いたが、そのオレンジ色の瞳はmeをしっかりと捉えて離さない。恐怖はなく、そこにあるのはどうしようもない気恥ずかしさと、隠しきれないいじらしい敬意だった。
「……ありがとう、ございます。マスター」
小さくそう呟き、プリーツスカートの端をきゅっと掴んで小さくなる。meは迷わずその背中を優しく引き寄せ、くしゃくしゃと頭を撫でてやった。冷徹な仮面などどこ吹く風といった様子で、ぽふぽふと不器用に髪をなでられると、エリは「ふっ……!」と小さな甘えたような声を漏らして両肩をキュッと縮こまらせる。あらかじめ描かれた完全無欠な青写真を自らの手で乱雑に塗りつぶすように、予定調和の枠組みからわざわざ外れた不格好な慈しみが、計算外の熱を帯びて指先からこぼれ落ちていく。あえてそこに踏み込むことで、無数の未来からすくい上げたはずの確信が、心地よい手応えに変わる。
「ま、マスター……!? いきなり、子ども扱いしないでください……!」
文句を言いながらも、彼女は逃げ出そうとはせず、むしろその温もりにほっと安堵するように小さな体を預けていた。すべてが視通され、思い通りにたぐり寄せられるはずの運命の糸を、今だけは自らの手で少しだけ歪めてみる。その不器用な歩みの軌跡が、静まり返った執務室の空気を温めていくのだった。