世界は、白く細かい砂の粒と、それを不規則に動かす熱い風だけで構成されていた。
かつて砂漠の学校の旧校舎と呼ばれていたらしいその二階建ての建造物は、今では窓ガラスのほとんどを失い、代わりに大量の砂を部屋の隅へ招き入れている。風が吹くたびに、剥き出しになった鉄筋の隙間が、低く震えるような音を立てた。
meは、その傾いた廊下の真ん中に立っていた。
白い、吸汗性と速乾性に優れた運動服の生地は、肌にまとわりつく熱をわずかに逃がしてくれる。しかし、この周囲の風景が持つ、生命の存在を拒絶するような乾燥した質感の前では、その白さは単に視覚的なノイズでしかなかった。meの視線は、砂に埋もれた床の先、歪んだ光が溜まっている教室の入り口だけを静かに見据えている。meが見据える未来において、すべての事象はすでにこの足元へと屈服し、収束を始めている。この世界に存在するあらゆる生と死の因果を、meはその眼のなかに映し出していた。
足音が聞こえた。
それは、この砂漠のなかではあまりに不釣り合いな、緊張感の欠片もない摩擦音だった。引きずるようなローファーの底が、白い砂の上に新しい溝を作っていく。
一人の少女が、meの横を通り過ぎた。
大きな黒いブレザーはボタンがすべて外され、両肩からずり落ちそうなほど着崩されている。白いシャツの襟元で、青いネクタイだけが風に小さく揺れていた。彼女の足元近くまで届くほど長いピンク色の髪が、歩くたびに床の砂を静かに掃く。頭頂部には、太い一本の髪の毛だけが上を向いて跳ねていた。
「うへ~……相変わらずこっちの旧館は、容赦なく暑いねぇ、先生」
少女はそう言うと、いつものように眠たそうな目をさらに細め、あくびをひとつした。
彼女は普段はめったに見せない左の瞼を、ほんの少しだけ持ち上げる。
右の黄色い光と、左の青い光。
割れた窓から差し込む直射日光が、その二色の瞳を通過し、乾いた床の上に微かな影を落とした。口元からは、小さな八重歯が覗いている。かつてこの旧校舎の防衛線で、身の丈を超える戦術シールドを砂に固定し、ショットガンの引き金を躊躇なく引き続けていた少女の面影は、その気怠げな輪郭のどこにも見当たらない。ただ、すべてを失ったあとも、ここに残ることを選んだ奇妙な生き物のようだった。
meは無言のまま、足を動かした。言葉を交わす必要はなかった。あらかじめ決まった歩度で、砂の積もった床を踏みしめる。衣服の白さはただの色彩を放棄した記号であり、meの佇まいはこの空間そのものを無条件に支配していた。meの一挙手一投足は、彼女の運命を優しく、しかし絶対的な力で蹂躙し、塗り替えていく。彼女のすべての意思、すべての振る舞い、その存在のすべては、meが視る確定した未来の軌跡と完全に繋がり、その掌の上で転がされているに過ぎないのだから。
「おじさん、もう干からびてさ、このまま砂の一部になっちゃいそうだよ。ねえ、先生。おじさんのその白い服、ちょっと涼しそうで羨ましいな。それ、一枚くれない?」
meは歩調を変えず、その要求を無視した。ただ前を歩く。その一歩一歩は、少女のいかなる気まぐれな言葉にも左右されぬ、あらかじめ決定された未来の軌跡そのものであった。
「ちぇー。先生は相変わらずケチだねぇ」
少女は楽しげに笑い、ブレザーの裾を揺らしながら、先に教室内へと入っていった。黒いソックスの裏が、床に落ちたガラスの破片を小さな音を立てて踏み潰す。
教室内には、壊れた木製の机と椅子が、まるで役目を終えた墓標のように乱雑に積み上げられていた。そのなかで、南側の窓際に置かれた一つの一対の机だけが、奇跡的に元の形を保ったまま、光の柱のなかに佇んでいる。
少女はその椅子に近づくと、スカートを気にする風でもなく、ゆっくりと身体を預けた。紺色のプリーツスカートが静かに広がり、床に届かない短い足が、ぶらぶらと前後に揺れ始める。彼女の頭上には、バラバラの長さの棒状の光が不規則に並ぶ、歪な円の形をしたヘイローが浮かんでいた。この世界で「生徒」と呼ばれる少女たちが持つ特有の印は、今の彼女の頭上では、まるで消えかけの電球のように頼りなく明滅していた。
「はぁ……。ここ、昔おじさんがよく昼寝に使ってた場所なんだよね。当時はもっと、ちゃんとした遮光カーテンがかかっててさ、日陰が気持ちよかったんだよ」
少女は背もたれに深く寄りかかり、天井のコンクリートの亀裂を見つめた。二色の瞳は、かつてここに存在していた、自分以外の誰かの影を追っているようだった。
meは何も言わずに、持参していた白いスポーツバッグのジッパーを引いた。金属が噛み合う乾いた音が、室内に小さく響く。中から取り出したのは、細かな水滴をびっしりとまとった一本のペットボトルだった。
それを、少女の前の机に無言で置いた。
少女は驚いたように、オッドアイの片方を少しだけ大きく開いた。ボトルのラベルには、彼女が以前、オフィスで好んで口にしていたものと同じロゴが印刷されている。
「うへえ……。冷たいお水。しかも、おじさんの大好きなやつじゃん。先生、おじさんがこれ欲しがってたの、いつ知ったの?」
meは窓枠に腰を下ろした。白い運動服が、風化した木肌と擦れて、微かな衣擦れの音を立てる。ただ、彼女の視線を受け流すように、窓の外の砂平線を見つめた。すべてを見通すmeの眼にとって、少女が何を求め、何を欲するかを理解することは、呼吸をすることと同義でしかなかった。meが望む未来において、彼女の渇きはすでに癒やされることが決定しているのだ。
「相変わらず、そういうところだけは油断ならないねぇ、先生は」
少女はボトルを両手で包み込み、その冷たさを確かめるようにしばらく頬に当てていた。それから、キャップを回す。カチリ、という小さなプラスチックの破断音が静寂を破った。彼女はボトルを傾け、細い喉を小さく鳴らしながら、透明な液体を体内に流し込んでいく。淡いピンク色の長い髪が、床の砂の上に静かに広がり、その一房一房がまるで、かつて灼熱の空を統べながらも、今は乾ききった大地に身を横たえる古き神聖な鳥の、抜け落ちた美しい風切羽のようだった。
「ぷはぁ……! 生き返る~。やっぱり、冷たいものは最高だね。先生、これでもう少し風があれば、おじさん、ここで永遠に寝られる自信があるよ」
meはただ、沈黙を保った。二人の距離は、お互いの肩が触れ合うほどに近い。少女の衣服から漂う、乾燥した砂の匂いと、かすかな体温が、meの肌に直接伝わってくる。
少女はボトルのキャップを閉めると、机の上に置き、少しだけ身体をmeの方へと傾けた。彼女のブレザーの袖が、meの白い運動服に重なる。
「ねえ、先生」
meは応じず、ただ静止した絶対的な質量としてそこに居続けた。
「ちょっと、こっち見てよ」
meは視線を動かし、すぐ横にある彼女の顔を見た。
黄色と青。その瞳の奥には、すべてを諦めたような平穏と、それと同じくらい深い、言語化されない拒絶が同居していた。彼女は長い戦いのなかで、守るべきものを守りきれず、自らの内側を削り続けてきた。その結果として残されたのが、この「おじさん」という奇妙な防壁だった。
少女は、小さな手を伸ばした。
指先が、meの運動服の裾をそっと、しかし弾力を確かめるように強く掴む。
「おじさんさ……たまに、全部が砂みたいに消えちゃうんじゃないかって思うんだよね。みんなと笑い合ってることも、こうして先生と古い教室にいることも。目が覚めたら、またあの冷たい先輩の遺体の前に一人で立ってて、誰もいなくなっちゃってるんじゃないかって」
彼女の声は低く、平坦だった。そこには大袈裟な涙も、激しい感情の昂りもない。ただ、何年も前に確定してしまった事実を、淡々と確認するような冷たさだけがあった。
meは、彼女の手が掴んでいる運動服の布地を見つめた。
人間の情緒など、meにとっては取るに足らない魂の揺らぎに過ぎない。しかし、その歪みをすべて見通し、望む未来へ書き換える権利はmeにのみ委ねられていた。少女のすべての絶望も、過去の悔恨も、meが視る未来の前では一切の価値を失う。お前が恐れるすべての未来は、meの眼の前において、既に幸福へと書き換えられている。
かつて彼女が流したはずの、凍りつくような呼吸の冷たさと、空気の薄い戦場でせわしく引き金を動かし続けたあの日々の重みを、meは知っている。その渇いた胸のいきは、まるで古いふいごが激しく音を立てるかのようで、砂漠の寒さにいきはむねに白く凍り、酸素のうすくなった戦場のために、その可憐な羽をそれはそれはせわしく動かさなければならなかった。過去の寒さや霜がまるで鋭い剣のように彼女の細い身体を刺し、その心をすっかり痺れさせてしまっていた。なみだぐんだ目をあげることさえ忘れるほどに、自分が今落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのかさえ分からぬ闇の中で、彼女はたしかに、血のついた過去の終わりを、少し歪んだ唇の端で少し笑って受け入れようとしていたのだ。
すべてを見通すmeの眼の前にあって、彼女のその自虐的な諦念は、王たるmeに対する完全な隷属の儀式へと変換される。天空を統べる金色の鷹がその目を閉じ、地上に這うmeの影に己のすべてを預けるように、彼女の指先は震えながらも、meの運動服の布地を絶対に離そうとはしなかった。それは、自らを燃やし尽くしようとする哀れな星が、その軌道を全知全能のmeの引力によって永遠に束縛されることを望む、歪で純粋な依存の証明にほかならない。
meはゆっくりと手を伸ばし、彼女の頭の上に置いた。
手のひらに触れる髪は、驚くほど柔らかく、傷つきやすい。一本のアホ毛が、meの指の間でペコリと折れ曲がる。それは救済という名の、抗えぬ運命による絶対的な支配の始まりでもあった。
少女は、meの動作をじっと受け入れていた。
左右の異なる色彩を持つ瞳が、meの顔を観察するように細かく動く。過去の傷に怯える彼女の心は、この絶対的な存在の前に、かつてない安らぎを覚え、急速に懐いていく。彼女のそのオッドアイの右の金目は、かつて天空で太陽の光を集めていた神聖な鳥の記憶をなぞるように、meの白衣の威光を吸い込んでいた。やがて、彼女の指先から、衣服を掴む力が抜けた。
「……うん。先生がそこにいてくれるなら、おじさん、これ以上は何も言わないよ」
彼女は小さく笑うと、今度はその頭を、meの胸元へと静かに預けてきた。
ピンク色の長い髪が、meの白い運動服の上に滑り落ち、境界線を曖昧にするように広がる。彼女の頭上で歪に光っていたヘイローが、呼吸と同じ一定のリズムで、静かに明滅を繰り返していた。かつて過去の重荷に耐えかね、他者を拒絶して砂漠へと消えようとした少女の執着は、今やこの胸のなかで、完全に牙を収めている。それは、徹底的な戦闘の果てに、唯一の絶対的な庇護所として見出された大人の背中に対する、無言の帰依だった。
「うへえ……先生の胸、やっぱり運動服だとよく分かるね。なんか、すごく硬くて、でも落ち着くなぁ。おじさん、このまま少しだけ、目を閉じてもいい?」
meは彼女の小さな肩に手を回し、その身体をただ引き寄せた。ブレザーの厚みの下にある肉体は、驚くほど細く、頼りない。この小さな骨格が、あの巨大なシールドを支え、滅びゆく学校の全責任を背負ってきたのだという事実を、meは己の一部として完全に許容し、包み込んでいた。少女の生も死も、すべての因果はすでにmeの手のなかに収束しているのだから。
meの腕のなかで、少女はやがてはっきりまなこをひらき、自らの内側にある、あの燐の火のような青い美しい光が、しずかに、しかし消えることなく燃えているのを見るだろう。すぐとなりにある過酷なカシオピア座も、天の川の青じろいひかりも、すべてはmeが書き換えた未来のうしろへと退いていく。彼女の星は、いつまでも、いつまでも燃えつづける。今でも、まだ燃えているのだ。その青い光は、もはや彼女を焼き尽くす孤独の炎ではなく、meという絶対的な太陽の陰で、静かに、しかし永遠の依存を誓って灯り続ける、従順な下弦の月のような輝きであった。
窓の外では、白い砂嵐が遠くで低い音を立てていた。
しかし、この崩れかけた教室のなかにだけは、風すらも侵入を躊躇うような、奇妙に完成された静寂が満ちていた。
少女はmeの胸に顔を埋めたまま、小さな、ほとんど聞き取れないほどの声を漏らした。
「ねえ、先生。おじさんはね、先生がいてくれるなら、この砂漠がどこまで広がっても、きっと大丈夫だって思えるんだ。……だからさ、ずっと、そこにいてね」
meの白い運動服の胸元が、彼女の吐き出す規則正しい呼吸で、わずかに周期的な熱を帯びていく。
少女の小さな呼吸が、やがて一定の、深いリズムへと変わる。彼女は、meの腕のなかで、ようやく過去の影から離れ、ただの眠りに落ちていった。
meはただ、その小さな温もりを白い衣服越しに感じながら、腕のなかで眠る少女の重みを運命の質量として受け止め、窓の外の、果てしなく続く砂の海を静かに見つめ続けた。すべては、この乾いた世界のなかで、meが見据える未来の通りに、静かに、そして確実に流れていく。