雨が建物のトタン屋根を叩く音が、暗い室内に一定のリズムを刻んでいた。
山沿いの放棄された廃給水所。窓ガラスの大半は割れ落ち、そこから吹き込む夜風が、meの着ている白いシャーレの制服の裾をわずかに揺らしていた。外はキヴォトスのどの自治区からも外れた無人地帯であり、ここには整備された都市の灯りも、法による秩序も届かない。ただ、コンクリートの床に溜まった雨水が、天井からの漏水を迎えて小さく跳ねるだけの空間だった。
meは、崩れかけたコンクリートの台座に腰を下ろし、手元に残された古い機械部品の摩耗具合を指先で確認していた。何も考えていないわけではない。これからこの場所で交錯する事象の破片が、あらかじめ定められた座標へと収束していくのを、meはただ静かに、冷淡な物理現象として見つめていた。
背後の闇が動いた。
足音は雨の音にかき消されていたが、鉄錆と湿気を含んだ空気のなかに、明らかに異質な成分が混入した。
申谷カイだった。
彼女の髪は、中央から左右で綺麗に色が分かれている。右半分は凍りついた雪のような白、左半分は濡れた烏の羽の黒。腰まで届くそのアシンメトリーのロングヘアは、左側の黒い部分だけが高めの位置でぞんざいに結わえられ、彼女の細い首筋に沿って垂れていた。
身にまとっているのは、ノースリーブの黒いチャイナドレス。胸元には、ひし形に大きくカットアウトされた隙間がある。そこから覗く白い皮膚は、外の雷光が走るたびに、周囲の闇を背景にして明滅した。彼女はその上から、袖を通さずに白いコートを肩に引っ掛けており、濡れた夜風を浴びてその裾が不規則に羽ばたいている。
黒いタイツに包まれたしなやかな脚の先には、鋭利な黒のロングヒール。手元は黒い手袋で覆われ、右手首に嵌められた金のブレスレットが、彼女のささやかな手の動きに従って皮膚の上を滑る。
彼女の頭上には、少し傾いた黒い八角形のヘイローが静止していた。外側と内側に八本ずつ突き出た棘の群れ。その中心で、オレンジ色の真円が濁った光を湛えている。
カイは無言のまま、水たまりを避けることもなく歩み寄り、手袋を嵌めた指先で、meのすぐ隣のコンクリートの台座へ小さな薬瓶を置いた。中には、粘り気のある、どす黒い紫色の液体が満ちている。
彼女の切れ長の瞳が、meの出方を冷酷に値踏みするように細められる。それは決して反省などしない化け物の、ただ一つの正解を求めるような試し行動の眼差しだった。
meは机代わりの台座の上の薬瓶を見ることすらしなかった。その指先が、ただ無造作に、完璧な弾道で小瓶を弾き返す。小瓶はコンクリートの上を滑り、カイの黒い手袋の指先に当たって止まった。
meのその拒絶には、いささかの感情も混ざっていない。ただ、その視線の重さだけが、彼女の企みのすべてを最初から無効化していることを示していた。
カイの薄い唇の両端が、微かに吊り上がる。
彼女は挑発するように、自らの身体をmeの正面へと深く傾けた。チャイナドレスのひし形の隙間から、彼女の胸の起伏がmeの目の前へと迫る。漢方の、鼻の奥を鋭く刺すような、脳の芯を昏く麻痺させるような独特の香りが、廃屋の空気を一瞬で支配した。
「――」
彼女の手袋を嵌めた手が、meの白い制服の襟元へ伸び、その布地を乱暴に掴み取る。その瞬間、彼女のヘイローの棘が微かに震え、冷たい火花のような光が散った。
だが、その反逆がmeの襟に届くより遥か手前――これから訪れる未来の座標において、その細い手首を掴み折るmeの『結果』は、既に完成していた。
視界のなかに確定した未来を、ただ現在へと引き摺り下ろす。遅れて響く金のブレスレットの軋みは、既にmeが決定した結末の後追いに過ぎない。meの全知の前に、彼女の狡猾な計算は、最初から存在することすら許されずバラバラに解体されていく。meの指先に込められた力は、彼女の予想を遥かに超えて冷徹であり、逃亡を許さない。meはそのまま、手首を強引に手前へと引き寄せた。
カイの重心が劇的に崩れる。
彼女の身体はコンクリートの台座を越え、meの膝の上へと投げ出された。肩から滑り落ちた白いコートが、濡れた床へと音もなく崩れ落ちる。
カイの喉の奥から、言葉にならない短い息が漏れた。
白と黒のツートンヘアが、meの白い制服の肩口にまとわりつき、散らばる。まるでmeを絡め取ろうとする蜘蛛の糸のようであり、自らを縛り付ける鎖のようでもあった。
至近距離で、二人の視線がぶつかり合う。
カイの頭上に浮かぶ黒い八角形のヘイローが、激しく、不規則に細かく震え始めた。中心のオレンジ色の真円が、まるで警告灯のように明滅する。
彼女の指先が、掴まれた手首とは反対の手で、meの制服の生地を驚くほどの強さで握りしめていた。手袋の布地越しであっても、その指先が微かに強張っているのがmeには分かった。
meは、もう一方の手を彼女の顎へと伸ばした。指先が彼女の細い顎のラインを捉え、強引に上向かせる。
meの瞳には、感情の揺らぎなどひとかけらもなかった。お前のその毒も、その美しいアシンメトリーの肉体も、元を辿ればすべてmeの未来の掌の上にある。したがって、meがどう扱おうとmeの自由だという冷徹な質量だけがそこにあった。
カイは言い返す術を持たないまま、ただその唇を強く噛みしめた。黒いタイツに包まれた彼女の膝が、meの太ももを強く圧迫し、ロングヒールの先が空中で硬く揺れる。
彼女の右手首の金のブレスレットが、meの制服の金属ボタンと擦れ合い、嫌な音を立てていた。
その顔から、かつてすべてを嘲笑っていた歪な笑みが消え失せていく。ただの物理的な力による屈服ではない。視線が交錯するなかで、彼女の目元がわずかに痙攣し、強張っていた肩の線がゆっくりと下がり始める。どれだけ悪人であっても見捨てないという無条件の肯定の前に、彼女の頑なな拒絶は居場所を失っていた。
カイは、自らの意思でその力を抜き、meの制服の胸元にそっと額を預けた。手袋を嵌めた指先が、今度はその温もりを確かめるように、静かに白い布地をたぐり寄せる。
アシンメトリーの長い髪が、meの腕や胸元に境界線を失ったように散らばっていた。彼女はただ、meの心音の刻むリズムに己の存在を委ね、小さく、喉の奥で息を吐いた。
建物の外では、冷たい雨がただ冷酷に流れていく。
世界はやはり、美しくなどない。だが、その暗闇の片隅で、二人の呼吸だけが、重く、静かに重なり合っていた。