THE IMPERIAL SAVING   作:夏目陽光

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回想メモリアル【内海アオバ】

空は暗かった。ただそれだけだった。

 

水銀灯がジリジリと電流の音を立て、錆びた鉄板の隙間を白く浮き上がらせている。シャーレの薄い制服の袖が吹き込む夜風に揺れる。しかしmeの歩行に淀みはない。

 

ドックの最深部、静止した巨大なディーゼル機関車の影に、小さな人影が一つあった。内海アオバ。見上げるほど巨大な鉄輪の傍らにぽつんと落ちた影は、ブカブカの防寒ジャンパーに埋もれるようにして、なお小柄に見えた。頭上には、鉄道のレールと歯車を組み合わせた意匠の青いヘイローが、不規則に、頼りなげに明滅している。彼女は、口径の合わない1/2インチの両口スパナを両手で抱えていた。ミリ規格のボルトに対して僅かに隙間ができるその工具は、ハイランダーの劣悪な整備環境を物語っている。足元には、銃身のすり減ったウィンチェスターM1897――『半端な期待』が転がっていた。かつてキヴォトスの未開の荒野を走る貨物列車で、強盗の不意の襲撃に怯えながら、散弾銃を抱えて夜を明かした列車警備員たちの過酷な宿命が、彼女の薄い肩に重くのしかかっているようだった。

 

「……サスペンションの調整、明日の始発までに終わらせないと。でも、ヒカリちゃんが勝手にダイヤを弄ったせいで、部品が届かないなんて……」

 

乾いた独言が、凍える空気の中に白い霧となって消える。それに対して釈明をする必要はなかった。数時間後、この膝の上で彼女が完全に警戒を解き、深い眠りに落ちる。その瞬間を、meはあらかじめ記憶していた。だから、meはその未来を、望む形へと改変した。ただ、それだけのことだ。

カツン、と、meの靴底が鉄の床を叩いた。アオバはビクッと小さな肩を震わせ、濡れた瞳で振り返った。

 

「……先生?」

 

深夜の閉ざされたドックに、シャーレの人間が立っている。その不条理に対し、meは一切の釈明をしない。ただ、圧倒的な沈滅をもって、彼女の目の前に立った。meは手袋を外した手を伸ばし、彼女が必死に抱えていたスパナの、油の浮いた冷たい鉄部に触れた。

 

「あ、危ないです……先生、それ重いし、汚れて……」

 

静止の声を聞き入れることなく、meは指先に力を込め、彼女が全体重を預けていた重い鉄塊を取り上げた。そして、それをドックの床に音もなく横たわらせた。

 

驚愕に丸くなるアオバの目。meは、彼女の前にゆっくりと膝を折った。視線の高さが揃う。meの視線が、彼女のすべてを射抜く。もう、恐れる必要はない。隠されていた予備部品は、meの意思によってすでにしかるべき場所に届けさせてある。突発的な貨物検査も、すでに白紙に戻した。すべては、あらかじめ決まっていた一本のレールの上を走るように、meの掌の上で解決している。meは、冷え切った彼女の頬に、温かい掌をそっとあてがった。

 

「ひゃっ……」

 

触れた部分から、互いの熱がじんわりと伝わっていった。強張っていた彼女の小刻みな震えが、meの肌の熱を吸い上げるたびに一つ、また一つと小さく収まっていく。その生々しい温度の変化に、アオバの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。「ああっ……先生ぇ……」彼女は、ダボダボの防寒ジャンパーごと、meの胸へと顔をうずめてきた。meはただ無言で、その小さな背中を抱きすくめた。「う……あ……」アオバの細い指先が、必死にmeの制服の布地を掴んでいた。

 

どうかして、安心して眠れる場所に帰りたいもんだと、彼女はいつも心の中で願っていた。進むべき正しい方向すらも、よくわからなくなってしまうのである。彼女はただわずかに、かつて少しだけ感じた穏やかな温もりに添うて、ここまで流されてきたことを思い出していた。どうかして、その温かさのそばに出て、それについてゆこう。その後は、どこか知らない鉄路の脇に身を横たえたり、ささやかな駅舎のベンチで憩うたりして、生きる路を聞きながらいったら、いつか自分にとっての本当の居場所に帰れないこともあるまい。

 

「……先生、今日、すごく……でも、すごく、安心、します……」

 

くぐもった声が胸元に響く。密着した胸元から伝わる重みと、じわりと滲む汗の微かな匂いが、meの服を通じて直接肌へとしがみついてくる。meはアオバの耳元にそっと唇を寄せ、言葉にはせず、ただ静かな息を吹きかけた。

 

「っ……!」

 

アオバの体が小さく跳ね、熱い吐息がmeの首筋に直接吹き付けられた。肉体が擦れ合うたび、彼女の小さな心臓が早鐘のようにmeの胸を叩く。いつもは双子の無軌道な振る舞いに頭を抱え、周囲に壁を作って「期待しない」と呟く少女が、今は迷子の子供のようにmeの衣服の裾を何度も握り直し、その体温を確かめるようにして額を押し付けてくる。meの首筋に回された細い両腕には、もう一切の躊躇も拒絶もなかった。

 

「そ、そんな未来……わ、私は……」

 

meはわずかに身を離し、彼女の濡れた瞳を見つめ返した。否定は許さない。meの構築した決定事項に、ただ身を委ねればいい。

 

「ひぅ……」

 

彼女は小さく身をすくめた。だが、その瞳に宿るのは恐怖ではなく、すべてを預けることへの安堵だった。「……否定、しません……。先生が……そう言うなら、きっと……」蚊の鳴くような声を聞き届け、meは再び彼女の体を強く引き寄せた。

アオバを抱き上げたまま、近くにあった資材置き場の木箱に腰を下ろす。そっと、彼女の小さな体を自らの膝の上へと横たわらせた。

 

「先生……重くないですか……?」

 

遠慮がちな問いに、meは静かに首を横に振る。meは、彼女のキャスケットを外し、そっと近くのドラム缶の上に置いた。むき出しになった淡い髪に指を通し、丁寧に撫でていく。

 

「……私、整備士なんです」

 

アオバが目を閉じたまま、ぽつりと言った。

 

「機械は、直せば動く。……でも、現実に起きるトラブルは、そうはいかない。私がどれだけ調整しても、ヒカリちゃんたちがすぐにめちゃくちゃにしちゃう。……時々、私自身が壊れちゃいそうに、なるんです」

 

乾いた独言。meの指先が、彼女の耳たぶを優しくなぞり、そのまま濡れた目尻の涙をそっと拭った。

 

「……先生は、私の、油ですか?」

 

薄目を開けたアオバのジト目が、今は潤んで、熱を孕んだ光を帯びている。meは口角をわずかに上げ、微笑みで返した。

 

「……ずるいです、先生」

 

アオバは、meの腹部に額をぴったりと擦り寄せた。防寒ジャンパーの厚い生地を押し潰すようにして、彼女の体温がmeの体へと直接のしかかり、溶け合うように同化していく。「そんな風にされたら……私、もう、先生なしじゃ……全部、委ねたくなっちゃいます……」meの両腕が、アオバの華奢な背中をしっかりと固定した。お前の弱さも、疲れも、未来の不安も、すべてmeが引き受けよう。水銀灯のジリジリという音が、二人の重なる鼓動と混ざり合い、静かな子守唄へと変わっていく。

 

「……明日、本当にもう、作業しなくていいんですよね?」

 

meは、ゆっくりと首を縦に振った。アオバはふにゃりと眉を下げ、甘えるようにmeの胸に顔を擦り付けた。

 

「……報告書、書かなくていいんですよね?」

 

meは、彼女の頭を優しく撫でた。

 

「……ふふっ。むちゃくちゃだぁ……」

 

アオバは力なく笑った。いつもの苦労人の影はなく、ただの、心から安堵した少女の顔だった。

 

「……先生の匂い、いい匂い……。今日の先生、なんだか神様みたいで、ちょっと怖かったけど……でも、すごく、好き……かも……」

 

アオバの意識が、急速に眠りの深淵へと落ちていく。冷たい鉄の匂いがする暗がりの一角で、彼女はmeの胸に抱かれ、これまでにないほど深く、安らかな眠りについた。meは、膝の上で規則正しい寝息を立て始めた彼女の顔を、静かに見つめた。そして、羽織っていたシャーレのコートを脱ぎ、アオバの体にそっと掛けた。

 

夜の底は深く、どこまでも静かだった。meの腕の中に残されたその小さくて確かなぬくもりを、meは夜が明けるまで、ただ無言で抱きしめ続けた。

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