とある魔術の自己証明《ドッペルゲンガー》 作:natsuki
円筒の中で開いた瞳には、目覚めたばかりの人間が見せる戸惑いも、自分が液体の中へ閉じ込められていることへの恐怖も浮かんでおらず、ただ焦点の定まらない視線だけが、厚い強化ガラスを隔てて上条達のいる実験室をぼんやりと眺めていた。
「……起きた?」
上条が思わず呟いた直後、円筒の周囲に並んでいた計測装置が一斉に作動し、それまでほとんど変化のなかった数値が猛烈な勢いで上下し始めた。
『代替演算領域、接続』
『自己認識情報、取得不能』
『外部術式による干渉率――十二・七パーセント』
『上昇中』
機械音声が淡々と異常を告げ続ける中、土御門だけは円筒ではなく天井を睨んでいた。
「まずいな」
「何がですの?」
「さっきの警告を聞いてなかったのか。こいつが自分で目を覚ましたならまだマシだったが、外から術式を叩き込まれて起こされたってんなら話は別だ」
土御門は指の間に挟んだ札へ視線を落とし、何かを確認するように鼻先へ近付ける。
「……やっぱりだ。術式の臭いがする」
「臭いって、お前」
「比喩だ、カミやん。魔力の流れが施設の中へ入り込んでる。しかも一方向じゃねえ。建物そのものを囲んでやがる」
「つまり、外に魔術師がいる?」
「外だけとは限らねえよ」
その言葉が終わるのとほとんど同時に、実験室の照明が一度だけ明滅した。
赤い非常灯が消え、真っ暗になる。
そして再び灯った時。
「……あ?」
上条は目を疑った。
人が増えていた。
黒子の隣に、黒子がいる。
「…………」
「…………」
二人の白井黒子は互いの顔を見つめたまま、数秒間完全に停止した。
「な」
先に声を上げたのは、上条から見て右側にいる黒子だった。
「何ですの、この悪趣味なものは!」
「それはこちらの台詞ですの! わたくしの姿を勝手に真似るなど、随分と良い度胸をしておりますわね!」
声も同じ。
口調も同じ。
髪型も制服も腕章も、足に装着された金属矢の位置まで一致している。
「おいおいおい!」
上条は慌てて二人から距離を取った。
「また存在置換か!?」
「違う!」
土御門が叫びながら札を床へ叩き付けると、紙片から赤い線が走り、円を描くように二人の黒子を囲んだ。
一人には何も起きない。
もう一人の足元からだけ、黒い煙のようなものが立ち上る。
「そっちだ!」
上条は迷わなかった。
右手を伸ばす。
偽物の黒子が身を翻そうとするより早く、その肩へ触れた。
ぱきん、と。
薄い鏡を割ったような音が響く。
「――っ!」
黒子の姿をしていた何かの表面へ無数の亀裂が走り、制服も、肌も、髪も、全てが砕けた鏡の破片のように崩れていく。
しかし、その奥から現れたのは別の人間ではなかった。
中身がない。
黒子の形をした空洞だけが一瞬そこに残り、それさえも光の粒となって消えてしまった。
「……今のは」
本物の黒子が息を呑む。
「超能力じゃねえ」
土御門は断言した。
「魔術だ」
その言葉に応えるように、実験室のスピーカーから拍手が聞こえた。
ぱち、ぱち、ぱち。
ゆっくりと。
人を苛立たせるほど優雅に。
『素晴らしい』
男の声だった。
若くもなく、老いてもいない。
流暢な日本語ではあるものの、その発音には僅かに異国の響きが混じっている。
『なるほど。それが幻想殺しか』
「誰だ!」
上条が天井のスピーカーを睨む。
『こちらから名乗るのが礼儀だったね』
男は愉快そうに笑った。
『カイン=ヴァイス。魔術師だ。それ以上の肩書きは、今の君達には必要ない』
「必要あるかどうかはこっちで決めますの。姿を見せなさい!」
『白井黒子。空間移動能力者、レベル4。興味深い力だが、今日の主役は君ではない』
「……随分と調べていらっしゃいますのね」
『学園都市へ入る以上、最低限の予習はするさ』
黒子の表情が険しくなる一方で、土御門は何かに気付いたように目を細めた。
「カイン=ヴァイス……」
『おや』
「『白の鏡』か」
スピーカーの向こうから返事がなくなった。
「十年くらい前だったか。北欧と中欧をうろついて、死者の顔を鏡へ映す術式を集めてた魔術師がいたって話は聞いたことがある」
『噂とは怖いものだね。尾鰭が付いている』
「死人の家から鏡だけ持って帰る変態野郎って部分も尾鰭か?」
『それについては否定しておこう』
軽い会話とは裏腹に、土御門の額には薄く汗が浮かんでいた。
「気を付けろ、カミやん。こいつが本当に俺の知ってるカイン=ヴァイスなら、専門は鏡像魔術だ」
「鏡像?」
「ドッペルゲンガー」
その言葉を聞いた瞬間、榊原が顔を上げた。
『正確には少し違う』
カインの声が穏やかに訂正する。
『ドッペルゲンガーとは、単純な分身ではない。自分と同じ姿をした存在との遭遇は、古くから死の前兆として語られてきた。何故だと思う?』
「知るかよ」
『同じ人間が二人存在してはいけないからだ』
円筒の中で、名もない『器』が僅かに身じろぎした。
『世界に一つしかないはずの魂が二つになった時、どちらが本物なのか。その問いに人間は昔から恐怖してきた。鏡の向こうにいる自分、影として歩く自分、自分より先に家へ帰っている自分――文化によって呼び方は違っても、本質は同じだ』
上条は榊原を見る。
彼は黙って自分の手を見つめていた。
別の可能性からやって来た自分。
この世界に存在していた榊原悠真は消え、代わりに自分がいる。
それはまさしく、カインの語るドッペルゲンガーそのものだった。
「だからMIRRORの実験を利用したのか」
土御門が低く問い掛ける。
『利用した、という表現は少々失礼だな。私は完成させてあげようとしているんだよ』
「完成?」
『科学者達は実に惜しいところまで辿り着いた。彼らは異なる可能性から同一人物を引き出し、この世界へ定着させる方法を発見した。しかし、科学には魂という概念がない』
カインの声が僅かに弾む。
『だから彼らには分からなかった。肉体も記憶も人格も同じである二人を並べた時、一体どちらへ魂が宿るのか』
「……まさか」
土御門の顔色が変わった。
『気付いたかい?』
「お前が狙ってるのは第六位じゃねえな」
『もちろん』
即答だった。
『私が欲しいのは能力ではない』
円筒の内部で。
人影が、ゆっくりと顔を上げる。
『空っぽの器だ』
次の瞬間、円筒を覆う強化ガラスへ亀裂が走った。
「離れろ!」
土御門が叫び、黒子が即座に上条と榊原を掴んで空間移動しようとする。
しかし演算を始めるより先にガラスが砕け散り、大量の液体が実験室へ雪崩れ込んだ。
「くっ!」
上条は腕で顔を庇いながら後退する。
透明な液体が床を満たし、割れたガラス片が赤い非常灯を反射して無数の鏡のように光る中、円筒に収められていた人影が、生命維持装置の管を身体へぶら下げたまま床へ崩れ落ちた。
「おい!」
上条が駆け寄ろうとする。
「待ちなさい!」
黒衣の人物が初めて強い声を出した。
上条の足が止まる。
「触れちゃ駄目だ」
「何でだよ!」
「今のあれには、何もない」
フードの奥から、円筒から出てきた人間を見つめる。
「名前も、記憶も、自分が誰なのかという認識もない。第六位を再現するために作られた、本当に空っぽの器なんだ」
「だからって放っとけるかよ!」
「違う」
黒衣の人物は首を振った。
「問題はそこじゃない」
床へ散乱していたガラス片の一つに、人影が映った。
倒れている器ではない。
上条だった。
「……え?」
上条本人は、その鏡の前に立っていない。
それなのに、破片の中には確かに上条当麻がいる。
別の破片には黒子。
その隣には土御門。
さらに別の破片には榊原が映っている。
そして、それら全ての鏡像が、ゆっくりと笑った。
「鏡を見るな!」
土御門が叫ぶ。
遅かった。
床を埋め尽くす数百枚の破片から、一斉に黒い影が溢れ出した。
上条の形をした影。
黒子の形をした影。
土御門の形をした影。
榊原の形をした影。
それらは床の上を這いながら、中央に倒れている空っぽの器へ集まっていく。
『科学は肉体を用意した』
カインの声が響く。
『私は魂を用意する』
「ふざけんな!」
上条が走り出す。
しかし、器まであと数メートルというところで、黒子の姿をした影が床から立ち上がり、上条の首を狙って金属矢を放った。
その刹那、本人の黒子が空間移動で割り込み、飛来した金属矢を同じ金属矢で弾く。
「わたくしの姿で好き勝手しないでくださいます!?」
直後、今度は土御門の影が踏み込み、拳を振るう。土御門本人がそれを受け止めると、二人は全く同じ姿勢のまま力を競り合わせた。
「……術式だけじゃねえ」
土御門が歯を食いしばる。
「動きまで読まれてる!」
『鏡とはそういうものだよ。君が右手を上げれば、鏡の中の君も左手を上げる。君が攻撃しようと考えた時には、向こうも既に同じ動きを始めている』
黒い影達が次々と立ち上がり、実験室は瞬く間に同じ顔をした人間達で埋め尽くされていく。
だが、上条は止まらなかった。
「だったら!」
目の前へ現れた自分自身の顔へ、右拳を叩き込む。
「鏡ごとぶっ壊しゃいいだけだろうが!」
拳が偽物の頬へ触れた瞬間、上条の姿をした影は甲高い破砕音と共に消滅した。
『やはり素晴らしい』
カインの声に喜色が混じる。
『君だけは鏡にならない』
「何?」
『幻想殺しがある限り、上条当麻の完全な鏡像は成立しない。だから君だけが、この実験に必要だった』
その言葉と同時に、床を覆っていた全ての鏡片が強く発光した。
「カミやん、右手を――!」
土御門の警告が届くより早く、無数の鏡面から伸びた光が上条の右腕へ集中する。
痛みはない。
だが——右手の感覚が消えた。
「なっ……!?」
上条が右腕を引こうとしても動かない。鏡から伸びる光が鎖のように手首へ絡み付き、幻想殺しそのものを器へ接続しようとしている。
『MIRRORは、幻想殺しを使って無数の候補から第六位を選別しようとした』
カインの声が施設全体へ響き渡る。
『ならば私は、その仕組みを少しだけ反転させればいい』
床へ倒れていた器の指が動いた。
『一人を本物として選ぶのではなく』
ゆっくりと。
身体を起こす。
『全てを本物にする』
榊原が息を呑んだ。
器の顔が変化していた。
一瞬だけ上条になる。
次には黒子。
土御門。
榊原。
そして、見知らぬ誰か。
老人。
少女。
少年。
何十、何百という顔が、まるで壊れた映像のように切り替わっていく。
「やめろ……」
榊原が震える。
その中に、自分の顔があった。
しかも一つではない。
泣いている榊原。
笑っている榊原。
傷だらけの榊原。
知らない制服を着た榊原。
無数の可能性の中で生きていた『榊原悠真』が、一つの肉体の上を通り過ぎていく。
「やめろよ……」
榊原は自分でも気付かないまま、一歩前へ出ていた。
「それは僕じゃない」
もう一歩。
「僕の顔をしてるけど、僕じゃない」
黒衣の人物が榊原の腕を掴もうとする。
「行っちゃ駄目だ!」
「でも!」
榊原は振り返った。
「だったら僕は何なんですか!?」
その叫びに、誰も答えられなかった。
「僕だって別の世界から来たんでしょう!? この世界にいた僕が消えて、その代わりにここにいるだけなら、あれと何が違うんですか!」
「榊原!」
「僕は本物なんですか!?」
涙が頬を伝う。
「それとも、空いた場所に入っただけの偽物なんですか!?」
黒衣の人物は何も言わなかった。
上条は光に右腕を拘束されたまま、その姿を見ていた。
榊原が何者なのか。
本物か。
偽物か。
そんなことを上条が決めることは出来ない。
だが。
「榊原!!」
叫ぶ。
少年が振り向く。
「そんなもん!」
上条は右腕へ力を込めた。
光の拘束が軋む。
「今ここにいるお前が決めりゃいいだろうが!!」
「……え?」
「別の世界から来たとか、誰かの代わりだとか、そんなもんで今のお前まで決められてたまるか!」
右手を握る。
「お前が自分を榊原悠真だって言うなら!」
一本。
光の鎖が砕けた。
「まずはそれを最後まで名乗ってみろよ!!」
榊原の瞳が見開かれる。
その瞬間、黒衣の人物が——フードの奥で、僅かに笑った。
「……やっぱり」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「君は、変わらない」
そして、器が完全に立ち上がった。
何百もの顔を通り過ぎたその容貌は、最後には一人の人間のものへと固定されていた。
上条ではない。
黒子でもない。
土御門でも榊原でもない。
どこにでもいそうで、それなのに何故か一度見れば忘れられない、不思議な顔立ちだった。
器はゆっくりと自分の両手を眺めた後、初めて言葉を発する。
「……なるほど」
その声を聞いた瞬間、黒衣の人物の身体が硬直した。
「そんな……」
初めて、その声に明確な恐怖が混じる。
器は黒衣の人物へ顔を向けると、まるで鏡の向こうにいる自分自身を見つけたかのように、静かに微笑んだ。
「見つけた」
黒衣の人物が一歩後退する。
そして器は、笑顔のまま告げた。
「今度は、僕が君になる番だ」