とある魔術の自己証明《ドッペルゲンガー》 作:natsuki
「今度は、僕が君になる番だ」
その言葉を聞いた瞬間、黒いフードの人物は明らかに動揺した様子で後ずさり、円筒から現れた人間との距離を取ろうとしたが、濡れた床へ足を踏み出すよりも早く、周囲に散乱していたガラス片が一斉に震え始めた。
それまで無数の人影を映していた破片の表面には、いつの間にか同じ顔が浮かんでいた。上条当麻でも白井黒子でもなく、今しがた円筒から立ち上がったばかりの、誰も名前を知らない人間の顔である。
「……どういうことだよ」
上条は右腕を拘束する光の鎖を引き千切ろうとしながら、黒衣の人物と円筒から現れた人間を交互に見た。
「お前ら、知り合いなのか?」
「違う」
黒衣の人物は即座に否定したものの、その声には先ほどまでの落ち着きがなく、何かを必死に考えているように、フードの奥で小さく息を呑んだ。
「そんなはずがない。君にはまだ、僕を認識するための情報が与えられていないはずだ」
「情報?」
円筒から現れた人間は、自分の手のひらを不思議そうに眺めながら首を傾げた。
「そんなもの、最初から必要なかったんじゃないかな。だって、僕は君を知っているし、君だって僕を知っている。僕達の間にある違いなんて、今はたった一つしかないんだから」
「黙って」
「君には名前がある。でも、僕にはない」
その声には怒りも憎しみも感じられず、むしろ長い間探していた答えへようやく辿り着いた子供のような、純粋な喜びさえ含まれていた。
「だったら、君の名前を貰えばいい」
黒衣の人物が突然、床を蹴った。
逃げようとしたのではない。
自分から円筒へ向かって走り出したのである。
「おい!」
上条が叫ぶのと同時に、黒衣の人物は懐から小さな金属片を取り出し、それを円筒の人間へ投げ付けた。
銀色の薄い板だった。
空中で回転するそれには、肉眼では読み取れないほど細かな文字が刻み込まれており、赤い非常灯を受けて一瞬だけ複雑な幾何学模様を浮かび上がらせた。
しかし、金属片は相手へ届かなかった。
円筒の人間が右手を持ち上げた途端、銀色の板は何かに弾かれたように軌道を変え、天井へ突き刺さってしまったのである。
「……へえ」
円筒の人間が微笑む。
「そんなことも出来るんだ」
黒衣の人物は答えなかった。
その代わりに、上条へ向かって叫んだ。
「右手を離して! 早く!」
「こっちだって離したいんだよ!」
上条の右腕には、依然として鏡片から伸びた光の鎖が巻き付いていた。幻想殺しによって触れた部分から鎖は砕けているものの、破壊した端から新たな光が伸びてくるため、腕全体を自由にするには至っていない。
「土御門!」
「分かってる!」
土御門は自分と同じ顔をした影の拳を受け流すと、相手の懐へ踏み込み、腹部へ鋭い一撃を叩き込んだ。
影がよろめく。
その隙に土御門は懐から札を取り出し、指先で素早く折り曲げた。
「悪いが、ちょっと無理をするぜい!」
札を床へ押し付けると、そこを中心として赤い線が幾重にも走り、上条の周囲へ広がっていた鏡片を取り囲んだ。
直後、土御門の口元から血が零れる。
「土御門!?」
「こっちは気にするな! カミやん、今だ!」
床に描かれた線が発光し、鏡片から伸びる光の鎖が一瞬だけ緩んだ。
上条はその隙を逃さず、右腕を力任せに引き抜く。
ぱきん、と乾いた音が連続し、拘束を失った光の鎖は次々と砕け散った。
「よっしゃ!」
右手が自由になった。
しかし、その喜びは長く続かなかった。
「……あれ?」
円筒から現れた人間が、不思議そうに自分の右手を見つめていた。
そして。
その手を、ゆっくりと握った。
瞬間、床を覆っていた鏡片の一つが音もなく砕けた。
「な……」
上条の表情が強張る。
円筒の人間は自分の拳を眺めながら、興味深そうに笑った。
「こうするんだね」
「お前、まさか……」
「
その言葉を口にした途端、相手の右手から白い光が溢れた。
もっとも、それは上条の右手とは明らかに異なっていた。幻想殺しが異能へ触れた際に生じる破壊現象を、まるで映像として再現したかのように光が広がり、床へ落ちていた鏡片を次々と粉砕していく。
「待て、カミやん!」
土御門が叫ぶ。
「あれはお前の右手じゃねえ!」
「分かってるよ!」
「いや、分かってねえ! あいつが真似してるのは幻想殺しの効果じゃない。幻想殺しを持ってるお前自身の認識だ!」
その言葉に、黒衣の人物が顔を上げた。
「そうか……」
ようやく何かを理解したように呟く。
「MIRRORは能力を複製したんじゃない。能力を使う人間の『自分だけの現実』を、別の可能性から引き出して重ねようとしたんだ」
「どういう意味ですの!?」
黒子は影の攻撃をかわしながら問い返した。
「能力者が能力を使えるのは、自分がそういう世界を認識しているからだよ。もちろん、それだけで能力が成立する訳じゃない。でも、この器には自分自身の認識がない。だから他人の認識を取り込めば、取り込んだ相手の能力を再現出来る可能性がある」
「そんなことが……」
「普通なら出来ない。人格も記憶も演算も、他人のものをそのまま自分のものには出来ないから」
黒衣の人物は円筒の人間を睨んだ。
「でも、この器には最初から『自分』が存在しないんだ」
それは奇妙な逆説だった。
自分という存在がないからこそ、他人になれる。
誰でもないからこそ、誰にでもなれる。
MIRRORが第六位を再現するために作り上げた空っぽの器は、失敗作であるが故に、恐ろしく不安定な可能性を秘めてしまったのである。
「なるほどね」
器は満足そうに頷いた。
「僕にも少しずつ分かってきたよ」
そして、黒衣の人物へ視線を向ける。
「だから君が必要なんだ」
その瞬間、黒衣の人物の足元に影が生まれた。
赤い非常灯の位置から考えれば、あり得ない方向へ伸びる影だった。
それは床を這うように広がり、黒衣の人物の両足へ絡み付く。
「……っ!」
逃れようとした黒衣の人物の身体が、不自然な姿勢で固定された。
「今度は何だよ!」
上条が駆け出そうとする。
しかし。
「来ないで!」
黒衣の人物が叫んだ。
「君が近付けば、あれは君の情報まで取り込んでしまう!」
「だったら放っとけってのかよ!」
「これは僕の問題なんだ!」
その声は、それまでのどこか達観した態度とは違っていた。
焦り。
恐怖。
そして、ほんの僅かな後悔。
上条は足を止めた。
「……お前」
黒衣の人物を見つめる。
「さっきから第六位のことを随分詳しく知ってるみてえだけど、結局何者なんだよ」
黒衣の人物は答えなかった。
だが、円筒の人間が代わりに口を開いた。
「簡単なことだよ」
ゆっくりと歩き出す。
「君達は第六位が誰なのか知りたいんでしょう?」
その足音に合わせて、床の鏡片が一枚ずつ砕けていく。
「だったら、僕が教えてあげる」
器は黒衣の人物の前で立ち止まった。
「この人が第六位なんだ」
沈黙が落ちた。
「……何ですって?」
黒子が目を見開く。
「学園都市の第六位?」
「そう」
器は嬉しそうに頷く。
「でも、正確には少し違うかな」
黒衣の人物へ手を伸ばす。
「この人は、第六位だった人間だ」
その言葉を聞いた瞬間、黒衣の人物の肩が僅かに震えた。
「……余計なことを」
「だって本当のことでしょう?」
器は首を傾げた。
「君はもう、その名前を持っていない」
上条は眉を顰めた。
「どういうことだよ」
「名前っていうのは不思議だよね。誰かが呼んでくれるから、自分が自分だと分かる。学校の名簿に載っているから、そこに通っていると証明出来る。友達が覚えていてくれるから、昨日までの自分が今日も続いていると信じられる」
器は榊原へ顔を向けた。
「でも、それが全部なくなったら?」
榊原が息を呑む。
「君はもう経験しているよね。誰も自分を覚えていない世界で、自分が本物だと言い張ることがどれほど難しいか」
「……僕は」
「そう。君は君だ。でも、それを証明出来る人はもうほとんどいない」
器は再び黒衣の人物を見る。
「この人も同じなんだ」
黒衣の人物は俯いたまま動かなかった。
「第六位という称号は残っている。能力の記録も、研究資料も、学園都市のどこかには存在している。でも、その称号を与えられた人間の名前だけが、誰の記憶からも消えてしまった」
「まさか」
土御門が呟く。
「自分自身へ存在置換を使ったのか……?」
黒衣の人物は、ようやく顔を上げた。
「違うよ」
その声には疲労が滲んでいた。
「使ったんじゃない」
一拍置く。
「
器の笑みが深くなる。
「そういうこと」
黒衣の人物の影が、さらに大きく広がった。
「この人はMIRRORの最初の実験体。第六位の能力を再現するために、本人の存在情報を分解されて、世界中の可能性へばら撒かれたんだ」
「世界中って……」
「別の可能性世界へ、という意味だよ。だから僕は、その散らばった情報を集めて作られた」
器は自分の胸へ手を当てた。
「そして、この人は自分の情報を失ったまま、残りかすのようにここへ留まっている」
「……黙れ」
黒衣の人物が低く言った。
「僕は残りかすなんかじゃない」
「だったら、名前を言ってみてよ」
器は穏やかに問い掛けた。
「君の本当の名前を」
黒衣の人物は口を開いた。
しかし。
言葉が出なかった。
「…………」
フードの奥で唇が動く。
何度も。
何度も。
それでも、声にならない。
「ほらね」
器は微笑んだ。
「君にはもう名前がない」
上条はその光景を見ていた。
誰にも名前を呼ばれない人間。
誰にも存在を証明してもらえない人間。
それがどれほど恐ろしいことなのか、上条には想像することしか出来なかった。
しかし、少なくとも一つだけ分かることがある。
目の前の人間は、今、苦しんでいる。
「……おい」
上条が一歩前へ出た。
「名前がねえから何だってんだよ」
器が振り向く。
「何?」
「名前を忘れたからって、そいつがいなくなったことにはならねえだろ」
「でも、証明出来ないよ」
「だから何だよ!」
上条は右拳を握り締めた。
「証明出来なきゃ生きてちゃいけねえのか!? 誰かに覚えててもらわなきゃ、ここにいる資格もねえってのか!?」
器は不思議そうに上条を見つめた。
「君は面白いね」
「面白くなんかねえよ」
「でも、君の言っていることは矛盾している」
「……あ?」
「だって君だって、僕を本物だとは思っていないでしょう?」
その言葉に、上条は答えを詰まらせた。
器は微笑んだ。
「僕には名前がない。記憶もない。自分が誰だったのかも分からない。だから、他人の名前を欲しがっている」
黒衣の人物へ手を伸ばす。
「でも、この人だって同じなんだ」
その指先が、フードへ触れた。
「だったら」
ゆっくりと。
布が持ち上げられる。
「僕がこの人になっても、何も問題ないよね?」
上条は走り出した。
「やめろ!!」
右手を伸ばす。
しかし、届かない。
器の指先が黒衣の人物の額へ触れた瞬間、二人の輪郭が同時に揺らぎ始めた。
黒衣の人物の身体から、無数の光の粒が剥がれ落ちる。
それは器へ吸い込まれ、失われていた何かを埋めるように、その身体の奥へ溶け込んでいった。
「……あ」
榊原が声を漏らす。
黒衣の人物の姿が薄くなっていく。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
「やめろぉぉぉ!!」
上条の右拳が、ようやく二人の間へ届いた。
しかし。
拳が触れたのは、誰もいない空間だった。
「…………え?」
黒衣の人物が消えていた。
残されたのは、円筒から現れた人間だけだった。
器は自分の両手を見つめ、ゆっくりと指を動かしてから、満足そうに微笑んだ。
「……ああ」
その声は、先ほどまでとは少し違っていた。
どこか懐かしい響き。
まるで、長い眠りから目覚めた人間のような声だった。
「やっと、思い出した」
器は上条を見る。
「ありがとう、上条当麻」
そして、自分の胸へ手を当てる。
「僕は」
言葉を区切る。
「学園都市、第六位」
その瞬間、壁一面のモニターが一斉に点灯した。
表示されていた『LEVEL 5 No.6』という文字列の下へ、それまで空白だった名前の欄が現れる。
しかし、そこに表示されたのは人名ではなかった。
『IDENTITY TRANSFER COMPLETE』
『ORIGINAL STATUS:DELETED』
土御門が息を呑んだ。
「……まずい」
「何がですの?」
「あいつ、奪ったんじゃねえ」
土御門は震える声で告げた。
「第六位という存在そのものを、上書きしやがったんだ」
器は静かに笑っていた。
その背後で、無数の鏡片が再び浮かび上がり、一枚一枚が別々の人間の顔を映し始める。
そして、その全てが。
同じ声で告げた。
「次は、誰になろうかな」