それは、あまりにも突然の出来事でした。
ミネがナギサさんに頼まれたからセリナとハナエを連れてアリウスに行ってくるなんて言い出したのが昨日の事。
また妙な頼み事をされましたわね、なんて思いつつもそれもまた救護のためならと快く「後は任せくださいませ」と笑い、いつものように送り出したのが翌朝である今日。
そして、ゲヘナで時折お世話になっている救急医学部のセナさんの救急車でセリナとハナエが意識を失ったミネをこのトリニティに運んできたのが、日の沈んだ夜になってからの事でした。
「ミネっ!? これは、一体……!? 二人とも、ミネの容体は!?」
なんとか混乱しそうになる心を抑えセリナとハナエに聞くと、またも驚きを隠せない話を聞かされました。
アリウスに現れたラッパを鳴らす謎の天使。銃弾の通らないその超常的な存在に取り込まれそうになりながらも、彼女は一人で四体を相手にし倒し、そして意識を失ってしまったそうです。
呼吸、脈拍は正常。外傷もなし。
しかし意識だけは戻らない。
ワタクシもできうる限りの検査を行いましたが目立った異常は見当たらず。
特殊な力によって意識を失っているとしか言えない現状に、何も手出しができませんでした。
つまりワタクシにできる事は、ただ彼女の横で目が覚めるのを待つのみなのです。
「フミ副団長……少し休まれては……」
明かりのない病室で彼女の横で座り容体を見守るワタクシに、セリナが言いました。
時計の針は十二時を越え、日付が変わっています。
「……分かっております、副団長として今のワタクシの行いがよくない事は。ですが、今はこうさせてください……きっと、今のワタクシは役立たずになってしまうでしょうから」
「違います……それでは、副団長のお体も……! ……いえ、分かりました。でも、無理だけはなさらないでくださいね」
セリナはワタクシの説得は無理だと悟ると歯がゆそうな表情で病室を去っていきました。
情けないことをしているのは理解しています。
だけれども、ワタクシの心は決して思い通りになってはくれません。
正しいと思える行いをできず、間違っていると分かっている行いをしてしまう。
本当に、どうして、人の心とはここまでままならないのでしょうか。
「……ミネ」
ベッドの上で眠る彼女の頬をそっと撫でます。
生徒達から恐れられる事も多い彼女ですが、こうしてその柔肌に触れていると他の生徒達と変わりません。
ワタクシの指にかすかに触れる彼女の髪の一本一本はむしろ繊細で美しく、外からの月明かりでまるで妖精の如く輝きを見せています。
整った顔立ちで眠りに落ちる姿はまさに物語の中に出てくる悲劇の眠り姫。
――ワタクシが欲して止まぬ、麗しの蒼きお姫様。
「ああ……ミネ……ワタクシは、あなたの隣にさえいられれば、それでよかったって、そう
あの公園での日から、ワタクシの彼女への想いは余計に抑えつけられなくなっております。
――好き、好き、好き。あなたが大好き。愛している。あなたと結ばれたい。あなたと交わりたい。
一度は諦めたはずですのに、一度意識してしまえばやはりそんな事はできなくて。
自分の浅ましさに自ら失望して。
それでも、ワタクシは副団長なのですから、決してこんな感情を救護の場に持ち込んではいけないと努力して。
だったのに、今ではその誓いすらも守れなくなっていて。
「ミネ……ワタクシは、どうすればよかったのでしょうか」
答えが返ってくるはずのない問い。
だからこそ口にできたその言葉。
卑怯なワタクシの自己満足。
「…………っ」
と、そのときでした。
ミネの顔が、かすかに動いたのです。
「っ!? ミネっ……!?」
思わず椅子から飛び上がり彼女の顔をより近くで確認しました。
意識が戻った訳ではないのは薄々とですが理解しております。
でもやはり、万に一つでも可能性を感じたらワタクシはじっとしていられず――
「――先生……」
――……………………………………あ、え?
「……なんで……なんで、先生ですの……? なんで……なんで……」
ええ、分かっておりますわよ、そういう話ではないのは。
きっと何かあの人が彼女の支えとなる言葉を授けてくれて、ミネはそれを胸に今も戦っているのでしょう。
あの人は本当に素晴らしいお方です。普段はその耽美な見た目に反してだらしなくて生徒に対して気持ち悪いところを見せるような情けない殿方ですけれども、ここぞというときには頼れる大人の背中を見せて多くの生徒を魅了するような人たらし。
ここぞといときには平然と自分の命を天秤にかけてしまう。あんなの多かれ少なかれ好意を抱くに決まっております。
先生が悪い人だなんて一ミリも思っておりません。
ミネが彼に想いを寄せるのだって理解できます。
――だけど……だけど……っ!
「なんで、ワタクシじゃなくって、あの人なんですのよぉっ!!」
立ち上がったワタクシは思わず座っていた椅子を床に倒すぐらいの勢いで立ち上がってしまいました。
自分から二人を応援していた癖に、あまりにも理不尽すぎる癇癪。なんで、なんでこうもワタクシの心は思い通りになってくれませんの?
理性のカケラもない自分自身がとことん嫌になって来ます。
そこまで分かっているのに、ワタクシの心は未練がましい後悔に埋め尽くされていきます。
――ああ、こんな事になるのなら、あの人にミネの事をちゃんと見てあげて欲しいなんて言うんじゃなかった。ミネの恋路を応援するなんて言うんじゃなかった。先生に生徒からの想いに真剣に向き合って欲しいなんて言うんじゃなかった。
中等部からついてきた自分への「嘘」に、いい加減気づいてしまったのを、ワタクシは否応なく思い知らされてしまいした。
そうしてワタクシはこれ以上眠る彼女の横にはいられないと、そんな自己嫌悪から来る胸の痛さから逃げるように病室から出ていきました。
そして後を当直室にいたセリナとハナエに任せて、ワタクシはベッドにつかせてもらいました。
彼女らはワタクシが休むと言ってくれた事に喜んでくれました。
きっと、さぞ疲れた顔をしていたんでしょうねワタクシは。
実際ベッドに潜り込んだワタクシはそのまま深い眠りに落ち込んでしまいました。
ミネがその眠りから醒めても起きなかった程に。
この日から、ワタクシの心はどんどんと摩耗していく事となったのです。自分自身に対してつき続けていた「嘘」の砦が崩れ去った事によって。
これよりワタクシは、裸の心で取り戻せない現実を視なければならなくなったのですわ。
*****
あのアリウスから帰ってきたミネは、より一層先生を意識するようになっていました。
そして先生もなんだかミネを以前よりも意識的に見ているようになった気がします。
きっと彼女らが共に経験したアリウスでの出来事が双方を意識させるキッカケになったのだと思います。
そしてそれだけでなく、これまでワタクシが二人の背中を後押ししていたのも、間違いなく効果を発揮しているのでしょう。
例えばこれはある日、先生が救護騎士団の病棟に別の用事で訪れた日の事です。
「先生っ! よければその、これをどうぞ……!」
「これは……ひよこのクッキー? ありがとう。でもどうしたの? これ」
「えっと、その……先日ゲヘナのフウカさんと美食研究会の皆さんの協力を得て作ったのですが……あの、先生も、よろしかったら、と……」
「うん、ありがとうミネ。可愛らしくてすごくミネらしいクッキーだね、じゃあさっそく」
「あっ、ちょっと待ってください! さすがに後で食べていただいて……」
「もぐっ! ……ごめんね、もうしっかり食べちゃったよ。うん、すっごく美味しかった!」
「……は、はいっ! ありがとう、ございます……!」
間違いなく距離が縮まっているのが分かる、先生とミネの、心温まるやり取り。
でも今のワタクシにとってそれはこの身そのものをすりつぶす乳鉢のように思えます。
ゴリゴリと丁寧に潰されていくワタクシの恋心。
でも、表向きは二人を応援し続けているのですし、ここで癇癪を起こしてはミネに悪いからと、ワタクシはただ笑っていつも通りに振る舞わないといけません。
でもそうするたびに、応援したくない二人の仲が進展しているような気がして、余計に胸が痛むのです。
――どうして、どうしてこんな事になっちゃったんですの?
ワタクシはただミネと一緒にいたかっただけのはずです。
関係が壊れてしまうのが怖くて、ただ隣にいる事で心を満たしていただけだって言うのに、どうして。
先生ですの? 彼が、彼がこのキヴォトスに来なければ、こんな事にはならなかった?
――いいえそれは違います、あまりにも身勝手な八つ当たりです。
じゃあミネ? ミネがワタクシの気持ちに気づいてくれなかったのが悪い?
――はっ、それこそ馬鹿馬鹿しい責任転嫁ですわ。
先生もミネも、何も悪くありません。二人は正しく距離を縮めているのです。
では誰が悪いのかしら?
フフッ、そんなのもう一人しかいないじゃありませんの。
――すべては、ワタクシの自業自得です。
ワタクシが臆病だったから。
ワタクシに勇気がなかったから。
ワタクシが未練がましかったから。
ワタクシが、人と違う性愛を生まれ持ってしまったから。
ワタクシに、自分の心と向き合う強さがなかったから。
「ワタクシは……一体、何がしたかったのでしょうね」
自嘲気味にそんな言葉すら出てしまいます。
安い自意識と保身のためにつき続けた「嘘」に何もかも粉々にされてしまうなんて、実に因果応報の痛快な物語ですわね。
でも残念ながらワタクシはその罰を受ける愚者で悪役。
だからこうして、欲しかったものを諦めた癖に、後悔はしても反省はせずに、今更になって欲しがっているのです。
ワタクシは、王子様とお姫様の物語に出てくる倒されるべき醜い化け物なのです。
綺麗に花開いた
いくら取り繕っても、この醜悪さはもはや押し留める事ができません。
結局もう、全部駄目なのです。
どうせもう、何もかも意味がない。
……だから。
「フミ、実はあなただけには言おうと思いまして……私、先生の、その、ほっぺたにですけど、口づけを、したんです……」
だから、もう、いいですわよね?