こんなに安寧に満ちた気持ちで過ごせる日々が来るなんて思ってもいませんでした。
とにかく、幸せなのです。
満ち足りているのです。
今まではミネや友人達と共に過ごしたり、救護騎士団の活動で誰かの助けになれたりしたときに幸福を感じていました。
でも今のワタクシが感じている幸福と比べたらあんなのはゴミです。
このヘイロー・バイ・インドゥルジェンス・レター――あの隠れ家にある書物やメモを読み解いていくと、HLYNと略された隠語が用いられていたこれを使ってるときの多幸感は、ワタクシのこれまでの人生すべての幸せを足しても叶わないんじゃないかと思うぐらいです。
だからもうワタクシは大丈夫なのです。
これがある限り、ワタクシは自らの心を制御できるのです。
だって、幸せなんですから。
たとえそれが医療従事者として最悪最低の行いだとしても、です。
「フミ様、最近ちょっと雰囲気変わられましたよね」
いつもの六人でお茶会をしているときに、黒髪の彼女がそう言いました。
「あら、そうかしら」
ワタクシは笑って返します。だって幸福だから。
「ええ、なんというか……大人なレディーっって感じになりました!」
「それいつものフミ様はおこちゃまっぽかったって暗に言ってない?」
「暗にというかダイレクトに言ってるわよぉ」
「あっ、いやそういう訳じゃ……! ち、違いますからねフミ様!? 私はただホントこれまでとは違う魅力ある人になったなって言いたかっただけで……!」
緑髪の彼女と銀髪の彼女が続けて言った事で、黒髪の彼女が慌てていますわ。
ワタクシはそれに落ち着いて笑い返します。
「いえいえ、いいんですのよ。確かにこれまでのワタクシには落ち着きがなかったと言えるでしょうから」
「おお……本当に落ち着いておられる……」
「まーた何か創作にでも影響されたのかしらぁ?」
「そこんとこどうなのミネ? フミ様最近そういうのにハマったりしてた?」
「えっ!? い、いえ……さあ、私には分かりかねます……」
三人の言葉にミネが言葉を濁すように答えていました。
あんなことをワタクシがしてしまった後ですし、答えづらいのは仕方ないでしょう。
実際チラチラをこちらの様子を伺うように目線を向けてきます。ワタクシはそれにただ笑って返します。
幸せだと、とても余裕が生まれるのですね。
「ふふふ」
「…………」
溢れんばかりの幸福から笑っていると、そこで別の視線に気づきました。
茶髪のあの子です。普段の彼女は表情が豊かなのですが、今はなんだか感情が薄い顔つきのように思えますわね。
まあ、別にいいですわ。そういう気分もあるでしょう。ふふふふふ。
「……ミネ、ちょっといい?」
「え? ……はい」
と、そんなことを思っていると彼女はミネの服の袖を掴んで離れていきました。
どうしたのでしょうか? ……まあいいでしょう。
それぐらいにワタクシは今、気持ちがいいですから。
「ふふふふふ、いつの間に二人っきりになるまで仲良くなったのかしらね、あの二人」
「さぁ? まぁ別にどうでもいいんじゃないんですのぉ? 個人間の関係にとやかく言いたくないですわよぉ」
「あれ? あなたもしかいて妬いてる? あーそうだよねー、最初はそっちがライン超え発言して撃たれたなんて始まりだった癖にいつの間にか男女関係の面倒見るぐらいには仲良くなってたもんねぇ~」
「前々から思ってたけど懐に入ると凄いダダ甘になるタイプだよね。セイア様とかにもそうだけど距離感バグってるタイプ」
「はぁ!?!?!? 誰が妬いてるですってぇ!?!?!?! あんないつもは奥手な癖にシスフとしては異様に仕事できてティーパーティーの悩みの種みたいになってる癖にそれでいて普段は妙に人様の感情に機敏なとこあって面倒くさいところある世話の焼ける子なんか誰が心配するもんですかぁ!!!! 御冗談がお上手な事でぇ!!!!」
「うん、全部自供してるね……ヤらかした生徒の聴取もこれぐらい素直だといいんだけどなぁ……」
「いやー大変だね正実は」
「爆弾が委員長してるとこの子には言われたくないわ」
「…………ふふふふふ。皆さん、幸せそうでなによりですわ」
とても心地がいいです、ワタクシ。
ワタクシはこのHLYNを人様に勧めようとは思っておりません。
こんなものを使うのは人としての倫理に背いた行いであり、決して許されない道であり、逃げでしかない事は理解しているからです。
でもワタクシはそれでいいんです。逃げられるのならいいんです。そして、それはそれとして改めて救護騎士団の副団長としての知識を用いて研究もしております。我ながらどうにかしていますね。でも、心に余裕が生まれるとそうした思索をしたくもなりますのよ。思考実験のようなものです。
そのために救護室にいながらも開いた時間で隠れ家にあった偉大な先輩方の資料を突き合わせて整理し、自筆のノートにまとめておりますの。
まずこのHLYNは元は鎮痛作用のある薬剤として用いられていたようです。
ただその効能に対する副作用から過去のトリニティひいてはキヴォトスにおいて流通が禁止されましたが、それを我がご先祖様が創設した「贖宥協会」が資金稼ぎのために利用し、そこに多くの方々が集まって独自のコミュニティを形成したのがあの隠れ家、という事のようですわね。
そしてアリウスやユスティナのような過去の歴史が闇へと葬り去られる中で消され忘れ去られたトリニティの歴史の暗部の一つでもあるわけです。
HLYNの原材料となるのはやはりあの庭園にあった花畑で成っていた実で、純度が高いモノ程効能が上がるようですわ。
そこでワタクシは当時の精製法からより純度の高いHLYNを精製法を考案しました。
あの紙巻きではせいぜい純度は三〇パーセント程度の粗悪な物でしたが、ワタクシはこれを大幅に改良、九〇パーセント以上の純度にまで引き上げた粉末へと改良いたしました。
元より純度が高い粉末は存在していましたがそれも良くて七〇パーセント程度でしたから、数百年前と比較して知識と技術の進歩を感じますわね。
さらにワタクシ自身は精神を抑制し多幸感を齎す本来のHLYNとしてしか使用するつもりはありませんが、逆に精神を高揚させる興奮作用のある物、また素敵な光景を見られる幻覚剤としての作用がある物の精製法を考案しました。
とても万能な素材で知識欲が刺激された結果ですわ。まあ考えただけですのでいいのではないのでしょうか。
ワタクシは今の純度を高めた作用で十分満足していますし、ふふふふふ。
「……と、そろそろですわねぇ」
ワタクシは時計を見て言いました。
時刻は午後の四時近く。今日の使用ペースだとそろそろクスリの効果が切れて想定された副作用が見えてくるタイミング、なので今がちょうどいいでしょう。
「うふふふふ」
デスクに薬包紙を置いて、救護室のとあるところに隠していたビンを取り出します。先程言った、今のワタクシの知識によって純度を高めたHLYNです。
それを薬包紙の上にある程度開けるとまたビンとノートを手近なところに隠し、おサイフからお札を出します。
そうして取り出したお札をストローのように丸く細い筒状にすると、それを鼻の穴に入れて、HLYNを一気に吸引しました。
――
――――
「…………ふあぁぁあぁぁあぁ」
――――――
――――――――――――――幸せ――――――瞳孔がキュインと縮む感覚がする――気持 ちが良い――――――――これ があれば――――――――もうそれでいい ですぅ うふ――――――――――――――――――――――素敵ぃ――楽しい――――――――――「えへへへっ……!」――――――――― ――つい笑っちゃう――――音楽流してたら踊っちゃいそうなほど楽しい――――落ち着くぅ……――――――――――――はっぴー ハッピー ぴっぴっぴ――――――――ハっぴーっぴピえへへ――「ふぅぅうぅぅぅうぅぅ……」―――――― ワタ クシをみたして くれる――んですの――――――――――もう胸は痛くない――――――
――――――
――――
――
……コンコンと、扉を叩く音がしました。
んもぅ、すごくキモちよくなってましたのにぃ。
「はぁい、どうぞぉ」
でも幸せだし許しちゃいます。
ワタクシは楽しげに言って扉にかけていた鍵を開けました。
ヤってるところ、見られちゃさすがにまずいですからね。
「……フミ」
そこにいたのは、なんだか真剣な顔をしたミネじゃありませんの。
「あらぁミネ、どうしましたの?」
「少しお話いいですか?」
「ええどうぞ。今は患者もいませんしね、ふふふ」
ワタクシは彼女にこの前のようにベッドに座ってもらいました。
違うのと言えば真面目な顔をしてる彼女と楽しいワタクシですけど、へへへ。
「それで? お話って何かしら?」
「……フミ、最近のあなたはおかしいように思います」
さすがミネですわね、薄々気づいているみたいですわ。
でもその原因たる幸せをくれるお薬を今のキヴォトスで知ってる人なんていませんしどうせ辿り着けないでしょうけど、ふっ、ふ、へへ。
「あらそうですの? どういうふうにかしら?」
「今の貴方はまるで夢の中にいるような……どこか現実から離れてしまっているような……そういう風に思えます」
「まぁそうですの。でも勘違いでなくて? ワタクシはいつも通りですわよ?」
これが新しいワタクシ。
もう辛くならないワタクシなんですから。
「そんなことありません。今までのあなたはもっと溌剌としていて、それでいてとても理知的なところがって、周囲に配慮していて……それが今の貴方は……なんというか、自分の事しか見ていない、そんな印象があります」
「へぇ、そうなんですのぉ。でも、それってあくまであなたの印象ですわよね? 勘違いじゃなくて?」
「いえ、シスターフッドとしてとりわけ目ざとい観察眼を養っている彼女だって同じような事を言っています。私だけならともかく、彼女もそう言うのなら間違いはありません」
「あーら、そうなんですの」
この前集まったときに二人で消えてたのってそういう事だったんですのね。
彼女、ワタクシの味方って言ってくれたのに。でも今は気分がいいから許しちゃいまーす、へへっ。
「フミ、何かあったなら言ってください……私達、親友じゃないですか」
「……そうですわねぇ……じゃあ、今すぐワタクシとセックスしてくれます?」
「っ!?」
ミネの顔が強張りました。
あはは、そりゃそうでしょうねぇ、この場所でワタクシがそう言ったらそうなりますわよね。
「うふふふふ、冗談ですわよぉ。でもミネ、できもしない事を言っちゃ駄目ですわよぉ? それに話したじゃないですか、あのときの事はなかったことにしようって」
「……ですが」
「ですが、なんですぅ? じゃあワタクシがお願いしたらワタクシの事を性的に観てくれるのかしらぁ? ワタクシと恋人になれるのかしらぁ? そうやって『救護』の一環としてワタクシと結ばれてくれるのかしらぁ?」
「きゅ、『救護』の一環などと……わ、私はそんなつもりは……!」
「あはははは、そうですわよねぇ、そんなつもりなのはワタクシも分かってくれます。ミネにそんな他人を見下した感情あるわけないですし、あなたの信念が本当に素晴らしいものなのはこのワタクシが誰よりも理解しているつもりなのですわ」
そう、ミネは正しい。間違っているのはワタクシ。
使っちゃいけないクスリでおかしくなってるこのワタクシで、これはただの八つ当たりでしかありません。
でも、一度出てきた言葉は止まりませんの。
「でもね、ミネ。でもねでもね、間違ってる人って、どうしても悪い方向に考えて勝手に拗ねて勝手にアレが悪い、これが悪いって八つ当たりするんですのよ。ワタクシはあなたへの恋心を隠してなきゃいけなかったのに、恋心なんて抱いちゃ駄目だったのに。でも出しちゃいました。壊しちゃいました。でもこうしてなんとか最低限見た目だけは整えられたんです。だから……触れないでください。こんなワタクシにかまっていたら、あなたが穢れてしまいます」
痛い。
気持ちいいはずなのに。
幸せなはずなのに。
抑え込んだはずなのに。
間違えたワタクシの心が、また傷口を開いてドクドクと糞尿まみれの毒汁を垂れ流していきますの。
「…………申し訳……ありませんでした……あなたの……気持ちを……無視して、こんな、無遠慮な、事……」
ミネが俯いて涙声で言っています。
もう、彼女は何も悪くないのに、なんでそうなってるのでしょうか。
悪いのは全部ワタクシなんですのに。
「泣かないでくださいな、ミネ。あなたの行動は一切間違っておりません。間違っているのは、ワタクシなのです。ワタクシの存在なのですよ」
「そんなこと……言わないでください……私の大好きなあなたが、自分を間違ってるなんて……!」
「……うふ、うふふふふふふ。あはははは」
どうしましょう、ミネは何も悪くないって教えてあげたいのに、いい言葉が思いつきません。
だから笑う事にしました。笑って、幸せになって、満ち足りて、全部「嘘」にして忘れちゃおうって思いました。
「……失礼します」
そしたら、ミネが帰っていきました。
勘違いしないでほしいですが、無駄にワタクシの事抱え込んでしまいそうですわね。
誰か彼女を励ましてくれるといいのですが。そう、例えば先生とか。
ええ、きっと彼なら間違いなくミネを励ませるでしょう。間違ってないって教えてくれるでしょう。みっともない「嘘」だらけのワタクシと違って、きっと、そう、先生なら。
「…………ッ」
あら、ワタクシったら。
また曲げた指のてっぺんを噛んでしまっていますわね。
よくないですわ。よくないですわよくないですわよくないですわ。
被害者ぶってるワタクシ気持ち悪い。
汚臭で吐き気がする。
幸せにならないと。
気持ちよくならないと。
つらい気持ちとか、全部「嘘」にしないといけないんですわ。
だから、ちょっと強めに生きましょう。
そうですわね、そうしましょう。この液体にしたHLYNの入ったビンを取り出して、注射器に入れて、静脈に注射するんです。
理論的にはこれが一番幸せになれるんですの。
あ、ちゃんと鍵閉めないと。観られたら大変。
こうやって、ゴムで腕締めて、腕の真ん中くらいの静脈狙って。
「……!」
ぷすり。
じゅるっ。
きゅいん。
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――――――
――……――
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「…………………………」
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幸せ。
――――――
――――
――
嘘にしました。
*****
ワタクシは幸せでした。
満ち足りていました。
平穏無事の安寧の世界にいたんです。
HLYNさえあれば、もう他に何もいらなかったんです。
幸せだったんです。このまま永遠に幸せなはずだったんです。
あれがあれば幸せだった、なのに、なのに。
「…………は? なん、で? え? 嘘……ありえない……」
どうして、どうして、ですか。
どうして、クスリがある、材料が取れる、隠れ家への道が、途中で塞がっているんですか。