がっこうぐらし!~また、「ただいま」が言える場所へ~ 作:過労暮らし
午前二時を回っていた。
空調の低い唸りと、壁掛け時計の秒針だけが、誰もいない事務所に残っている。白い蛍光灯に照らされた机の上には、開封されていないコンビニ弁当と、冷え切った缶コーヒーが置かれていた。
パソコンの画面には、まだ埋まっていない報告書の空欄が並んでいる。
俺は重くなった瞼を指で押し上げ、キーボードへ手を戻した。
明日の朝までに仕上げると言った。正確には、頼まれたときに断れなかっただけだが、引き受けた以上は終わらせなければならない。
自分が帰れば、誰かが困る。
明日の仕事が増える。
あと少しだけ頑張ればいい。
何度も使った言葉を頭の中で並べ、カーソルの点滅を見つめる。文字を打とうとして、右手が思うように動かないことに気づいた。
胸の奥が、鈍く痛んでいた。
「……寝不足、か」
声に出してみても、返事をする者はいない。
机の端でスマートフォンの画面が光った。数日前に届いた友人からのメッセージが、通知欄に残っている。
今度の休み、飯でも行かないか。
返信欄には途中まで打った文章があった。
――悪い。今月はちょっと無理そう。
今月は。
来月になれば。
この仕事が終われば。
そう言い続けて、いったい何年経ったのだろう。
俺はスマートフォンを伏せ、椅子から立ち上がろうとした。せめて水を飲もうと思っただけだった。
足に力が入らなかった。
肩が机にぶつかり、弁当と缶コーヒーが床へ落ちる。身体を支えようと伸ばした手も間に合わず、俺は硬い床へ倒れ込んだ。
息を吸えない。
胸を押さえても、痛みは引かなかった。視界の端で、床に転がった缶コーヒーが黒い液体を吐き出している。
誰かを呼ばなければならない。
そう思うのに、声が出なかった。
明日の仕事はどうなる。
最初に浮かんだ考えがそれだったことに、遅れて笑いそうになる。こんなときまで、俺は仕事の心配をしている。
伏せたスマートフォンの画面が、もう一度光った。
飯に行くこともなかった。
旅行も、趣味も、いつか時間ができたらと後回しにした。生きるために働いていたはずなのに、いつからか、働くことだけで人生を使い切っていた。
もっと生きたかった。
ただ長くではない。
ちゃんと、自分のために。
その願いが誰かへ届くより先に、視界から光が消えた。
◇
次に目を開けたとき、朝だった。
薄いカーテンを通した柔らかな光が、見知らぬ天井を照らしている。事務所の白い蛍光灯も、空調の音も、床にこぼれたコーヒーの匂いもなかった。
代わりに、洗いたての布団と、わずかに甘い石鹸の匂いがする。
「……ここ、は」
出た声に、息が止まった。
高い。
いや、幼い。
喉を押さえようとして、目の前に持ち上がった手を見た。指が短い。手のひらも、冗談のように小さかった。
身体を起こす。そう考えた直後、頭だけが先に動き、身体が大きく傾いた。
「わっ」
俺は布団の上で転がり、ベッドの縁から落ちかけた。
慌ててシーツを掴む。腕には体重を支えられるほどの力がなく、短い足は床へ届かない。
扉が勢いよく開いた。
「由紀!」
駆け込んできた女性が、落ちかけていた身体を抱き留めた。
その顔を知っている。
知らないはずなのに、知っていた。
抱き上げられた瞬間、身体から力が抜けた。腕の中の温かさも、服に残った柔軟剤の香りも、心配したときに眉尻が下がることも、俺はずっと前から知っていた。
「もう、びっくりさせないで。熱が下がったばかりなんだから、急に起きちゃ駄目でしょう?」
女性――母さんの手が、額に触れる。
その感触に安心して、俺は無意識に首元へしがみついた。背中を優しく撫でられてから、自分が取った行動に気づく。
違う。
俺は成人した男で、こんなふうに母親へ抱きつく年齢ではない。
けれど、離れようとすると、胸の奥に小さな不安が広がった。ここから下ろされたくないと、身体のどこかが訴えている。
「まだ苦しい? お水、飲めそう?」
「……のめる」
答えた声は、やはり幼かった。
母さんが安堵したように笑う。その顔を見た途端、見覚えのないはずの光景が次々に浮かんだ。
転んで膝を擦りむいた日。
眠れずに絵本を読んでもらった夜。
苦手な野菜を残して叱られた食卓。
昨日まで続いていた、短くも確かな五年間。
前世の俺が、この子の中へ突然入り込んだわけではない。
俺はこの人を母親として知っている。この家で笑い、泣き、眠ってきた。熱を出す前までの記憶も途切れずに残っていた。
そこへ、もう一人分の人生が流れ込んできた。
「怖い夢でも見た?」
何も答えられずにいると、母さんが俺の顔を覗き込んだ。
「……うん」
嘘ではなかった。
仕事だけで終わった人生も、床に倒れた夜も、今では遠い悪夢のように思える。
けれど、あれは確かに俺の人生だった。
「もう大丈夫よ。お熱も下がったから」
母さんの手が、もう一度頭を撫でる。
その言葉へ頷きながら、俺は小さな指を握った。
本当に、大丈夫なのだろうか。
◇
朝食の支度をするという母さんに下ろしてもらい、俺は部屋に残った。
床が近い。机も棚も、何もかもが大きく見える。
壁には色鉛筆で描いた絵が飾られていた。青い空の下に、母さんと俺らしい二人が手をつないでいる。人物よりも大きな花が並び、右上には形の崩れた太陽が笑っていた。
描いた記憶がある。
褒められて嬉しかったことも、その後で黄色の色鉛筆をなくして泣いたことも覚えている。
棚には絵本と積み木が並び、床には昨日まで遊んでいた人形が置かれていた。人形を拾い上げると、右腕へ自分で巻いた桃色のリボンが見えた。
俺のものだ。
いや、私のものだ。
頭の中に浮かんだ言葉の違いに、眉を寄せる。
どちらも自分の声だった。
机の横に鏡があった。
近づいて覗き込むと、薄桃色の髪を寝癖だらけにした少女が、丸い目でこちらを見返した。熱の名残で頬が赤く、寝間着の襟も少し曲がっている。
見たことのある顔だった。
どこで見た。
俺は鏡の前へ座り込み、頭の奥を探った。思い出そうとするたびに、紙を乱雑にめくるような音がする。
「由紀、ご飯できたわよ」
扉の向こうから声がした。
ゆき。
それは俺の名前だ。
この五年間、何度も呼ばれてきた。母さんの声も、先生の声も、友達の声も知っている。
けれど、今はその名前へ別の文字が重なっていた。
俺は机の上に置かれた幼稚園の名札を掴んだ。丸みのある字で、名前が書かれている。
たけや ゆき。
丈槍由紀。
その四文字が頭の中で形を結んだ瞬間、閉じていた何かが弾けた。
学校の屋上。
風に揺れる菜園。
シャベルを握る少女。
穏やかに微笑みながら、皆の生活を支える少女。
一歩引いた場所から、厳しい目で現実を見る後輩。
そして、生徒たちを見守る、優しい教師。
知らないはずの校舎を、俺は知っていた。
明るい廊下も。
積み上げられた机も。
割れた窓も。
血に汚れた制服も。
人だったものが、校内を歩き回る光景も。
名札が手から落ちた。
床に当たった乾いた音が、やけに大きく響く。
「……がっこうぐらし」
唇からこぼれた声は、震えていた。
前世で読んだ物語。
学園生活部の少女たちが、崩壊した街で生き延びる物語。その中心にいた少女の名前が、丈槍由紀だった。
鏡の中の少女と、記憶の中の彼女が重なる。
違う。
似ているのではない。
俺が、その丈槍由紀なのだ。
胸が苦しくなり、呼吸が浅くなる。落ち着けと考えても、五歳の身体は言うことを聞かなかった。
原作で丈槍由紀は、壊れた現実を受け止められなかった。
学校はいつもどおりで、友達は生きていて、授業も続いている。そう信じることで、自分を守っていた。
けれど今の俺には、まだ何も起きていない街と、その先に待つ惨事の両方が見えている。
このままなら、胡桃が傷つく。
悠里も、美紀も、失う。
めぐねえは――。
喉の奥から、小さな音が漏れた。
考えるのを止めても、映像は消えなかった。引っ掻く手。噛みつく口。助けを求める声。校舎を埋め尽くす、人の形をしたものたち。
頬を何かが伝う。
自分が泣いていると気づいたときには、扉が開いていた。
「由紀?」
母さんが俺の前へしゃがみ込んだ。
「どうしたの? どこか痛い?」
俺は答えられず、その服を掴んだ。
母さんも、この街にいる。
あの災害が起きれば、原作の主要人物だけが危険になるわけではない。今、窓の外を歩いている人も、幼稚園の先生も、友達も、この人も。
皆が死ぬかもしれない。
「こわい、ゆめ……」
それだけ言うと、母さんは何も追及せずに抱き締めてくれた。
「大丈夫。お母さんがいるから」
背中を撫でる手が温かい。
守られているのは俺のほうだった。
前世の俺が少女の身体を奪ったのではない。母さんに抱かれて安心している自分も、死ぬまで仕事を手放せなかった自分も、どちらもここにいる。
俺はもう、丈槍由紀だった。
だからこそ、あの未来を他人の物語にはできなかった。
◇
椅子へ座るために母さんの手を借りなければならなかった。
机の上には、小さな皿とスープが並んでいる。スプーンを握ったものの、指先の感覚が前世と違い、すくった具を途中で落としてしまった。
「ゆっくりでいいのよ」
「じぶんでできるもん」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
意地を張るつもりはなかった。それでも胸の中には、本当に自分でやりたいという感情がある。
母さんは笑いを堪えるように口元を緩めた。
「そうね。じゃあ、頑張って」
もう一度スプーンを動かす。
今度は口まで運べた。温かいスープの味が広がり、空腹だった身体が素直に喜ぶ。
「おいしい!」
気づけば声を上げていた。
母さんが嬉しそうに笑う。その顔を見て、俺もつられて笑った。
演じたわけではない。
おいしいものを食べれば嬉しい。母さんが笑えば自分も楽しい。この感情は、丈槍由紀として過ごした五年間の中で、当たり前に育ってきたものだった。
前世では、食事の味などほとんど覚えていない。
腹を満たすために詰め込み、仕事へ戻る。休みの日にも連絡を気にして、遊びの誘いは後回しにした。
死ぬ直前になって、ようやく気づいた。
俺は生きていたのではない。
終わらない今日を、ただ繰り返していた。
小さな手でスプーンを握り直す。
今度は、そうしない。
食べたいものを食べる。行きたい場所へ行く。遊びたいときには遊ぶ。できないことはできないと言う。
いつかではなく、今を生きる。
「由紀ね」
「なあに?」
俺は少し考え、胸の中に生まれた決意を、今の自分に似合う言葉へ変えた。
「いっぱい遊ぶ!」
母さんが目を丸くした。
「熱が下がったばかりなんだから、今日はお休みよ」
「じゃあ、あしたからいっぱい!」
「幼稚園は遊ぶだけじゃありません」
「えー?」
頬を膨らませると、母さんが笑った。
俺も笑いながら、心の中でもう一度誓う。
今度こそ、寿命を全うする。
長く生きるだけではない。誰かに使い切られるのでも、自分から投げ捨てるのでもない。
俺の人生を、俺自身が生きる。
けれど、その誓いのすぐ後ろには、血に染まった校舎が立っていた。
何もしなければ、やがてすべてが壊れる。
なら、街を出ればいい。
災害が起こる前に、家族を連れて遠くへ逃げる。原作の舞台から離れれば、自分たちだけは助かるかもしれない。
一瞬、そう考えた。
だが、胸の奥に浮かんだ顔を消せなかった。
まだ会ったこともない胡桃たち。
俺を知らないめぐねえ。
物語では名前すら出なかった、大勢の人たち。
未来を知っていて見捨てた後で、俺は本当に笑えるのだろうか。
「……俺が、何とかするしかない」
小さく呟く。
その言葉を口にした途端、胸の奥が冷えた。
前の人生でも、俺はそう言っていた。
誰かに任せれば迷惑がかかる。自分がやったほうが早い。引き受けた以上は、最後までやらなければならない。
そうやって、死ぬまで働いた。
五歳になったばかりだというのに、もう同じ道へ戻ろうとしている。
「由紀?」
母さんに呼ばれ、俺は顔を上げた。
「なんでもない!」
明るく答えると、母さんは不思議そうにしながらも食器を片づけ始めた。
何もかも一人で背負うのは駄目だ。
分かっている。
それでも、未来を知っているのは俺だけだった。
今すぐ世界を救う方法など考えなくていい。そもそも、原作の記憶がどこまで正しいかも分からない。
災害が起きる日付。
感染の始まり。
ランダルという企業が、何をどこまで知っていたのか。
巡ヶ丘の水が、感染へどう作用していたのか。
覚えているのは断片ばかりだった。
まず、ここが本当に原作と同じ世界なのか確かめる。
次に、災害までどれだけ時間が残されているかを調べる。
その後で、自分にできることを探す。
俺はまだ五歳だ。
図書館へ一人で行くことも、専門家へ話を聞くこともできない。だからこそ、焦ってはいけない。
そう言い聞かせても、心臓は速いままだった。
◇
朝食を終えた俺は、居間の窓へ近づいた。
今の背丈では外がよく見えない。近くにあった踏み台を両手で運び、窓際へ置く。
「由紀、何してるの?」
「おそと見るの!」
「落ちないようにね」
母さんの声へ返事をし、踏み台へ上がった。
窓の外には、何の変哲もない朝の街が広がっていた。
駅へ向かう人。
子どもの手を引く親。
信号で止まる車。
道端で話している制服姿の学生。
誰も逃げていない。誰も襲われていない。血も悲鳴もなく、街は当たり前の一日を始めていた。
この人たちが、やがて感染者になるかもしれない。
そう考えるだけで、胃のあたりが縮んだ。
視線を遠くへ向ける。
建物の隙間から、給水塔が見えた。
五歳の目には遠すぎて、細かな文字までは読めない。それでも塔の側面に描かれた印だけは見えた。
昨日までの俺なら、気にも留めなかっただろう。
けれど今は知っている。
あの形を、前世で見た覚えがある。
ランダル・コーポレーション。
どこまで関わっていたのかは思い出せない。感染を生み出したのか、知りながら隠したのか、それとも止めようとして失敗したのか。
一つだけ、確かに覚えていることがあった。
巡ヶ丘の水は、あの災害と無関係ではない。
俺は窓へ手をついた。
今度の人生では、遊ぶ。
笑って、好きなことをして、ちゃんと生きる。
そのためには、俺の人生を奪う未来を放置できない。
「由紀、何が見えるの?」
母さんが後ろから尋ねた。
俺は給水塔から目を離し、振り返った。
「お水の塔!」
「あんなに遠いのに、よく見つけたわね」
「うん!」
笑って答える。
「見つけた!」
母さんは、給水塔のことだと思ったのだろう。
俺が見つけたのは、その向こうに隠れているものだった。
一度目の人生を、俺は何も知らないまま使い切った。
二度目まで、同じ終わり方をするつもりはない。
窓の向こうで、朝日を受けた給水塔が白く輝いている。
その側面には、ランダルの印が刻まれていた。