恐れたのだ。自らの創作意欲に焼き殺されることを。
明るく穏やかな昼下がり。
ある部屋の一室から、いくつもの声が聞こえてくる。
卓の上には、食べかけの菓子や湯呑み、コーヒーカップが並び、その隙間には書きかけの紙片が無造作に置かれている。椅子の脇には、誰かが口を開けたまま放置した鞄もあった。整然としているとは言い難いが、その雑然とした様子が、かえって部屋に集う人の多さと、彼らがここで過ごしてきた時間の長さを物語っていた。
外から眺めるだけならば、親しい者同士が寄り集まった、和やかな昼下がりの光景にしか見えないだろう。
その中心にいる人物は、最悪の呪詛師、
かつて呪術高専に籍を置き、
彼の周囲にいるのは、夏油を慕い、そのもとへ集まった呪詛師たちである。彼の思想に共鳴した者もいれば、救われた恩義を胸に付き従う者もいる。その関係は、目的のためだけに結ばれた一時的な利害関係ではない。互いの過去や傷を知り、それでも同じ場所に留まり続ける彼らの結びつきは、ひとつの家族にも似ていた。
夏油は卓の近くに腰を落ち着け、その傍らには
少し離れたソファにはラルゥが座り、開いた本へ静かに視線を落としていた。部屋の空いた場所では、
何も知らない者がこの光景を目にしたなら、想像すらしないだろう。
彼らが今まさに、日本全土を揺るがしかねない大規模なテロを企てている者たちであるとは。
部屋には柔らかな陽光が差し込み、淹れたばかりの茶や珈琲の香りが、取り留めのない会話とともに穏やかに漂っていた。誰かが冗談を口にすれば、別の誰かが呆れたように言葉を返し、そのやり取りに小さな笑いが起こる。
その姿だけを見れば、そこにあるのは、ごくありふれた団欒にすぎない。
この部屋を満たす温かな空気は、彼らがただ冷酷なテロリストとしてのみ存在しているのではないことを示していた。彼らもまた、誰かを案じ、親愛を抱き、心を許した場所に安らぎを覚える人間なのだと、その何気ない振る舞いが何より雄弁に物語っている。
社会から見れば、彼らは疑いようもなく危険な集団である。
やがて百鬼夜行へと向かい、多くの人間を恐怖に陥れる者たちでもある。
それでも、この部屋の内側には、誰かが誰かの帰りを待ち、他愛のない口論を受け入れ、投げかけられた笑いに笑いを返すだけの温度があった。
それは彼らの罪を軽くするものではない。だが同時に、彼らをただ一つの言葉だけで括ることもまた、容易ではなかった。
談笑の最中、美々子がふと窓辺へ目を向ける。
そこに、黒いミサンガが置かれていた。
「夏油様、アレは何?」
美々子の声に、会話がわずかに途切れる。
いつからそこにあったのかは分からない。気がつけば置かれていたようにも思えるし、今まで誰も気に留めていなかっただけで、初めからそこにあったのかもしれなかった。
陽を受けた黒い糸は、飾り気のない簡素な形をしている。だが、ただの編み紐と呼ぶには、どこか妙な存在感があった。
菜々子が席を立ち、窓辺へと歩み寄る。手を伸ばし、黒いミサンガを慎重につまみ上げた。
ほんの僅かではあるが、そこから呪力が感じられる。強いものではない。
注意して探らなければ見落としてしまいそうなほど微かな気配だったが、確かにただの品ではなかった。
「あぁ、それか」
夏油の声には、驚きよりも納得に近い響きがあった。
菜々子は黒いミサンガを持って夏油のもとへ戻り、それを差し出す。
「ありがとう」
夏油はそう言って受け取ると、ミサンガを手のひらに乗せた。
黒い糸の編み目を確かめるように、指先でゆっくりと撫でる。その仕草には、懐かしい品へ触れる者の慎重さがあった。
それから、しばらくミサンガを見つめたまま、静かに語り始める。
「昔、少し考えたものだよ」
窓の外では、風に押された雲がゆっくりと流れていく。
それまで部屋へ差し込んでいた日差しが雲に遮られ、室内の明るさが一瞬だけ薄れた。
誰かが大きく反応したわけではない。だが、部屋にあった会話の流れは自然と止まっていた。
ミゲルがコーヒーカップを卓上へ置く。
ラルゥは読んでいた本から視線を上げる。
そのほかの者たちも、はっきりと夏油へ顔を向けることこそしなかったが、耳だけは彼の言葉へ傾けているようだった。
夏油は黒いミサンガを眺めていた。
何かを口にしかけては、わずかに唇を閉じる。
普段なら迷わず言葉にするはずの彼が、珍しく慎重に語るべき言葉を選んでいるように見えた。
「……でも、結局は失敗してしまったんだ」
その声音は穏やかだった。
夏油は普段、計画や目的について語るとき、どこか冷たい影を帯びることがある。声を荒らげるわけでも、露骨に怒りを示すわけでもない。それでも、彼が歩んできた道の険しさや、決して覆ることのない意志が、言葉の端々に滲むのだ。
だが、この黒いミサンガについて話すときだけは、少し違っていた。
その場にいた誰もが、夏油の言葉の内側に、微かな明るさを感じ取っていた。
どこか懐かしむような響き。
過ぎ去ったものを惜しみながらも、否定しきれずにいるような優しさ。
それは彼が普段見せる笑顔とも、信徒へ向ける穏やかな態度とも、わずかに異なるものだった。
その変化が、美々子の興味を引いた。
夏油は、この話について語りたいようにも見える。
一方で、これ以上は口にせず、胸の内へしまい直したいようにも見えた。
このまま誰も尋ねなければ、夏油はきっと話を切り上げるだろう。
やがて別の誰かが別の話題を口にし、部屋には再び先ほどまでと同じ会話が戻る。夏油もまた、それに応じて笑うに違いない。
そうして彼らは別のことを話し、別の話を聞く。
黒いミサンガについて交わされた短い言葉も、そのうち昼下がりの雑談の中へ紛れていく。
けれど、美々子には、それをそのまま見過ごすことができなかった。
夏油の言葉の中に僅かに宿った温かさが、彼女をその先へと踏み込ませる。
「失敗?」
短い問いを差し入れる。夏油はすぐには答えなかった。
やや長く息を吸い、静かに目を閉じる。
沈黙が落ちる。それは少し長い沈黙だった。
しかし、冷たさや拒絶を感じさせるものではない。
忘れていた記憶を探しているというよりも、これから語る自分自身の過去を、ひとつずつ丁寧に振り返っているような時間だった。
手のひらに載せたミサンガへ意識を向けながら、その頃の自分が抱いていた願いと、それを失うまでの道のりを、胸の内で確かめているのかもしれない。
各々のことをしていた周囲の者たちも、いつの間にか夏油の言葉を待っていた。
美々子も、菜々子も。ミゲルも、ラルゥも、菅田も、根木も。
誰も続きを急かさない。
ただ、夏油が再び口を開く瞬間を静かに待っている。
夏油自身も、そのことに気づいていたのだろう。あるいは、ようやく考えがまとまったのか。
やがて彼は目を開き、手のひらの黒いミサンガを見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「私はね、この苦難の旅がまだ始まる前、真剣にこの世界から呪いを無くし、呪いを弔う──」
そこで一度、言葉を区切る。
「──