宿儺の奥の手「
東堂の助けもあり、虎杖の手が、ついに宿儺の心臓へ届く。
だが、その一方で宿儺もまた、焼き切れた術式を取り戻し、領域を展開しようとしていた。
勝敗を分ける、まさにその瞬間だった。
巻き上がる砂塵の向こうから、一つの人影が姿を現す。
それはかつて、宿儺が自らの手で葬ったはずの亡霊―
―五条悟の影だった。
その額に刻まれた縫い目を認めた瞬間、宿儺の表情が変わる。
宿儺は自らの心臓へ掴みかかっていた虎杖を殴り飛ばすと、五条悟――否、その肉体を操る乙骨憂太へと向き直った。
「そこまでできる奴とは思わなんだ!
◆◆◆
しばらく前。
家入と真依は、五条悟の遺体の修復を終えていた。
その場へ、宿儺の放った
斬撃を正面から受けた乙骨の身体は、胴の辺りから完全に両断されていた。剖検台の上には止めどなく血が溢れ、床を濡らしていく。
瞬間、激しかった出血が目に見えて緩やかになる。
しかし、それは死を遠ざけたのではない。ただ、乙骨の状態がこれ以上悪化するのを一時的に食い止めたに過ぎなかった。乙骨自身の意識も、リカの力によって辛うじて繋ぎ留められているだけだった。
「俺の術式で、これ以上は悪化しません。ですが……」
新田はその先を口にできず、押し黙った。
彼の術式は、触れた対象の状態を固定するものだった。負傷者へ用いれば、傷がそれ以上悪化することを防げる。しかし、既に生じた損傷を治療できるわけではない。
(これはもう……俺の術式はもちろん、乙骨さんの反転術式のキャパを超えている)
真依は乙骨の傍らへ寄り、その状態を慎重に確認した。新田の術式によって傷の進行が止められている今なら、僅かながら状況を見極める時間がある。
真依はこれまでにも、他者の身体に対して状態の「再現」を試みた経験があった。だが、これほどまでに損傷した肉体を対象としたことは、一度としてない。
「時間をかければ、あるいは……」
真依が呟く。
だが、その言葉を聞いた乙骨は、かすかに首を横へ振った。
「……時間なんて、ありません」
息をするだけでも激痛が走っているはずだった。それでも乙骨は、途切れそうになる意識を繋ぎながら言葉を続ける。
「時間をかければ、宿儺は反転術式も領域も取り戻す。そうなったら……僕が完全に回復できたとしても、勝ち目はなくなります」
誰も反論できなかった。
今、彼らに残されているのは、確実な治療を待つ時間ではない。成功する保証のない賭けに、全てを投じるための僅かな猶予だけだった。
乙骨は決意を固める、いや、とうに固めていた。
「家入さん。やります」
一呼吸置いて、はっきりと言い切る。
「というより、やるしかありません」
計画どおり、羂索の術式を用いて乙骨の意識を五条悟の肉体へ移す。
家入は修復を終えた五条の遺体へ視線を向け、低い声で告げた。
「五条の身体は、既に可能な限り修復してある。移動したら、すぐに反転術式を全開にしろ。内側から肉体を仕上げるんだ。真依と甘井は、その補助に回れ」
成功する保証はない。
たとえ成功しても、その先に何が待つのかは誰にも分からない。
◆◆◆
轟音とともに爆発が起こり、領域が弾け飛ぶ音が戦場へ響き渡った。
宿儺と乙骨、両者の領域展開は、乙骨が領域内部で
崩れ落ちる結界の中心で、宿儺は全身に刻まれた損傷を確かめる。
(やってくれたな……!)
乙骨の放った虚式「茈」は、宿儺を確かに捉えていた。その威力は凄まじく、宿儺の肉体に無視できない損傷を与えている。
だが。
(ただでさえ不慣れな術式。その奥義である「茈」を、領域の内部で放ったか)
口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
(結果、自らの領域結界まで破壊してしまったな!)
領域展開を終えた直後、宿儺の術式は焼き切れ、発動が困難な状態に陥っていた。
しかし、それは乙骨も同様だった。
領域結界が崩壊したことで、乙骨の焼き切れた術式――羂索から模倣した肉体を渡る術式も停止する。五条悟の身体を制御できなくなった乙骨は、その場へ力なく倒れ込んだ。
「乙骨!」
倒れた乙骨へ、東堂の意識が一瞬だけ向く。
宿儺は、その一瞬を見逃さなかった。
拳と呪力が、寸分の狂いなく重なる。
――「
宿儺の一撃が東堂を捉え、その身体を大きく吹き飛ばした。同時に、左腕へ装着されたビブラスラップが衝撃を受け、激しく損傷する。
だが、完全には壊れていない。
東堂の術式「不義遊戯」は、まだ死んではいなかった。
そして戦場には、もう一つ異様な現象が残されている。
崩壊したはずの領域結界。その破片が消失することなく、無数の欠片となって宙を漂っている。
乙骨が倒れた後も、領域の外殻だけは維持されていた。
身体の制御を失いつつも乙骨が残した、置き土産。
空間を満たす結界の破片は、東堂の「
東堂は損傷したビブラスラップを持ち上げると、それを自らの頭へ叩きつけた。
――カァーン。
澄んだ音が響き渡る。
虎杖の身体は、宙を舞う結界の破片と目まぐるしく入れ替わりながら、宿儺との距離を一息に詰めていく。
一度。二度。三度。
四度。五度。六度。
七度。八度。九度。
位置を予測する暇すら与えぬ連続転移の末、虎杖は宿儺の懐へ潜り込んだ。
虎杖の掌が宿儺の脇腹に触れる。
それと同時に、虎杖は術式対象を「
魂と魂を繋ぎ留めていた境界が、大きく揺らぐ。
宿儺は堪えきれず、自ら取り込んでいた指を吐き出した。
(これを喰らい続ければ、俺はこの肉体を維持できずに敗れる……!)
吐き出した指を、宿儺は即座に掴み取る。そのまま再び飲み込むと、間髪入れず虎杖を殴り飛ばした。
(だが、喰らわなければどうということはない)
術式が戻るまで耐え続ければいい。
焼き切れた術式が回復するまでの持久戦へ持ち込めば、勝利は揺るがない。宿儺はそう判断した。
再び、ビブラスラップが打ち鳴らされる。
宿儺は虎杖、東堂、そして自身の位置関係を瞬時に把握する。
入れ替えは――ない。
(いや)
宿儺は新たに現れた二つの呪力を感知した。
一つは上空。
もう一つは後方。
どちらも、先ほどまで戦場には存在しなかったものだ。
(上は天使。後ろは、構築術式の女か……!)
宿儺は瞬時に脅威度を比較する。
より危険なのは、あらゆる術式を消滅させる「邪去侮の梯子」を持つ天使だった。
最優先で排除する。
そう判断した宿儺は、意識を上空へ向け、天使の姿を捉えようと顔を上げる。
──致命的なミス。
乾いた銃声が響く。
一発の銃弾が、宿儺の心臓を正確に撃ち抜いた。
引き金を引いたのは、禪院真依だった。
宿儺の意識が天使へ向けられてから、真依が射撃するまでの時間は一瞬にも満たない。術式を発動する必要がある天使の攻撃より、既に構えを終えていた真依の射撃の方が、攻撃の初動において遥かに速かった。
禪院家での戦いを経てから、真依は自身の射撃に存在する弱点を一つずつ洗い出し、それを潰すために鍛錬を重ねてきた。特に磨いたのは、狙いを定めてから引き金を引くまでの時間を極限まで削る「早撃ち」の技術だった。
本来であれば、宿儺は先に真依の狙撃へ対処するべきだった。
だが、五条悟の「
そこへ東堂の「不義遊戯」が加わり、瞬間ごとに戦場の配置が変化する状況で、宿儺は絶えず咄嗟の判断を強いられていた。
その積み重ねが、僅かな判断の遅れを生んだ。
そして真依は、その一瞬を撃ち抜いた。
心臓を破壊された宿儺は、即死を免れるため、呪力によって無理やり心臓を動かす。
だが、反転術式の出力を完全には取り戻せていない今、心臓の損傷は決して無視できない負担だった。呪力によって生命活動を維持しながら、同時に治療を続けなければならない。
それこそが、真依の狙いだった。
連戦によって呪力を消耗し、脳に損傷を抱え、さらに心臓さえ満足に機能しなくなった宿儺。
その頭上へ、万全の天使が放つ最大出力の「
◆◆◆
決戦前。
伏黒の肉体へ受肉した直後の宿儺に撃墜された
そこへ乙骨が訪れる。
「申し訳ないけど、最後には天使と来栖さんに頼ることになるかもしれません」
乙骨の言葉を聞き、来栖の顔に驚きが浮かんだ。
乙骨は二人の反応を見ながら、慎重に言葉を続ける。
「直接、戦闘に参加してもらう必要はありません。僕たちで宿儺を追い詰め、宿儺と伏黒くんの魂を切り離す。その最後の隙に、『邪去侮』を撃ってほしいんです」
「――こちらこそ申し訳ないが」
来栖の内側から、天使が答える。
「今の私たちが放つ『邪去侮』では、十分な威力を発揮できない」
乙骨は僅かに眉を寄せた。
天使は淡々と続ける。
「受肉直後の宿儺であれば、まだ有効だっただろう。しかし、万全に近い状態の宿儺へ、現在の私たちが『邪去侮』を放ったところで、決定的な打撃にはならない」
天使と共存する来栖は、宿儺との戦いで右腕を失っていた。
その影響によって術式の出力上限が大きく低下し、以前と同じ威力を引き出すことができなくなっていたのだ。
室内に、重い沈黙が落ちる。
乙骨にとっても、成功を確信して持ちかけた策ではなかった。だが、最後の切り札となり得る「邪去侮の梯子」が十分な威力を出せないという事実は、想定していた以上に重かった。
「腕のことなら、治せるかもしれないわよ」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、真依が部屋の入り口に立っていた。
「もちろん、他人を相手に試したことはないから、成功するとは言い切れないけれど」
真依は来栖の失われた右腕へ視線を落とす。
「それでも、試してみる価値はあると思う。やってみてもいいかしら?」
「真依さん……!」
乙骨は真依へ向き直る。
その視線が、ふと真依の腰元の銃へ移った。
──何だよ。
この声は乙骨には届かない。真依は、ゆっくりと腰元の銃へ手を添える。
「大丈夫」
真依は静かに言う。
「私たちなら、やれるわ」
◆◆◆
自らへ降り注ぐ光を前に、宿儺は反射的に腕をかざした。
だが、光は防御のために掲げた腕ごと、宿儺の全身を焼いていく。
再生された来栖の右腕。
そこから放たれる天使の最大出力「邪去侮の梯子」は、完全に近い受肉を果たした宿儺に対しても、確かな効果を発揮していた。
(いくら「
光を浴び続けるたび、伏黒の魂が肉体の奥底から少しずつ呼び起こされていく。
宿儺には、それが明確に感じ取れていた。
このまま術式を受け続ければ、宿儺と伏黒の魂を隔てる境界はさらに弱まり、やがて肉体の支配そのものが揺らぎかねない。いや、既に揺らぎ始めている。
宿儺は道路を殴る。砕いた瓦礫を掴むと、上空の天使へ向けて投げ飛ばしていく。
飛来する瓦礫を、来栖は左右へ身体を動かして避ける。
だが、瓦礫が視界を横切った直後、その向こうにいたはずの宿儺の姿が消えていた。
否。
宿儺は、投げ飛ばした瓦礫を足場として伝い、上空の天使へ接近していた。
投じた瓦礫は光を遮る盾であると同時に、天使へ至るための道でもあったのだ。
「邪去侮の梯子」は、宿儺にとって間違いなく脅威だった。
浴び続ければ、宿儺は術式ごと肉体から引き剥がされ、消滅を免れない。
しかし、あらゆる術式を消滅させる光の柱は、外部から放たれる術式攻撃さえ寄せ付けない。その性質は、術者である天使を守る防壁としても機能していた。
ならば、その光の柱そのものを駆け上がればいい。
そうすれば外部からの術式に妨害されることなく、天使へ到達できる。
――いや。
宿儺は、寸前で一つの可能性へ思い至る。
直後、乾いた銃声が響いた。
宿儺は即座に瓦礫の陰へ身体を滑り込ませ、飛来した銃弾を防ごうとする。
しかし、弾丸は盾にした瓦礫を容易く貫通した。
宿儺は身を捻って弾道を逸らしたものの、完全には避けきれない。銃弾が肉体を掠め、皮膚と肉を抉っていく。
(構築術式によって一度生み出された物質は、術式の効力を失った後も物質として残り続ける)
宿儺は術式を思い返す。
(ならば、術式を消滅させるこの光の中にも届くということか)
それでも宿儺は止まらない。
銃撃を警戒しながら光の柱を駆け上がり、ついに天使の眼前へ到達する。
天使は来栖華と共存しているだけで、完全に受肉しているわけではない。そのため肉体そのものの強度は高くなく、宿儺の動きを目で追うことさえ困難だった。
結果として、天使と来栖は宿儺の接近を許してしまう。
宿儺の拳へ呪力が集中する。
――「黒閃」!
だが、拳が来栖を捉える寸前、その間へ一人の男が割って入った。
東堂葵だった。
宿儺の拳は東堂を直撃し、その背後にいる来栖の身体ごと吹き飛ばす。
天使へのとどめは、僅かに届かなかった。
(この男は、つくづく呪術師だな!)
宿儺は内心で称賛する。
東堂も来栖も地上へ叩き落とされ、そのまま起き上がる気配はない。少なくとも、すぐに戦闘へ復帰できる状態ではなかった。
(天使の息の根はあとで止めればいい。残るは小僧と、構築術式の女……!)
そう判断した、その直後。
宿儺の背後で、呪力が揺らいだ。
振り返るより早く、虎杖が光の柱の中から飛び出してくる。
(光の中を、焼かれながら追ってきたのか!)
虎杖の拳が宿儺を捉える。
さらに虎杖はその勢いを殺さず、宿儺の脚を掴むと、全身の力を使って地上へ投げ落とした。
宿儺の身体が凄まじい勢いで地面へ叩きつけられ、瓦礫と砂塵が爆発するように舞い上がる。
やがて煙が晴れる。
その中心から立ち上がった宿儺の身体には、失われていた四本の腕が揃っていた。
二度の「黒閃」を経て、呪いの王は反転術式の出力を取り戻していたのだ。
残る問題は、焼き切れた術式だけだった。
(脳を自ら破壊し、反転術式で再生することで、焼き切れた術式を強引に回復させる方法はある)
五条悟が取ったリスクある方法。だが、宿儺はそれを急ぐ必要はないと判断した。
四本の腕と反転術式を取り戻したことで、戦況には再び余裕が生まれている。
迫る虎杖の拳を腕の一つで受け止め、別の腕で軌道を逸らし、魂の境界へ撃ち込まれる「解」から身体を引く。
宿儺は虎杖の攻撃をいなしながら、僅かずつ距離を広げていった。
(この状態ならば、領域によって焼き切れた術式が自然に回復するまで、小僧の手が俺の命へ届くことはない!)
虎杖はなおも、術式の対象を「宿儺と伏黒恵の魂の境界」へ限定した「解」を放ち続ける。
だが、四本の腕を取り戻し、損傷した心臓の修復まで終えた宿儺は、虎杖の拳も斬撃も容易く捌いていく。
そこへ、再び銃声が響く。真依による援護射撃だった。
銃弾は宿儺の退路を塞ぎ、虎杖の攻撃へ誘導するように撃ち込まれる。
やがて真依自身も虎杖と並び、前線へ踏み込んだ。
遠距離から狙撃を続けるだけでは、確実に射線を通すことはできない。宿儺の動きを止め、虎杖の攻撃を届かせるためには、自らも危険な間合いへ入る必要がある。
ここを逃せば、もう勝機はない。
真依はそう判断していた。
宿儺は、虎杖と並び立つ真依へ視線を向ける。
かつて虎杖の内側から見た時と比べ、その呪力は量も質も大きく変化していた。
そして宿儺は、真依が手にしている呪具のリボルバーを見る。
ただの銃ではない。
その内側に残る気配――そこに宿る魂の存在へ気づいた瞬間、宿儺の口元に愉悦の笑みが浮かんだ。
「そうか」
宿儺は真依を見据え、嘲るように言った。
「お前も