宿儺は穿たれた脇腹を片手で押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
指の隙間から血が滴り落ちる。
止血するどころか、傷口は時間の経過とともに僅かずつ広がっていた。肉の裂け目が内側から押し開かれるように深まり、溢れ出す血の量も増している。
宿儺は攻撃の手を緩めずに迫ってくる虎杖を見据えたまま、自らの肉体と呪力の状態を探った。
――ただの傷ではない。
傷口そのものからは、術式が残した呪力も、外部から加えられ続けている呪いも感じられない。にもかかわらず、反転術式による治癒が成立しない。
正のエネルギーを流し込んで肉体を再生しようとするほど、傷は逆に深くなっていく。
――悪化していく、治癒不能の傷か……!!
宿儺の脳裏に、傷を負った瞬間の光景が蘇る。
銃痕の奥に残されていた弾丸。
過去に通った軌跡を逆向きに進み、背後から自らの脇腹を貫いた一発。
――逆行するのは、弾丸だけではない。
時間が経つほどに
通常の方法では治せない。
術式が完全に戻れば、「
だが、それまではこの傷を抱えたまま戦わなければならない。
宿儺の視線が、虎杖の背後に立つ真依へ向く。
ただでさえ無視できない速度と威力を持つ銃撃。
そこへ、通常の反転術式では治癒できない傷を与える手段が加わった。
そして何よりも危険なのは、禪院真依という術師そのものだった。
戦いの最中に術式への理解を深め、解釈を拡張し、ついには
宿儺は、傷を押さえていた手をゆっくりと離した。
「ともすれば――」
血に濡れた指を眺めながら、口元を歪める。
「呪いの女王とは、お前だったかもしれないな」
それは、宿儺が術師へ向ける最大級の賛辞だった。
同時に、これ以上生かしてはおけないと認めたことを意味する、最大級の敵意と殺意でもある。
宿儺から放たれる呪力の質が変わった。
ただ膨れ上がったのではない。
それまで戦いを愉しむように揺らいでいた呪力が、明確な殺意のもとに研ぎ澄まされ、冷たく凝縮されていく。
虎杖と真依も、その変化を即座に感じ取った。
――術式が戻るまで時間を稼ぐつもりだったが。
宿儺は低く腰を落とし、迫る虎杖へ正面から向き直る。
――悠長だったのは、俺のほうだったかもしれないな。
自然な回復を待つべきではない。
今、この場で術式を取り戻す。
そのためならば、自らの肉を切らせることも、脳を傷つけることも厭わない。
カチン。
真依が引き金を引く音が響いた。
空撃ちに合わせ、虎杖の呪力操作が、気温が、温度が、空間が、黒閃を放った瞬間へ近づいていく。
虎杖は踏み込み、拳を振り抜いた。が、宿儺は迫る拳を見ても動かない。
躱さない。
虎杖の黒閃を、あえて受ける。
その代わりに、自らの一撃も同時に叩き込む。
両者の拳が、それぞれの身体を捉えた瞬間、二つの空間がほぼ同時に黒く歪んだ。
――「黒閃」!!
――「黒閃」!!
黒い閃光が交錯する。
虎杖の拳が宿儺の顔面を打ち抜き、宿儺の拳が虎杖の胴体へ深く突き刺さった。
虎杖は地面から足を浮かせ、弾かれたように後方へ吹き飛ぶ。宿儺もまた大きく仰け反り、数歩たたらを踏んだ。
虎杖の黒閃は、宿儺の肉体に沈められた伏黒恵の魂を再び浮上させる。肉体と魂の境界が揺さぶられ、宿儺の支配は確実に削られていく。
だが、その影響を上回るほどの
黒閃により、低下していた呪力出力が引き上げられる。
研ぎ澄まされた感覚により、反転術式の出力と精度をより取り戻す。
――あとは。
術式を取り戻すだけだ。
それは賭けだった。
五条悟の「無量空処」によって受けた損傷が、今なお宿儺の脳には残っている。その状態で、術式が刻まれた脳の一部を意図的に破壊し、反転術式によって再生する。
焼き切れた術式を強引に回復させる荒業。
脳へ蓄積した負担は無視できない域へ達している。失敗すれば、術式を取り戻すどころか、反転術式の使用そのものが困難になる可能性すらあった。
それでも宿儺は、迷うことなく実行した。
脳の一部を自ら破壊し、即座に反転術式を巡らせる。
四つの眼から、一斉に血が流れた。
視界が歪み、平衡感覚が揺らぐ。
それでも──
──失われていた術式の感覚が戻ってくる。
宿儺は脇腹へ手を添えた。
「
不可視の斬撃が自らの肉体へ走る。
逆行の影響を受けていた傷口と、その周囲の肉、損傷した臓腑がまとめて切り落とされた。脇腹が大きく抉れ、堰を切ったように血が噴き出す。
真依は、その斬撃を見て息を呑んだ。
――術式を取り戻した……!
吹き飛ばされた虎杖も、地面を転がりながら宿儺の異変を察する。
――けど、たぶん五条先生と同じ方法だ。脳を壊して術式を戻す、危険なやり方……!
宿儺は失った脇腹へ反転術式を集中させる。
逆行する傷を、その影響が及ぶ肉体ごと除去したことで、今度は治癒を妨げるものがない。骨が組み上がり、臓腑が形を取り戻し、その外側を筋肉と皮膚が覆っていく。
大量に失った血液さえ、相応の呪力を代償に反転術式によって補われる。
数瞬のうちに、宿儺の肉体は再生した。
傷はない。
術式の出力にも、目立った低下は見られなかった。
そして――。
「
宿儺は、こちらへ銃口を向けていた真依へ二本の指を突きつけた。
不可視の斬撃が走る。
真依が引き金を引くより早く、その右腕が、握っていた呪具「真希」ごと切り払われた。
腕が宙を舞い、遅れて血が噴き出す。
今回は間違えない。
真依の攻撃は、発動してからでは遅い。弾丸の軌道が読めたとしても、「
ならば、撃たれる前に攻撃の芽を摘む。
銃を失わせ、術式を発動する余地ごと奪う。
その後で領域を展開し、虎杖も真依も、周囲にいる者すべてを斬り刻む。
宿儺は両手を胸元へ運び、掌印を結ぼうとした。
「領域――」
そのとき。
宿儺の四つの眼は、腕を失いながらも、なお立ち続ける真依の姿を捉えた。
真依は怯まず、切断された右腕を押さえることもせず、残された左腕を宿儺へ向けている。
伸ばされた人差し指と中指。二本の指が、宿儺の額へ向けられていた。
それは、宿儺が「解」を放つ際の構えにも見えた。
あるいは、手で模した銃を構えているようにも。
真依の唇が動く。
「
「
「
「
その手から放たれるのは、真依の生得術式「構築術式」。
──その
「
呪いの王の頭部が弾け飛んだ。
右側の顔面が、内側から破裂したかのように消し飛ぶ。二つの眼が失われ、砕かれた頭蓋と脳の一部が血とともに飛散した。
宿儺はたまらずよろめき、大きく後退する。視界の右半分が消え、平衡感覚が激しく乱れた。
思考が一瞬途切れ、結びかけていた掌印が崩れる。
宿儺は反射的に反転術式を全開にした。
吹き飛ばされた頭蓋を補い、損傷した脳を再生し、失われた眼球を作り直そうとする。
だが、先ほど自ら脳を破壊して術式を回復させた直後である。そこへ再び頭部へ甚大な損傷を受けたことで、反転術式の制御は明らかに不安定になっていた。
吐き気を押し殺しながら、宿儺は無事な左側の二つの眼で真依を睨みつける。
――こいつ……!!
偶然ではない。
真依は、この戦いで目にしたものを理解し、その場で自らの術式へ応用した。
反転術式と構築術式を組み合わせた自己治癒。
「再現」による黒閃の補助。
時間を逆行させる「
そして、構築術式を反転させ、対象を破壊する「壊」。
呪術に関する、天性の才。
本人の望みとは無関係に呪いから愛され、同時に呪いそのものに人生を歪められた術師。
術式にも恵まれず、皆に虐げられ、居場所などなく、
臓腑に蠢く呪詛を抱えつつ、道を何度踏み外しても、他者と共にあろうとし、呪いの核心に迫ろうとしている。
──それは自分の、選ばなかった姿のようで。
「分かっているのか!?」
──否定せねば
「オマエの存在自体が、俺を否定している!!」
──否定せねば、自己を肯定できない。
頭部の治療も不十分なまま、宿儺は強引に両手を組み、掌印を結んだ。
「領域展開……!!」
宿儺を中心に、膨大な呪力が吹き荒れる。
大気が震え、地面が軋み、血と瓦礫が渦を巻いて舞い上がった。
その背後に、異形の御堂が顕現する。
伏魔御厨子。
領域が完成し、必中の斬撃が戦場を覆い尽くす――はずだった。
しかし。
顕現した御堂に亀裂が走る。
次の瞬間、構築されかけた領域が内側から弾け飛んだ。
五条悟から受けた「無量空処」による脳への損傷。
焼き切れた術式を取り戻すため、幾度も脳を破壊しては再生した負荷。
そして、真依の「
それらすべてが重なり、宿儺の脳は領域を成立させられる状態ではなくなっていた。
伏魔御厨子は完成することなく、禍々しい泥となり消滅する。
その瞬間。
頭部の右側を失い、視界に死角が生じていた宿儺へ、虎杖が踏み込む。
宿儺が気配を捉えたときには、既に虎杖の拳が目前まで迫っていた。
真依の空撃ちはない。「再現」による補助はない。
虎杖自身で掴んだ、呪いの核心。
黒い閃光が、戦場を切り裂いた。
――「黒閃」!!
虎杖の拳が宿儺の死角から顔面を捉えた。
宿儺の身体が地面から浮き、大きく吹き飛ばされる。
その宿儺の耳へ、一つの声が届いた。
静かでありながら、確かな意志を宿した声。
「――領域展開」
領域の内部で発動された術式は、必中となる。
廻り続けた呪いに――決着がついた。