2018年11月12日
おそらく真希は、伏黒に当主の座を引き受けるよう頼み、そのうえで禪院家の
そして今、
五条悟を渋谷事変の共犯者として
真希にも、それくらいは分かっているだろう。
分かっていながら、それでも進む。危険だと知っていようが、誰に止められようが、自分が正しいと決めた方へ突き進む。真希とは、そういう人間だ。
連絡先さえ知っていれば、と真依は思う。
今まで必要ないと考えていたことが、急に悔やまれた。こんなことになるのなら、聞いておけばよかった。一言でも話すことができたなら、禪院家へ戻る前に止められたかもしれない。
嫌な予感が、胸の奥に重く沈んでいる。
止めなければならない。このままでは、きっとよくないことが起きる。
けれど、真希を止めに行くということは、真依自身も禪院家へ戻るということだった。真依にとって、あの家は決して安全な場所ではない。まして今は家中の権力が揺らぎ、誰が敵に回ってもおかしくない状況にある。
それを、
出ていこうとする真依の前に立ち、西宮はその行く手を遮った。
「危険なのは真依ちゃんもでしょ!」
真依の動きが止まったのは、臆したからではない。西宮の言葉が、否定できないほど正しかったからだ。
危険なのは真希だけではなく、自分もまた禪院家にとって都合の悪い立場に置かれている。その危険に対して、自分にはどれだけ抗う力があるのかと考えたとき、真依の意識は腰に下げたリボルバーへ向いた。
構築術式で一日に作り出せる弾丸は、たった一発。銃の腕には自信があるが、それでも禪院家で待ち受けているかもしれない相手に、銃とわずかな弾だけで通用するとは思えなかった。
「それでも、アイツは行くわ」
真依は西宮を見た。
「何を言ったって、真希は止まらない。だったら私が行くしかないでしょ」
「だからって、真依ちゃんまで危ないところに行く必要ないじゃん!」
「あるのよ」
「ない!」
「ある!」
声がぶつかり合う。
西宮は真依を守ろうとしている。そのことが分かっているからこそ、真依も強く言い返さなければならなかった。ここで少しでも迷えば、禪院家へ向かう足が動かなくなる。
別に、禪院家へ戻りたいわけではない。真希のために命を懸けたいなどと、殊勝なことを考えているわけでもなかった。
ただ、放っておくことができない。
真希が何をしようとしているのかを理解してしまった以上、何も知らなかったふりはできなかった。
「私が行かなくても、真希は一人で行くのよ。一人で行かせる方が、よっぽど危ないでしょ」
真依が低い声で言うと、西宮は唇を噛み、しばらく真依を睨んでいた。その目に浮かんでいるのは怒りではなく、隠しようのない心配だった。
やがて、西宮は諦めたように息を吐く。
「……戻るのが遅かったら、探しに行くから」
「来なくていいわよ」
「行くから」
有無を言わせぬ口調だった。
真依は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑った。
「桃、ありがとう」
支度を整えた真依は、真希を止めるため、禪院本家へ向かった。
◆◆◆
禪院家 入口
禪院家へ続く道の途中で、真依はしばらく真希を待っていた。しかし、いくら待っても、その姿は現れない。
塀の向こうには、見慣れた屋敷の屋根が並んでいる。生まれ育った家であるはずなのに、帰ってきたという感覚はなかった。むしろ、自分を呑み込もうと口を開けて待つ、巨大な生き物の前に立っているようだった。
(思い過ごしかしら。アイツなら、絶対に忌庫へ向かうと思ったけど)
待っていれば途中で捕まえられると思っていた。家の中へ入る前なら、まだ引き返させることができるかもしれない。
けれど、どれだけ待っても真希は現れなかった。
(それとも、一足遅かった……?)
胸の奥に沈んでいた嫌な予感が、次第にはっきりとした輪郭を帯びていく。
すでに真希は屋敷へ入り、忌庫へ向かっている。そう考えるべきだと判断し、真依は待つことをやめて禪院家の門をくぐった。
家の中へ踏み込む足は、自然と重くなる。
見慣れているはずの柱、何度も歩いたことのある廊下、幼い頃から目にしてきた庭。そのどれひとつとして、真依を迎え入れてはいなかった。家であるはずなのに、ここは自分が帰る場所ではないのだと、歩みを進めるほど思い知らされる。
屋敷の中は妙に静かだった。
人の気配がないわけではない。それでも、真依の前に姿を現す者はおらず、遠くから監視されているような、肌にまとわりつく視線だけがあった。
長い廊下を進んだ先に、忌庫へ通じる扉が見えた。
扉は開いている。
真依は足を止めた。本来なら、許可なく開けられているはずのない扉であり、その内側からは冷たい空気が廊下まで流れ出していた。
やはり、真希はここへ来たのだ。
真依は腰元のリボルバーを確かめてから、慎重に扉を抜けた。
その先に、父――禪院
「……っ!」
息を呑む。
「なんで……」
扇の姿を見たからではない。その足元から少し離れた床に、真希が倒れていたからだ。
「真希!」
真依は反射的に駆け寄ろうとしたが、扇が立つ位置を見て足を止めた。扇は、真依と真希の間を遮るように立っている。
倒れた真希から返事はない。
呼吸はある。だが、全身から血を流し、起き上がることもできない状態だった。真希の指先だけが、床を掻くようにわずかに動いている。
意識はある。それでも、声を発することすらできない。
「私は伏黒恵を当主として認めていない」
扇は、倒れている真希を見ようともせずに言った。その声には怒りも迷いもなく、すでに決定した処分を読み上げているかのような冷たさがあった。
「ゆえに、その権利を騙って忌庫を開き、呪具を持ち出すなど言語道断」
真依は扇を睨む。
何を言っているのかは理解できる。だが、理解したくはなかった。
「渋谷事変を夏油傑と共謀して企てた五条悟。ならびに、五条悟の解放を企て、禪院家を乗っ取ろうとする謀反者――伏黒恵、真希、真依」
扇の手が、刀の柄へ添えられる。
「オマエたちを誅殺する」
真依は無意識のうちに腰を落としていた。
逃げるべきか。銃を抜くべきか。真希のもとへ駆け寄るべきか。いくつもの選択肢が頭に浮かんだが、そのどれを選んでも、目の前の男が許すとは思えなかった。
「私が前当主に選ばれなかったのは、オマエたちのせいだ」
扇の視線が、初めて真依へ向いた。
その目には、娘を見る父親の感情など残っていなかった。いや、そんなもの初めから無かったのかもしれない。
あるのは、長年抱え続けてきた侮蔑と憎悪だけだった。
「子が親の足を引くなど、あってはならない」
その言葉を聞いた瞬間、真依の中で何かが冷えた。
自分たちが弱かったから。自分たちが、扇の望むような術師ではなかったから。だから扇は当主になれず、だから自分たちは殺されなければならない。
扇は、そんな理屈が当然のようにまかり通ると思っている。
真依は腰元のホルスターに手をかけた。リボルバーには、すでに弾薬が装填されている。
勝てるとは思わない。それでも、何もしなければ真希とともに殺される。
撃つしかない。
扇が動いた。
同時に、真依は銃を引き抜き、銃口を向けて引き金へ指をかける。しかし、そのときにはすでに、真依は扇の間合いの内側にいた。
秘伝「
刀身にまとわりつく呪力が、真依の動きに応じる。
呪力を込めた弾丸が装填されたリボルバーを構えるのと、扇が刀を抜くのは、ほとんど同時だった。
一閃。
乾いた金属音が響き、真依が発砲するより先にリボルバーが斬り裂かれた。切断された銃身が宙を舞うが、それを目で追う暇すらない。
扇は抜き放った刀を返し、そのまま真依の肩口から胸元へ、袈裟懸けに斬り下ろした。
熱が走る。
一瞬遅れて、焼けるような痛みが全身を貫いた。息が詰まり、声が出ない。真依の膝から力が抜け、床へ手をつこうとしたものの、腕にも力が入らず、そのまま冷たい床へ倒れ込んだ。
「銃を振り回すだけか。非術師と何ら変わりのない、出来損ない」
頭上から、扇の声が降ってくる。
傷口から流れ出した血が衣服を濡らし、床へ広がっていく。真依は息を吸おうとしたが、浅い呼吸しかできない。肺まで斬られたのかもしれなかった。
「禪院の人間とは思えん。呪力も術式も粗末な、落ちこぼれ」
違う。
真依は、薄れかけた意識の中で否定する。
非術師で、禪院の人間でなければ、こんな惨めな思いはしなかった。
自分が苦しんできたのは、弱かったからだけではない。禪院家に生まれ、術式を持ちながら期待に届かず、価値を認められるために術師として生きることを強いられてきたからだ。
「お前のようなものは、呪術師とすら呼べない。凡庸な一般人だ」
いっそ、本当に一般人だったなら。
呪いなど知らず、術式など持たず、禪院家の価値観に縛られることもなければ、こんなにも苦しい思いはしなかった。
意識が途切れかける中、それでも真依は、床に倒れた真希へ目を向けた。
自分よりも強いはずの真希が、何度傷つけられても前へ進んできた真希が、今はただ床に倒されている。
「……ま、き……」
声にはならなかった。唇が、わずかに動いただけだった。
◆◆◆
真依と真希は扇によって引きずられていく。扇は歩みを緩めず、まるで物を運ぶように二人を忌庫の奥へと引きずっていく。
連れていかれた先は、忌庫奥にある訓練場。
そこには、処分されずに飼われていた無数の
二人は、処分される餌として放り込まれるのだ。
床に叩きつけられ、真依の視界が揺れた。遠ざかっていく扇の足音が聞こえる。
扇は振り返らなかった。
「さらば、我が人生の、汚点」