呪術廻戦 喪呪路   作:四月三十日

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画竜点睛

忌庫奥・訓練場

 

 真依が、血に濡れた床へ倒れていた。

 

「なんで来たんだよ、馬鹿野郎……」

 

 真希は掠れた声で吐き捨てると、痛みに軋む身体を引きずりながら真依のそばへ寄った。

 自分の傷も決して浅くはない。だが、この程度ならまだ耐えられる。そう思えるのは、真希の身体が常人とは比較にならないほど頑丈だからだ。

 

 真依は違う。

 

 細い身体から流れた血は床にまで広がり、衣服を黒く染めている。今は気を失っているだけなのか、それとも二度と目を覚まさないのか。確かめようとして伸ばした指先が、わずかに震えた。

 周囲には、無数の呪霊の気配が蠢いていた。

 物陰からこちらを窺い、扇が完全に立ち去るのを待っている。あるいは、瀕死の二人がさらに弱り、抵抗する力さえ失う瞬間を待ち構えているのだろう。

 今ここで一斉に襲いかかられれば、果たしてどこまで抗えるか。真希一人でさえ怪しい。真依を庇いながらとなれば、なおさらだった。

 

「真依……」

 

 返事はない。

 

 真希は倒れた真依の身体を慎重に抱き寄せた。力を入れれば壊れてしまいそうなほど軽い身体と、その奥にかすかに残る温もりが腕へ伝わる。

 ふと思う。こんなにも近くに触れたのは、いつ以来だろう。窮地にもかかわらず、表情から硬さが抜けてしまう。

 

 幼い頃は、手を伸ばせばすぐ隣に真依がいた。泣くときも、眠るときも、暗い場所を歩くときも、二人は離れずにいた。それがいつからか、同じ顔を持ちながら、互いに背を向けて歩くようになっていた。

 

 真希には、真依の傷を癒やす術がない。

 反転術式(はんてんじゅつしき)は使えない。生得術式(しょうとくじゅつしき)も持たない。それどころか、呪術を成立させるために必要な呪力さえ、真希の内にはほとんど存在しなかった。

 これほどまでに、自分が呪力を持たないことを恨んだことはない。

 術式を持たずに生まれた自分を、ここまで憎んだこともなかった。

 

 どれほど身体を鍛えても、どれほど強力な呪具を扱えるようになっても、今この瞬間、真依の流す血を止めることすらできない。

 自分の強さは、最も守りたいものを前にして、あまりにも無力だった。

 

――真依に、居場所を作ってやりたかった。

 

 何の心配もせず、誰の顔色も窺わず、禪院家の名にも、術式の価値にも縛られず、自分らしく息をしていられる場所を。

 

 そのために強くなろうとした。

 そのために家を出た。

 けれど、自分が選んだ道は、本当に真依を救うためのものだったのか。

 真希が外へ進むほど、残された真依の居場所は狭くなった。真希が禪院家に逆らうほど、その報いを受けるのは真依だったのかもしれない。

 守ろうとして伸ばした手が、知らないうちに真依を追い詰めていた。

 

 私が、真依に与えられるものは――。

 

 真希は腕の中の妹を見下ろし、そして、静かに目を閉じた。

 

◆◆◆

 

 暗闇。

 

 肌を刺すような冷気。

 

 足元を浸す、冷たい水。

 

 何も見えない場所で、規則正しい音だけが遠くから届いてくる。

 

――波の音がする。

 

「……はっ」

 

 真依は息を呑み、目を開いた。

 そこは、見覚えのない浜辺だった。

 

 頭上には重い曇天が垂れ込め、灰色の海が地平線の向こうまで続いている。風はほとんどなく、穏やかな波だけが寄せては返し、濡れた砂の上に白い泡を残していた。

 身体の痛みはない。

 傷も、血の感触も消えている。

 代わりに、胸の奥へ理由の分からない不安が広がっていた。

 

 少し先に、真希が立っている。

 

 海を背にしたその姿は普段と変わらないように見えたが、どこか輪郭が薄く、曇った空と海の色へ溶けてしまいそうだった。

 

「黙って出て行って、悪かった」

 

 真希は真依を見ないまま言った。

 波の音に紛れてしまいそうな、静かな声だった。

 

「オマエに居場所を作ってやりたかった。強くなって、家を変えて……真依が安心して生きられる場所を作りたかったんだ」

 

 真依は、その言葉をすぐには理解できなかった。

 

 真希が禪院家を出た理由。

 真希が頑なに強さを求め、何度拒絶されても立ち上がり続けた理由。

 真依は、それを知らなかった。

 

――いや、本当に知らなかったのだろうか。

 

 ただ初めて言葉として聞いただけで、心のどこかでは、ずっと分かっていたのかもしれない。

 自分を置いていったのではなく、自分を捨てたのでもない。真希は、不器用なほど真っ直ぐに、自分を連れ出すための道を作ろうとしていた。

 

「でも、私が呪術師を目指したことは、真依にとって居場所を狭めるだけだったのかもしれない」

 

 真希は海へ向かって、ゆっくりと歩き始めた。

 

「それに、真依の呪術師としての道を邪魔してたのは私だった」

 

「そんなこと……!」

 

 真依は反射的に否定した。

 

 しかし、声は震え、その先の言葉が続かない。

 

 遠ざかる背中を追おうとして足を踏み出すが、濡れた砂に足を取られ、身体がよろめいた。妙に力が入らない。それでも真依は止まらず、海へ向かう真希の後を追った。

 

「そんなことない……!」

 

 京都校で築いた関係がある。

 交流会で出会った者たちがいる。

 禪院家の外へ出て、呪術師として歩く過程で、真依にもいくつもの居場所ができた。

 昔のように真希だけが世界のすべてではなくなった。誰かと話し、誰かに腹を立て、誰かと笑える場所を、真依自身も少しずつ手に入れていた。

 

 それでも、その始まりに真希がいたことは変わらない。

 

 こちらこそ、謝りたかった。

 真希が完全に強くなれないのは、自分が強さを求めていなかったからだ。自分が術式と呪力を抱えたまま、真希と同じ場所に存在していたからだ。

 

――私がいたから。

 

 言いたいことが、次々と胸の内へ押し寄せてくる。

 

 置いていかれて寂しかったこと。

 一人で決めてほしくなかったこと。

 それでも、ずっと追いかけていたこと。

 謝りたかったことも、怒りたかったことも、今さら伝えたいことも、あまりに多すぎて、どれ一つとして言葉にならなかった。

 

 真希が足を止め、振り返る。その表情は穏やかだった。

 普段のような強い眼差しでも、誰かを威圧するような険しさでもない。幼い頃、真依の手を引いて歩いていた姉の顔だった。

 

「これ、返すよ」

 

 真希は手にしていたものを差し出した。

 

「元々は真依のモンだ。どうも、間違って私が取っちまってたらしい」

 

 真依が両手で受け取ったのは、一本の葦だった。

細い茎の先で、柔らかな穂が揺れている。ただの葦にしか見えない。しかし、その内側には、微かな熱とともに真希の呪力が宿っていた。

 真依が触れた瞬間、それは懐かしいものを見つけたように、彼女の掌へ馴染んだ。

 

「流石に傷が深くてな。どうせもう保たないなら、魂が消える前に、ソイツを返しておきたい」

 

 真希は自分の胸元へ目を落とした。

 

「それは、本来なら真依が手にするはずだった呪力だ。不完全だった術式(じゅつしき)の、最後の欠片だよ」

 

 真希が持っていた、一般人と同程度の僅かな呪力。

 天与呪縛(てんよじゅばく)によって強靱な肉体を得た真希にとって、それは恩恵を完成させることを妨げる、不要な蛇足でもあった。

 双子が一人の人間として見なされる呪術の理の中で、本来は真依が持つはずだった力。その一部が、生まれ落ちたとき真希の方へと流れて行ってしまった。

 真希の中に残る呪力は、本来真希のものではなかった。

 

「本当なら、最期まで一緒にいてやりたかった」

 

 真希は再び海へ向き直った。

 足元へ波が届き、くるぶしを濡らしていく。

 

「護ってやりたかった。居場所を作ってやりたかった」

 

「真希……」

 

「私が強くなれば、全部どうにかできると思ってた」

 

 海へ一歩踏み出すたび、真希の姿は少しずつ遠ざかっていく。

 

「真希! 行かないで!」

 

 真依は叫び、手を伸ばした。

 だが、二人の間にある距離は縮まらない。走っているはずなのに、波打ち際はどこまでも続き、真希の背中だけが遠ざかっていく。

 

「また、あの頃みたいにさ」

 

 真希の声が、波の向こうから聞こえた。

 

「何も考えずに、二人で暮らせる日が来ると思ってた」

 

「真希!!」

 

「だから――」

 

 真希が最後にもう一度だけ振り返る。

 

 その輪郭は、すでに灰色の海へ溶けかけていた。

 

「最期に一つだけ、頼めるか」

 

 

◆◆◆

 

 薄暗い部屋の中。

 

 湿った空気を震わせながら、無数の呪霊が蠢いている。

 

 横たわる遺体が一つ。

 傍に立つ呪術師は一人。

 

 そして、その手には一丁の呪具――リボルバーが握られていた。

 

 真依は、掌の中の感触を確かめるように、銃把を強く握り締める。

 群がる呪霊たちが、一斉に身を乗り出す。

 

 

 

 忌庫の奥、訓練場に銃声が鳴り響いた。

 

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