忌庫奥・訓練場
真依が、血に濡れた床へ倒れていた。
「なんで来たんだよ、馬鹿野郎……」
真希は掠れた声で吐き捨てると、痛みに軋む身体を引きずりながら真依のそばへ寄った。
自分の傷も決して浅くはない。だが、この程度ならまだ耐えられる。そう思えるのは、真希の身体が常人とは比較にならないほど頑丈だからだ。
真依は違う。
細い身体から流れた血は床にまで広がり、衣服を黒く染めている。今は気を失っているだけなのか、それとも二度と目を覚まさないのか。確かめようとして伸ばした指先が、わずかに震えた。
周囲には、無数の呪霊の気配が蠢いていた。
物陰からこちらを窺い、扇が完全に立ち去るのを待っている。あるいは、瀕死の二人がさらに弱り、抵抗する力さえ失う瞬間を待ち構えているのだろう。
今ここで一斉に襲いかかられれば、果たしてどこまで抗えるか。真希一人でさえ怪しい。真依を庇いながらとなれば、なおさらだった。
「真依……」
返事はない。
真希は倒れた真依の身体を慎重に抱き寄せた。力を入れれば壊れてしまいそうなほど軽い身体と、その奥にかすかに残る温もりが腕へ伝わる。
ふと思う。こんなにも近くに触れたのは、いつ以来だろう。窮地にもかかわらず、表情から硬さが抜けてしまう。
幼い頃は、手を伸ばせばすぐ隣に真依がいた。泣くときも、眠るときも、暗い場所を歩くときも、二人は離れずにいた。それがいつからか、同じ顔を持ちながら、互いに背を向けて歩くようになっていた。
真希には、真依の傷を癒やす術がない。
これほどまでに、自分が呪力を持たないことを恨んだことはない。
術式を持たずに生まれた自分を、ここまで憎んだこともなかった。
どれほど身体を鍛えても、どれほど強力な呪具を扱えるようになっても、今この瞬間、真依の流す血を止めることすらできない。
自分の強さは、最も守りたいものを前にして、あまりにも無力だった。
――真依に、居場所を作ってやりたかった。
何の心配もせず、誰の顔色も窺わず、禪院家の名にも、術式の価値にも縛られず、自分らしく息をしていられる場所を。
そのために強くなろうとした。
そのために家を出た。
けれど、自分が選んだ道は、本当に真依を救うためのものだったのか。
真希が外へ進むほど、残された真依の居場所は狭くなった。真希が禪院家に逆らうほど、その報いを受けるのは真依だったのかもしれない。
守ろうとして伸ばした手が、知らないうちに真依を追い詰めていた。
私が、真依に与えられるものは――。
真希は腕の中の妹を見下ろし、そして、静かに目を閉じた。
◆◆◆
暗闇。
肌を刺すような冷気。
足元を浸す、冷たい水。
何も見えない場所で、規則正しい音だけが遠くから届いてくる。
――波の音がする。
「……はっ」
真依は息を呑み、目を開いた。
そこは、見覚えのない浜辺だった。
頭上には重い曇天が垂れ込め、灰色の海が地平線の向こうまで続いている。風はほとんどなく、穏やかな波だけが寄せては返し、濡れた砂の上に白い泡を残していた。
身体の痛みはない。
傷も、血の感触も消えている。
代わりに、胸の奥へ理由の分からない不安が広がっていた。
少し先に、真希が立っている。
海を背にしたその姿は普段と変わらないように見えたが、どこか輪郭が薄く、曇った空と海の色へ溶けてしまいそうだった。
「黙って出て行って、悪かった」
真希は真依を見ないまま言った。
波の音に紛れてしまいそうな、静かな声だった。
「オマエに居場所を作ってやりたかった。強くなって、家を変えて……真依が安心して生きられる場所を作りたかったんだ」
真依は、その言葉をすぐには理解できなかった。
真希が禪院家を出た理由。
真希が頑なに強さを求め、何度拒絶されても立ち上がり続けた理由。
真依は、それを知らなかった。
――いや、本当に知らなかったのだろうか。
ただ初めて言葉として聞いただけで、心のどこかでは、ずっと分かっていたのかもしれない。
自分を置いていったのではなく、自分を捨てたのでもない。真希は、不器用なほど真っ直ぐに、自分を連れ出すための道を作ろうとしていた。
「でも、私が呪術師を目指したことは、真依にとって居場所を狭めるだけだったのかもしれない」
真希は海へ向かって、ゆっくりと歩き始めた。
「それに、真依の呪術師としての道を邪魔してたのは私だった」
「そんなこと……!」
真依は反射的に否定した。
しかし、声は震え、その先の言葉が続かない。
遠ざかる背中を追おうとして足を踏み出すが、濡れた砂に足を取られ、身体がよろめいた。妙に力が入らない。それでも真依は止まらず、海へ向かう真希の後を追った。
「そんなことない……!」
京都校で築いた関係がある。
交流会で出会った者たちがいる。
禪院家の外へ出て、呪術師として歩く過程で、真依にもいくつもの居場所ができた。
昔のように真希だけが世界のすべてではなくなった。誰かと話し、誰かに腹を立て、誰かと笑える場所を、真依自身も少しずつ手に入れていた。
それでも、その始まりに真希がいたことは変わらない。
こちらこそ、謝りたかった。
真希が完全に強くなれないのは、自分が強さを求めていなかったからだ。自分が術式と呪力を抱えたまま、真希と同じ場所に存在していたからだ。
――私がいたから。
言いたいことが、次々と胸の内へ押し寄せてくる。
置いていかれて寂しかったこと。
一人で決めてほしくなかったこと。
それでも、ずっと追いかけていたこと。
謝りたかったことも、怒りたかったことも、今さら伝えたいことも、あまりに多すぎて、どれ一つとして言葉にならなかった。
真希が足を止め、振り返る。その表情は穏やかだった。
普段のような強い眼差しでも、誰かを威圧するような険しさでもない。幼い頃、真依の手を引いて歩いていた姉の顔だった。
「これ、返すよ」
真希は手にしていたものを差し出した。
「元々は真依のモンだ。どうも、間違って私が取っちまってたらしい」
真依が両手で受け取ったのは、一本の葦だった。
細い茎の先で、柔らかな穂が揺れている。ただの葦にしか見えない。しかし、その内側には、微かな熱とともに真希の呪力が宿っていた。
真依が触れた瞬間、それは懐かしいものを見つけたように、彼女の掌へ馴染んだ。
「流石に傷が深くてな。どうせもう保たないなら、魂が消える前に、ソイツを返しておきたい」
真希は自分の胸元へ目を落とした。
「それは、本来なら真依が手にするはずだった呪力だ。不完全だった
真希が持っていた、一般人と同程度の僅かな呪力。
双子が一人の人間として見なされる呪術の理の中で、本来は真依が持つはずだった力。その一部が、生まれ落ちたとき真希の方へと流れて行ってしまった。
真希の中に残る呪力は、本来真希のものではなかった。
「本当なら、最期まで一緒にいてやりたかった」
真希は再び海へ向き直った。
足元へ波が届き、くるぶしを濡らしていく。
「護ってやりたかった。居場所を作ってやりたかった」
「真希……」
「私が強くなれば、全部どうにかできると思ってた」
海へ一歩踏み出すたび、真希の姿は少しずつ遠ざかっていく。
「真希! 行かないで!」
真依は叫び、手を伸ばした。
だが、二人の間にある距離は縮まらない。走っているはずなのに、波打ち際はどこまでも続き、真希の背中だけが遠ざかっていく。
「また、あの頃みたいにさ」
真希の声が、波の向こうから聞こえた。
「何も考えずに、二人で暮らせる日が来ると思ってた」
「真希!!」
「だから――」
真希が最後にもう一度だけ振り返る。
その輪郭は、すでに灰色の海へ溶けかけていた。
「最期に一つだけ、頼めるか」
◆◆◆
薄暗い部屋の中。
湿った空気を震わせながら、無数の呪霊が蠢いている。
横たわる遺体が一つ。
傍に立つ呪術師は一人。
そして、その手には一丁の呪具――リボルバーが握られていた。
真依は、掌の中の感触を確かめるように、銃把を強く握り締める。
群がる呪霊たちが、一斉に身を乗り出す。
忌庫の奥、訓練場に銃声が鳴り響いた。