2018年11月15日 未明
愛知
全国の
その身に呪いが刻まれたことで、天元との同化に先立つ「慣らし」は、ひとまず完了した。
場所は、どこかの暗い一室。
室内を照らしているのは、壁一面に取り付けられた無数のモニターが放つ、青白い光だけだった。画面には日本各地に展開された
その人物は、画面を一つずつ確かめるように視線を巡らせた。
境界の移動状況。
非術師たちへの影響。
各地で生じている呪力の変化。
いずれも、概ね想定の範囲内に収まっている。
「さて……慣らしは完了。あとは
独り言のように呟くと、男――
外へ出れば、夜の闇を押し退けるように、巨大な
冷たい夜気が衣の裾を揺らすなか、羂索はふと思い出したように足を止める。
「ああ、そうだ。これの準備もしておかないとね」
その手に握られていたのは、黒い紐を幾重にも巻き、固く結び上げた糸毬だった。
小さく、歪で、外見だけなら何の変哲もない。
だが、それは呪いを芽吹かせるための種だった。
羂索は糸毬を指先で転がし、その奥に眠るものを確かめるように目を細めた。
「活用させてもらうよ、夏油傑」
◆◆◆
2018年11月18日 午後
「
無機質な声が、飛騨霊山浄界に響き渡った。
──〈総則〉十三
死滅回游への参加を、現時点――2018年11月18日21時9分をもって打ち切る。
──〈総則〉十四
夏油傑、伏黒恵、氷見汐梨を除く、全
新たな総則を聞き届けたのち、天元は羂索へ問いを投げかけた。
「なぜ、これほど回りくどいやり方をする?」
天元はすでに
「死滅回游を終わらせることが条件なら、この
羂索は、その問いを咎めなかった。
退屈を紛らわせるにはちょうどよい。それに、術式の支配下に置いた相手とはいえ、千年を生きた旧知との会話そのものは、決して不快ではなかった。
「それでは、天元との同化の慣らしに使った境界まで消えてしまうからね」
羂索の目的は、天元と日本に暮らす約一億人の非術師を同化させることにある。
そのためには、同化に先立って非術師たちを呪いへ順応させる「慣らし」が必要だった。羂索は死滅回游を利用し、日本各地の非術師に彼岸を渡らせ、その身に呪いを刻みつけた。
しかし、死滅回游ほど大規模な術式を成立させるには、相応の縛りが要る。
羂索が自らに課したのは、「終わることのないゲームを、必ず終わらせる」という条件だった。
慣らしそのものは、すでに完了している。
だが、死滅回游を成立させるために先送りにしていた代償――いわば縛りの「後払い」は、依然として残されていた。
非術師たちに彼岸を渡らせ、同化の慣らしに利用した境界は、全国各地の
死滅回游は、天元の浄界を基盤として構築された巨大な
そうなれば、非術師たちに渡らせた彼岸の境界も失われ、彼らに刻まれた呪いが解ける。結果として、それまで積み重ねてきた慣らしの条件まで崩れ去ってしまう。
つまり現状では、死滅回游そのものを根底から破壊する方法を選ぶことはできない。
時間をかけてでも、例外として定めた者を除く全
――今は、まだ。
「もっとも、こちらにも時間制限はある」
羂索は淡々と続けた。
「期限を過ぎたなら、私は浄界を破壊し、死滅回游を強制的に平定する。そのうえで、日本の非術師との同化を実行する」
天元の顔に、わずかな変化が現れた。
それは驚愕というほど大きなものではない。だが、羂索の言葉に明確な矛盾を見いだしたことだけは、その硬い表情からも読み取れた。
「どういうことだ?」
天元は羂索を見据える。
「浄界を破壊すれば、慣らしに使用した境界まで消失する。今しがた、そう言ったはずだろう」
その指摘は正しい。
死滅回游によって慣らしが維持されている以上、死滅回游を破壊するような終了方法は採れない。
少なくとも、別の方法で慣らしを維持できるようになるまでは。
天元の問いを受け、羂索は待っていたとばかりに笑みを深めた。
「以前の私の計画なら、その通りだった」
袖口へ手を差し入れながら、楽しげに言葉を続ける。
「だが、状況というものは刻一刻と変わるんだよ」
羂索が取り出したのは、黒い紐を編み固めて作られた、一つの糸毬だった。
天元はそれを目にした瞬間、わずかに目を見開く。
「それは……」
その反応を見て、羂索は満足そうに糸毬を掲げた。
「結界術を通して、存在くらいは把握していただろう?」
黒い糸の隙間から、淀んだ呪力がかすかに滲んでいる。
「夏油傑の遺産だよ。呪いの伝送線。彼はこれを網のように日本全国へ張り巡らせ、呪いの循環経路を作ろうとしていた」
それは地脈や霊脈とは異なる、別種の力の流れを人為的に構築するための術式だった。
土地に根づく既存の流れを利用するのではない。呪力を伝達し、循環させ、遠隔地へ運ぶための新たな経路を、日本列島の上に作り上げる。
「彼もこの国に新しい呪力の
羂索は糸毬を掌の上に載せ、ゆっくりと指を滑らせた。
「今は、これを愛知
天元を手中に収めるより前に、羂索は呪いの種を各所へ蒔いていた。
その種は愛知
「全国へ呪いを運び、呪いをかけ、呪いで浸すことができる」
羂索の声には、発見した玩具の性能を語るような軽さがあった。
「もっとも、これはまだ未完成だったらしい。伝送の途中で呪力が漏れ出すことも多いようだ」
糸毬を少し振ってわずかに傾ける。
すると、黒い糸毬の表面から洩れ出た呪力が、露のように零れ落ちた。
「けれど、非術師を呪いに慣らすという観点から見れば、その欠陥すら利点になる」
制御しきれず漏れ出した呪力は、伝送線の周囲へと染み広がる。
非術師たちは、目に見えないまま呪いに晒され続ける。強すぎれば壊れてしまうが、微量の呪力が長期間にわたって注がれるのであれば、それは同化へ向けた新たな慣らしとして機能する。
死滅回游によって一度は彼岸を渡らせた者たちを、今度は呪いの網そのもので包み込む。
それが、羂索の用意した第二の手段だった。
「縛りの都合上、私は死滅回游の終了を疑ってはいけない」
羂索は糸毬を袖へ戻しながら言う。
「だから、引き続き全
そこで一度言葉を切り、天元の反応を楽しむように目を細めた。
「だが、万が一、それより先に全国へ網が広がりきったなら、その時点で浄界を破壊し、死滅回游を強制終了させる」
正規の終了と、強制的な破壊。
どちらへ転んでも、羂索は目的を遂げられる。
泳者たちを殺し尽くせば、縛りを履行したうえで死滅回游を終了できる。呪いの伝送線が先に完成すれば、死滅回游を維持する必要そのものが消失する。
「つまり私は、あとは逃げ回っているだけでも目的を達成できてしまうんだよ」
羂索は肩をすくめ、戯けるように付け加えた。
「もっとも、縛りの影響があるから、本当に逃げ回ることはできないけれどね」
「……随分と用意周到なことだ」
天元の声は低く、硬かった。
羂索は小さく笑う。
「用意していたわけではないよ。これは元々、私の計画にはなかったものだ」
むしろ偶然に近い。夏油傑の肉体を得たことで、その構想もまた羂索の手に渡った。
「良いものを見つけたと、素直に喜んだものさ。この計画を初めて知ったときは、私も感心したよ」
その声音には、皮肉だけではない、確かな評価が含まれていた。
夏油傑が生み出そうとしていたものは、羂索の目的とは異なる。それでも、日本全土に呪力の新たな循環路を築くという発想と、それを実現するための構造は、千年を生きる術師の目から見ても無視できないものだった。
「もっとも、彼自身は、呪いの澱まない世界を望んでこれを開発していたようだけれどね」
羂索は可笑しそうに口元を歪めた。
呪いを減らすために作られたものが、日本全土を呪いで満たすために利用される。
その転倒を味わうように、羂索は低く呟く。
「嫌な話だね」
皮肉を込めて笑う羂索に対し、天元の表情は硬いままだった。
呪いを運ぶ網。
呪いを循環させる道。
けれど、それを生み出した者が願っていたのは、呪いが世界に満ちることではない。
「彼が望んでいたのは、呪いをなくし、呪いを弔うことのできる世界」
羂索は、夏油傑の記憶をなぞるように目を伏せた。
「その願いから名づけられた、この呪具の名は――」
――