呪術廻戦 喪呪路   作:四月三十日

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洩呪露

2018年11月15日 未明

愛知結界(コロニー)近郊

 

 全国の結界(コロニー)を結ぶ境界が移動し、日本の非術師たちは彼岸を渡った。

 その身に呪いが刻まれたことで、天元との同化に先立つ「慣らし」は、ひとまず完了した。

 

 場所は、どこかの暗い一室。

 

 室内を照らしているのは、壁一面に取り付けられた無数のモニターが放つ、青白い光だけだった。画面には日本各地に展開された結界(コロニー)の状況が、異なる角度と縮尺で映し出されている。

 

 その人物は、画面を一つずつ確かめるように視線を巡らせた。

 

 境界の移動状況。

 非術師たちへの影響。

 各地で生じている呪力の変化。

 

 いずれも、概ね想定の範囲内に収まっている。

 

「さて……慣らしは完了。あとは天元(てんげん)か」

 

 独り言のように呟くと、男――羂索(けんじゃく)はモニターから視線を外し、静かに部屋を後にした。

 

 外へ出れば、夜の闇を押し退けるように、巨大な結界(コロニー)の外殻が聳えている。ここは、本州のほぼ中央に位置する愛知結界(コロニー)。その近郊だった。

 冷たい夜気が衣の裾を揺らすなか、羂索はふと思い出したように足を止める。

 

「ああ、そうだ。これの準備もしておかないとね」

 

 その手に握られていたのは、黒い紐を幾重にも巻き、固く結び上げた糸毬だった。

 小さく、歪で、外見だけなら何の変哲もない。

 

 だが、それは呪いを芽吹かせるための種だった。

 羂索は糸毬を指先で転がし、その奥に眠るものを確かめるように目を細めた。

 

「活用させてもらうよ、夏油傑」

 

◆◆◆

 

2018年11月18日 午後

飛騨霊山浄界(ひだれいざんじょうかい)

 

泳者(プレイヤー)による死滅回游(しめつかいゆう)への総則(ルール)追加が行われました!」

 

 無機質な声が、飛騨霊山浄界に響き渡った。

 

──〈総則〉十三

死滅回游への参加を、現時点――2018年11月18日21時9分をもって打ち切る。

 

──〈総則〉十四

夏油傑、伏黒恵、氷見汐梨を除く、全泳者(プレイヤー)の死亡をもって死滅回游を終了する。

 

 

 新たな総則を聞き届けたのち、天元は羂索へ問いを投げかけた。

 

「なぜ、これほど回りくどいやり方をする?」

 

 天元はすでに呪霊操術(じゅれいそうじゅつ)によって取り込まれ、羂索の支配下に置かれていた。以前のように自由な意思で行動することはできない。それでも、知性も記憶も失われたわけではなく、眼前で進められる計画についての疑問点を見過ごすこともなかった。

 

「死滅回游を終わらせることが条件なら、この浄界(じょうかい)を問答無用で消し去ればよかったはずだ」

 

 羂索は、その問いを咎めなかった。

 退屈を紛らわせるにはちょうどよい。それに、術式の支配下に置いた相手とはいえ、千年を生きた旧知との会話そのものは、決して不快ではなかった。

 

「それでは、天元との同化の慣らしに使った境界まで消えてしまうからね」

 

 羂索の目的は、天元と日本に暮らす約一億人の非術師を同化させることにある。

 

 そのためには、同化に先立って非術師たちを呪いへ順応させる「慣らし」が必要だった。羂索は死滅回游を利用し、日本各地の非術師に彼岸を渡らせ、その身に呪いを刻みつけた。

 

 しかし、死滅回游ほど大規模な術式を成立させるには、相応の縛りが要る。

 羂索が自らに課したのは、「終わることのないゲームを、必ず終わらせる」という条件だった。

 慣らしそのものは、すでに完了している。

 

 だが、死滅回游を成立させるために先送りにしていた代償――いわば縛りの「後払い」は、依然として残されていた。

 非術師たちに彼岸を渡らせ、同化の慣らしに利用した境界は、全国各地の結界(コロニー)を相互に結びつけている。

 

 死滅回游は、天元の浄界を基盤として構築された巨大な梵界(はんかい)だ。そのため、浄界そのものを破壊して死滅回游を終わらせれば、同化を開始するための条件を満たすことはできるものの、同時に全国の結界(コロニー)も崩壊する。

 

 そうなれば、非術師たちに渡らせた彼岸の境界も失われ、彼らに刻まれた呪いが解ける。結果として、それまで積み重ねてきた慣らしの条件まで崩れ去ってしまう。

 つまり現状では、死滅回游そのものを根底から破壊する方法を選ぶことはできない。

 

 時間をかけてでも、例外として定めた者を除く全泳者(プレイヤー)を排除し、総則(ルール)に従う形で死滅回游を終結させる必要がある。

 

――今は、まだ。

 

「もっとも、こちらにも時間制限はある」

 

 羂索は淡々と続けた。

 

「期限を過ぎたなら、私は浄界を破壊し、死滅回游を強制的に平定する。そのうえで、日本の非術師との同化を実行する」

 

 天元の顔に、わずかな変化が現れた。

 それは驚愕というほど大きなものではない。だが、羂索の言葉に明確な矛盾を見いだしたことだけは、その硬い表情からも読み取れた。

 

「どういうことだ?」

 

 天元は羂索を見据える。

 

「浄界を破壊すれば、慣らしに使用した境界まで消失する。今しがた、そう言ったはずだろう」

 

 その指摘は正しい。

 死滅回游によって慣らしが維持されている以上、死滅回游を破壊するような終了方法は採れない。

 少なくとも、別の方法で慣らしを維持できるようになるまでは。

 

 天元の問いを受け、羂索は待っていたとばかりに笑みを深めた。

 

「以前の私の計画なら、その通りだった」

 

 袖口へ手を差し入れながら、楽しげに言葉を続ける。

 

「だが、状況というものは刻一刻と変わるんだよ」

 

 羂索が取り出したのは、黒い紐を編み固めて作られた、一つの糸毬だった。

 天元はそれを目にした瞬間、わずかに目を見開く。

 

「それは……」

 

 その反応を見て、羂索は満足そうに糸毬を掲げた。

 

「結界術を通して、存在くらいは把握していただろう?」

 

 黒い糸の隙間から、淀んだ呪力がかすかに滲んでいる。

 

「夏油傑の遺産だよ。呪いの伝送線。彼はこれを網のように日本全国へ張り巡らせ、呪いの循環経路を作ろうとしていた」

 

 それは地脈や霊脈とは異なる、別種の力の流れを人為的に構築するための術式だった。

 土地に根づく既存の流れを利用するのではない。呪力を伝達し、循環させ、遠隔地へ運ぶための新たな経路を、日本列島の上に作り上げる。

 

「彼もこの国に新しい呪力の基盤(インフラ)を築こうとしていたんだよ。天元、君と同じようにね」

 

 羂索は糸毬を掌の上に載せ、ゆっくりと指を滑らせた。

 

「今は、これを愛知結界(コロニー)から少しずつ広げているところでね。全国への展開が完了すれば、死滅回游が崩壊し、彼岸の境界が消失したとしても、非術師への慣らしを維持できる」

 

 天元を手中に収めるより前に、羂索は呪いの種を各所へ蒔いていた。

 

 その種は愛知結界(コロニー)から供給される呪力を吸い上げ、地中へ根を伸ばすように伝送線を拡張している。一本の線は別の線へと繋がり、やがて網となって、日本各地を覆っていく。

 

「全国へ呪いを運び、呪いをかけ、呪いで浸すことができる」

 

 羂索の声には、発見した玩具の性能を語るような軽さがあった。

 

「もっとも、これはまだ未完成だったらしい。伝送の途中で呪力が漏れ出すことも多いようだ」

 

 糸毬を少し振ってわずかに傾ける。

 すると、黒い糸毬の表面から洩れ出た呪力が、露のように零れ落ちた。

 

「けれど、非術師を呪いに慣らすという観点から見れば、その欠陥すら利点になる」

 

 制御しきれず漏れ出した呪力は、伝送線の周囲へと染み広がる。

 非術師たちは、目に見えないまま呪いに晒され続ける。強すぎれば壊れてしまうが、微量の呪力が長期間にわたって注がれるのであれば、それは同化へ向けた新たな慣らしとして機能する。

 死滅回游によって一度は彼岸を渡らせた者たちを、今度は呪いの網そのもので包み込む。

 

 それが、羂索の用意した第二の手段だった。

 

「縛りの都合上、私は死滅回游の終了を疑ってはいけない」

 

 羂索は糸毬を袖へ戻しながら言う。

 

「だから、引き続き全泳者(プレイヤー)の排除を目指す。死滅回游を正規の手順で終わらせるためにね」

 

 そこで一度言葉を切り、天元の反応を楽しむように目を細めた。

 

「だが、万が一、それより先に全国へ網が広がりきったなら、その時点で浄界を破壊し、死滅回游を強制終了させる」

 

 正規の終了と、強制的な破壊。

 どちらへ転んでも、羂索は目的を遂げられる。

 泳者たちを殺し尽くせば、縛りを履行したうえで死滅回游を終了できる。呪いの伝送線が先に完成すれば、死滅回游を維持する必要そのものが消失する。

 

「つまり私は、あとは逃げ回っているだけでも目的を達成できてしまうんだよ」

 

 羂索は肩をすくめ、戯けるように付け加えた。

 

「もっとも、縛りの影響があるから、本当に逃げ回ることはできないけれどね」

 

「……随分と用意周到なことだ」

 

 天元の声は低く、硬かった。

 羂索は小さく笑う。

 

「用意していたわけではないよ。これは元々、私の計画にはなかったものだ」

 

 むしろ偶然に近い。夏油傑の肉体を得たことで、その構想もまた羂索の手に渡った。

 

「良いものを見つけたと、素直に喜んだものさ。この計画を初めて知ったときは、私も感心したよ」

 

 その声音には、皮肉だけではない、確かな評価が含まれていた。

 夏油傑が生み出そうとしていたものは、羂索の目的とは異なる。それでも、日本全土に呪力の新たな循環路を築くという発想と、それを実現するための構造は、千年を生きる術師の目から見ても無視できないものだった。

 

「もっとも、彼自身は、呪いの澱まない世界を望んでこれを開発していたようだけれどね」

 

 羂索は可笑しそうに口元を歪めた。

 呪いを減らすために作られたものが、日本全土を呪いで満たすために利用される。

 その転倒を味わうように、羂索は低く呟く。

 

「嫌な話だね」

 

 皮肉を込めて笑う羂索に対し、天元の表情は硬いままだった。

 

 呪いを運ぶ網。

 

 呪いを循環させる道。

 

 けれど、それを生み出した者が願っていたのは、呪いが世界に満ちることではない。

 

「彼が望んでいたのは、呪いをなくし、呪いを弔うことのできる世界」

 

 羂索は、夏油傑の記憶をなぞるように目を伏せた。

 

「その願いから名づけられた、この呪具の名は――」

 

――喪呪路(もじゅろ)

 

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