──ドゴッ。
頭上から響いた破砕音に、
「……来たか」
宿儺は二人を見上げ、口元に薄い笑みを浮かべる。
「小僧。貴様に何ができる」
◆◆◆
真依は、戦場から約二キロ離れた高層建築物の屋上にいた。
周囲の建物よりも一段高く、戦場全体を見渡せる場所ではあるが、吹きさらしの屋上には強い風が絶えず流れ込んでいる。銃口のわずかな揺れさえ着弾地点を大きく変える距離であり、決して理想的な狙撃環境ではなかった。
真依の隣に立つのは冥冥だった。
冥冥は各所へ烏を飛ばし、それぞれの視界を通して複数の角度から戦場を観測している。真依は冥冥から伝えられる情報と、自らがスコープ越しに捉えた光景を照合しながら、宿儺までの射線を探っていた。
二人の役割は、さながら観測手と狙撃手だった。
真依が構える呪具「真希」は、かつてのリボルバーの輪郭を残しながらも、作戦に合わせて遠距離用にカスタマイズをされていた。
銃身には、長距離射撃用の長大な紅いバレルが装着され、その上部には高倍率のスコープが据えられている。後方には射撃時の反動と姿勢を安定させるためのストックが取り付けられていた。
それらの補助部品は、かつて真希が振るった特級呪具「游雲」の残骸から作られている。長距離からの援護射撃を可能にするため、元の銃へ無理やり組み込むように構築された紅いカスタムパーツだった。
真希なら、こんな遠くから戦場を覗き込むような戦い方を嫌ったかもしれない。
正面から殴り込め、とでも言いそうだ。
――気にしねぇよ。
「距離と風の強さは、その都度伝えるよ」
戦場を見据えたまま、冥冥が言った。
「今のところ障害物はないけれど、移動するときは教えてほしい。次の狙撃地点も、今のうちに候補を絞っておく」
真依はスコープから目を離さず、小さくうなずく。
「分かりました」
その直後だった。
──ドゴッ。
戦場の上空で、結界が砕ける。
降下する虎杖と日車の姿を確認した冥冥は、二人の着地を援護するため、待機させていた烏を一斉に動かした。
複数の烏が、異なる角度から宿儺へと迫る。
その軌道は砲弾のように単調ではない。生き物ならではの不規則な動きで上下左右に揺れ、急角度で方向を変え、建物や瓦礫の陰を縫いながら宿儺の死角へ潜り込もうとする。
しかし、宿儺は迫る烏を一瞥しただけだった。
右手に握った呪具「
閃光が走り、直後に轟音が弾けた。
放たれた雷撃が空中で枝分かれし、飛来する烏を次々と撃ち落としていく。黒い羽と焼け焦げた肉片が、瓦礫の上へ散った。
冥冥の術式「
その攻撃は、烏自身の命を対価とする。命を懸けるという縛りによって呪力の制限を取り払い、烏の肉体に本来の限界を超えた呪力を纏わせるのだ。
ビルの隙間を縫い、標的を追尾しながら高速で飛来する数羽の烏。その性質は、現代兵器に例えるならば自爆型の追尾兵器に近い。
宿儺はその直撃を避けていた。
限界を超えた呪力を纏う烏の体当たりは、命中さえすれば宿儺にも相応の効果を与える可能性がある。だが、これ見よがしに呪力を迸らせながら飛来する烏を、宿儺が見落とすはずもなかった。
真依はスコープ越しに「神武解」を見据える。
――あの雷撃を放つ呪具。
仮に、あの攻撃が自然現象としての落雷に匹敵する速度と威力を持つのなら、生身の人間が見てから回避することはまず不可能だ。まともに受け止めることもできない。
鹿紫雲は、自らの呪力が電気と似た性質を持っていたため、相性によって耐えられた。
だが、これから前線に立つ日車や虎杖は違う。
あの呪具を自由に振るわせたままでは、攻撃へ移ることすらできないだろう。
まずは「神武解」を無力化するか、少なくとも宿儺の意識をそこから逸らし、隙を作らなければならない。
「もう一度いくよ」
冥冥の声と同時に、新たな烏が飛び立った。
「黒鳥操術」による二度目の「神風」。
迫り来る呪力の塊に応じ、宿儺が「神武解」を持つ腕を振り上げる。
その瞬間、宿儺の腕から鮮血が迸った。
血が空中に細い線を描き、わずかに遅れて、空気を大きく弾くような銃声が届く。
真依が呪具「真希」で放った弾丸は、宿儺の手首を掠めていた。
発砲地点から着弾地点まで約二キロ。通常の銃弾であれば、飛来を確認することすら困難な距離である。それでも宿儺は、殺気と呪力の気配を察した瞬間に腕を捻り、直撃を回避していた。
さらに呪力による身体強化も相まって、傷は浅い。
だが、不意打ちだったとはいえ、真依の一撃は宿儺の肉体を確かに傷つけた。
宿儺が顔を上げる。
その視線は、戦場の遥か彼方へ向けられていた。
二キロ近く離れた高層建築物の屋上。常人であれば人影の有無すら判別できない距離の先に、宿儺は銃を構える真依の姿を捉えていた。
――銃撃か。
宿儺の目が、わずかに細くなる。
――拳銃で、この距離と威力を出したというのか。何らかの術式か? いや、あれは構築術式の娘……。
飛来した弾丸は、拳銃弾と大差ない大きさだった。しかし、その速度も威力も通常の銃器とは比較にならない。
そして何より、真依が構える銃は異様なほど目立っている。
――あの銃そのものが呪具か。現代兵器を基礎とした呪具とはな。
威力の仕組みを推測しながら、宿儺の意識が真依へ向く。
その瞬間を、日車は見逃さなかった。
日車が術式によって宿儺の腕を絡め取り、「神武解」を持つ右腕ごと拘束する。その横から虎杖が踏み込み、宿儺の胴体へ拳を叩き込んだ。
宿儺は虎杖の拳を腕で受け止める。
防いだはずだった。
それにもかかわらず、宿儺の体勢がわずかに崩れる。
拳の衝撃とは異なる、得体の知れない違和感が肉体の内側へ食い込んでいた。防御したにもかかわらず、防ぎ切れなかった何かがある。
宿儺が虎杖を見る。
「やり直しだ」
その隙、日車が告げた。
虎杖が被告となり、日車が検察を務め、式神ジャッジマンが裁定を下した渋谷での裁判。
その被告と検察、そして裁判官の三者が、再び同じ場に揃った。
◆◆◆
日車の術式「誅伏賜死」による裁判が終わり、三者が領域から退廷する。
その一部始終を、冥冥と真依は遠方から確認していた。
再び現れた日車の手には、十字架を思わせる刃――「
冥冥がわずかに口元を緩めた。
「死刑は取れたようだね。これから総攻撃が始まる。私たちは宿儺を足止めし、日車君の攻撃を援護するよ」
「了解」
前線には虎杖と日車だけでなく、
高専側は人数を生かし、一斉攻撃を仕掛ける。
宿儺の斬撃の術式が「没収」されているのなら、少なくとも一度の斬撃で全員をまとめて殺される危険は低い。残る脅威は、雷撃を放つ「神武解」だけのはずだった。
だが、スコープ越しに宿儺を追っていた真依は、戦場に生じた不自然な空白に気づいた。
「……宿儺がさっきまで持っていた呪具は、どこに?」
冥冥も双眼鏡の焦点を合わせ直す。
「確かに、領域へ入る直前までは右手に持っていたはずだけれど、今はどこにも見当たらないね」
冥冥は双眼鏡を覗いたまま、日車の術式について共有されていた情報を思い返す。
「日車君の術式は、裁判を行うものだ。術式そのものに領域展開が組み込まれていて、その内部ではあらゆる暴力行為が禁止されるらしい。入廷した時点で、武器として一時的に取り上げられたのかな」
真依の胸中に、嫌な予感が広がる。
「有罪になった場合、最初に取り上げられた武器も返却されず、そのまま没収されるんですか?」
日車の術式の細部までは、誰も完全には把握できていない。日車「本人」でさえ。
「有罪になった人間から危険物を取り上げる、という理屈は理解できます。でも、それだと……」
真依は言葉を切り、自分の中に浮かんだ推測を整理する。
これは法廷を模した制度であると同時に、呪術だ。
呪術による効力には、それに見合う条件や縛りが存在する。原則として、一つの条件によって得られる利益は一つ。術式と呪具の双方を同時に奪えるとは限らない。
「……まさか」
真依の声が震える。
「『没収』が適用されたのは、宿儺の術式じゃなくて――」
その言葉が縁起でもない未来を呼び寄せたのか。それとも、初めから避けようのない結果だったのか。
冥冥と真依が観測する先で、前線に立つ日車と日下部の身体が斬撃によって切り裂かれた。
鮮血が飛び散り、二人の身体が地面へ崩れる。
呪いの王は、術式を失ってなどいなかった。
日車の術式による「没収」は、宿儺自身の斬撃術式ではなく、呪具「神武解」に適用されていたのだ。
冥冥は、戦場の状況を冷静に受け止める。
「どうやら、『没収』のほうは失敗したようだね」
真依は一度だけ短く息を吐き、動揺を押し込めるようにスコープを覗き直した。
「即死の剣は、まだ残っています」
処刑人の剣は消えていない。
それならば、日車が宿儺へ一撃を届かせる可能性も、まだ失われてはいない。
「当初の方針通り、宿儺を足止めして日車さんを援護します」
真依の狙撃は、呪具「真希」によって大幅に威力を増している。
弾丸による直線的な攻撃しかできないという制約はあるものの、その弾速は冥冥の「神風」を上回り、宿儺の肉体を傷つけるだけの威力も備えている。さらに、一度の攻撃ごとに烏の命を失う「神風」と比べれば、射撃に必要なコストもはるかに軽い。
真依は足元に置かれた紙箱へ手を伸ばし、中から弾薬をつかみ取った。
この援護で使用している弾丸は、真依が構築術式で作り出したものではない。冥冥が独自の伝手を使い、事前に仕入れていた実弾だった。
真依の術式によって一日に作り出せる物質の量には限界がある。弾丸を一発撃つたびに術式を使っていては、長時間の援護射撃など不可能だ。今後の計画にも響く。
銃声が響くたび、弾丸が宿儺の急所や関節を狙って飛来する。
しかし、宿儺に致命傷を与えるまでには至らない。
それでも、その援護射撃は確実に宿儺の意識を削ぎ、前線だけへ集中することを許さなかった。
術式の没収こそ失敗したものの、処刑人の剣を手にした高専側は、今こそが勝機だとばかりに攻勢を強めている。
◆◆◆
宿儺は、迫る攻撃を捌きながら戦況を分析していた。
前線にいるのは虎杖、日車、日下部。
――刀を持つ男は、小手先の技術には長けている。だが、やはり警戒すべきはあの剣だ。
処刑人の剣が宿儺へ触れれば、その時点で勝敗は決する。
――小僧は、さほど気にする必要もないだろう。
虎杖の打撃には先ほどの違和感が残っているものの、現時点で即座に脅威と判断するほどではない。
やや離れた地点から宿儺の動きをうかがっているのは脹相だ。
――あの
さらに遠方からは、冥冥と真依が援護を続けている。
――烏の威力はなかなかだが、攻撃そのものは分かりやすい。烏の数にも限りがあるだろう。しかし、「神武解」を持っていかれた今、面倒ではある。
宿儺の意識が、再び真依へ向く。
――構築術式の女そのものは脅威ではない。だが、あの射撃は鬱陶しいな。
二キロ近い距離があるため、宿儺からは真依が引き金を引く瞬間も、呪力の起こりも確認できない。狙撃そのものは直線的な攻撃にすぎず、常に呪力で肉体を強化していれば致命傷にはならない。
しかし、着弾のたびに防御へ呪力を回し、射線へ意識を割かなければならないことが、宿儺には不快だった。
――場所を変えるか。
宿儺は周囲を見渡す。
少し先には、高層建築物が密集した区域がある。建物の間へ入れば真依の射線を遮り、遠距離からの援護を封じることができる。
進路を決めた宿儺は、前線の術師たちへ向けて笑った。
「かけっこするか? 餓鬼共」
◆◆◆
宿儺が駆け出した瞬間、スコープ越しにその姿を追っていた真依は息を呑んだ。
速い。
照準を動かして追尾しようとするが、宿儺の姿は一瞬でスコープの視野から消えた。二キロ先を高速で移動する標的を、高倍率のスコープで捉え続けることは不可能に近い。
真依はスコープから目を離した。
「くっ……冥冥さん! 宿儺は今どこに!?」
冥冥は複数の烏の視界を切り替えながら、移動する宿儺を追跡していた。
「烏で追っているよ。かなり高い建物に囲まれた方向へ移動しているようだね」
宿儺が向かう先は、屋上同士の高低差が激しく、建物の壁面によって射線が細かく分断されている。
「今、次の狙撃地点を探している。けれど、地上から移動したのでは間に合わないね」
真依はすぐに通信機へ手を伸ばした。
「桃!」
呼びかけに応じるように、箒に跨った西宮が二人のいる屋上へ急降下してくる。
「乗って!」
箒が屋上の縁すれすれで停止する。
真依は呪具「真希」を抱えたまま、西宮の後ろへ跨った。
地上を走っていては、宿儺の移動速度に追いつけない。上空から戦場を追いながら次の狙撃地点へ移り、可能な限り援護を継続するしかなかった。
西宮の箒が屋上を蹴るように飛び出す。
吹きつける風の中、真依は銃を抱く両手に力を込めた。
自分一人で戦っているのではない。
前線で宿儺へ立ち向かう者がいる。離れた場所から状況を観測する者がいる。負傷者を回収し、治療に備える者もいる。
全員がそれぞれの役割を担い、一つの目的のために動いている。
西宮と真依は上空から宿儺のいる地点を目指した。
しかし宿儺は、投げ飛ばした日車を追い、遮蔽物となる建物の多い区域へ入り込んでいる。上空から見下ろしても、建物の壁面と屋上が幾重にも重なり、宿儺の姿を明確に捉えることができない。
仮に一瞬だけ姿が見えたとしても、周囲には味方が密集している。安定した足場もなく、揺れる箒の上から安全に狙撃することは困難だった。
西宮は速度を落とし、着地できそうな屋上を探す。
真依も周囲の建物を見回していたが、その途中で通信機から冥冥の声が届いた。
『いや、やはり待ってほしい、真依さん』
冥冥の声は、先ほどまでとは異なる指示を告げた。
『乙骨君が帰ってくる。憂憂も五条君の遺体を回収した』
真依は銃を抱えたまま、通信へ意識を集中する。
『予定どおり、硝子さんと合流して、遺体の修復作業に取りかかってほしい』
真依は短く返答し、西宮へ進路の変更を伝える。
箒が旋回し、戦場から離れる方向へ進み始めた。
家入硝子との合流地点を目指す真依の頭には、作戦開始前に共有されていた乙骨の計画と、五条悟が遺した計画が浮かんでいた。