赤い空だった。
夜のはずなのに、空は異様なほど明るい。遠方で燃え続ける炎が、崩壊した都市の輪郭を炙り出していた。砲撃の残響が、まだ冷えきらない大気を低く震わせている。
高層建築は骨組みを晒したまま傾き、砕けた外壁と窓ガラスの破片が、雨のように戦場へ降り注いでいた。
その戦場を、一人の兵士が高速で駆け抜けていた。
全身を覆うのは、灰白色(かいはくいろ)の強化外骨格。
背中のスラスターから蒼白い粒子光を噴き出し、瓦礫の群れを飛び越えていく姿は、まるで燃える夜を裂く、灰色の流星だった。
細身で鋭角的なシルエット。
胸部装甲に刻まれた白文字。
《STRIKER》
その文字を刻んだ装甲が、炎の中をさらに加速していく。
『灰狼(はいろう)、応答しろ』
ノイズ混じりの男の声が、通信回線に割り込む。
『聞こえてんだろ』
灰狼は応えない。
崩落した高架道路の残骸を蹴り砕き、加速の勢いそのままに宙へ跳ぶ。眼下で瓦礫が崩れ、粉塵が炎に照らされながら舞い上がった。
それでも彼女は、振り返らない。
『おい、単独突出はやめろ』
『司令部がキレてる』
短い沈黙。
「うるせェな」
装甲の中で、女が低く吐き捨てた。
「生存者がいるんだろ」
頭部装甲の内部視界に、赤いマーカーが灯る。
『B-17区画に生存者反応を確認』
『反応数、一』
『第十三戦術学園内部です』
AIの無機質な声に合わせるように、炎に包まれた学園区画が赤いマーカーの先で揺れていた。
崩れた校舎。
焼け落ちた渡り廊下。
その中心部に、小さな生体反応が一つだけ灯っている。
『敵性反応、多数接近』
『到達予測、二十秒』
灰狼は小さく舌打ちした。
「……こんな状況で生き残りかよ」
『灰狼』
男の声が、少し低くなる。
『間に合わねェなら撤退しろ』
「……知るかよ」
灰狼は、生存者反応を睨んだ。
背部スラスターが展開し、背面装甲に蒼白い光が走った。
次の瞬間、灰狼の姿は一筋の雷光となって、崩壊した街並みの奥へ消えた。
◇ ◇ ◇
暗かった。
何も見えない。
耳鳴りだけが、ずっと鳴っている。
キィィィィィ――――。
天音海斗(あまね・かいと)は、薄く目を開けた。
「ぁ……」
息を吸った瞬間、肺の奥が焼けるように痛んだ。
「……っ、げほ……!」
反射的に咳き込むと、喉の奥から血の味が込み上げる。
口元から零れた赤が、顎を伝って瓦礫の上へ落ちた。
視界に映るのは、崩落した天井と、折れ曲がった鉄骨。砕けたコンクリート片が幾重にも重なり、海斗の身体を押し潰すように覆っている。
埋まっている。
そう理解した途端、呼吸が浅くなった。
左腕が動かない。
いや、動かないだけじゃない。
見なくても分かる。
瓦礫の下で、潰れている。
最初は、感覚がないのだと思った。
――違う。
感覚が、ありすぎた。
骨の奥を、ドリルで掻き回されているような激痛が、左腕から肩へ、首へ、頭の奥へ突き抜ける。
「あ……ぁ……っ!!」
叫ぼうとして、また咳き込んだ。
熱い。
息ができない。
海斗は、短く、引きつった息を吐いた。
何が起きた。
ここはどこだ。
頭が上手く回らない。
その視界の先で。
第十三戦術学園が、燃えていた。
◇ ◇ ◇
ほんの少し前まで、そこは炎に包まれてなどいなかった。
第十三戦術学園。
FRAME兵士を目指す者たちが、候補生として集められ、訓練を受ける場所。
灰白色の訓練用FRAME。
それをまとった候補生が地面を蹴る。背中のスラスターが短く噴き、身体が人工地形を飛び越えた。噴射に巻かれた砂が白く流れ、遅れて校舎の窓がかすかに鳴る。
「おー、速ぇ」
「訓練出力であれかよ」
「実戦用なら、もっと飛ぶんだろ」
窓際に集まった生徒たちが笑う。
海斗は、少し離れた席でそれを見ていた。輪の中には入らない。誰かに呼ばれることもない。けれど、目だけは離せなかった。
候補生が装着しているのは、ストライカー仕様の訓練用FRAMEだった。最前線へ飛び込み、敵陣を切り開くための装甲。
海斗が初めてストライカーに憧れたのは、まだ小さかった頃のことだった。
燃える街の中で、避難列から取り残された海斗を、灰白色のFRAMEをまとった兵士が抱き上げた。
顔も、名前も覚えていない。
装甲越しに聞いた声も、もうほとんど思い出せない。
覚えているのは、背中のスラスターから噴き出した蒼白い粒子光だけだった。
あの光は、置いていかれた海斗を、前へ連れていってくれた。
その瞬間から、海斗にとってストライカーは、ただの兵科ではなくなった。
机の上のホログラム端末が、小さく通知音を鳴らした。
黒い板状の本体から、淡い表示窓が数センチだけ浮かび上がる。
そこには、今日の適性ログが開いたままになっていた。
⸻
FRAME接続予備測定
対象者:天音海斗
接続反応:測定限界以下
適性区分:SILENT
推奨課程:一般支援課程
FRAME装着:非推奨
⸻
海斗は、すぐに表示窓を指で払った。
淡い文字列が空中でほどけて消える。
見慣れた文字だった。
何度見ても、意味は変わらない。
それでも、窓の外を走るストライカーから目を離せなかった。
見なければ、そこで終わってしまう気がした。
たった一度でいい。
誰かに連れていかれるのではなく、自分の足で前へ進んでみたかった。
「なあ、海斗」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
久世蓮(くせ・れん)だった。
背は海斗より少し高く、短く整えた茶髪と、相手の反応を値踏みするような細い目が印象的な男子生徒だった。制服の着こなしはきちんとしているのに、笑うたびにどこか人を見下しているように見える。
教室の中心にいる男子生徒。
予備測定で高い接続反応を示し、来月から始まるFRAME戦闘訓練に進むと見られている候補生。
海斗とは、最初から立っている場所が違う人間だった。
「また見てんのかよ」
蓮の視線が、窓の外から海斗の端末へ落ちる。
「訓練見学、そんなに楽しい?」
周囲で、誰かが小さく笑った。
海斗は答えなかった。
答えれば、余計に面倒になる。
「聞こえてるだろ、サイレント」
その呼び名に、胸の奥が冷えた。
名前ではなく、判定で呼ばれる。
もう何度目か分からない。
それでも慣れなかった。
「席につけ」
教官の声で、教室のざわめきが少しずつ引いていく。
蓮は最後に、海斗の椅子を軽く蹴った。
海斗は何も言わず、前を向いた。
教官の視線が、一度だけこちらを通り過ぎる。
だが、それだけだった。
「今日はFRAME接続時の負荷について確認する」
前方に、簡易モデルが投影された。
モデルの背中に、背骨のような機械――機械脊椎が接続される。そこから装甲が展開し、身体を覆っていく。
「FRAMEは、装着すれば動く鎧ではない」
教官は淡々と言った。
「神経接続が通らなければ、ただの重い外骨格だ」
投影された兵士モデルが、一歩踏み出す。
だが、膝が折れた。
装甲だけが遅れて動き、腕が不自然な角度に跳ねる。
「反応が遅れれば、FRAMEは装着者の身体を壊す」
赤い接続ラインが点滅し、動かなくなった兵士モデルの周囲へ、回収班を示す青い光点が近づいていく。
「訓練中でも同じだ。止まった者が出れば、誰かが回収に向かうことになる」
数人が、ちらりと海斗を見た。
その中で、蓮だけが小さく舌打ちした。
海斗は顔を上げなかった。
「来月から、FRAME戦闘訓練に進む候補生の選定が始まる」
教官が端末を確認する。
「接続基準に届いていない者には、順次面談を行う」
そこで、教官の視線が一度だけ海斗へ向いた。
「天音。お前は放課後に来い」
教室の空気が、わずかに揺れた。
またか、と誰かが小さく呟いた気がした。
海斗は顔を上げられなかった。
面談は、これで何度目だろう。
接続反応は測定限界以下。FRAME装着は非推奨。一般支援課程への移行を検討しろ。
何度も聞かされた言葉だった。
このままFRAME座学を受け続けても意味はない。
戦闘訓練へは進めない。
ストライカーどころか、FRAMEに触れる場所にすら立てない。
教官はいつも、遠回しにそう告げていた。
「……はい」
返事は、自分でも驚くほど小さかった。
それから先の授業は、ほとんど頭に入ってこなかった。
頭に残っていたのは、ただ一つだけだった。
放課後。また面談。
やがて終了チャイムが鳴った。
授業が終わると同時に、教室の空気が緩んだ。
端末を閉じる音。
椅子を引く音。
軽い笑い声。
教官は投影を消すと、海斗の方を見ることなく教室を出ていった。
「なあ」
蓮が、机の横に立っていた。
「今日の授業、分かりやすかったな」
海斗は黙って端末を取ろうとした。
だが、その手より先に、蓮の指が伸びる。
端末の本体が机の上を滑り、床へ落ちた。
衝撃で、閉じたはずの表示窓が再び立ち上がった。
「あ、悪い」
蓮が笑う。
「手ぇ滑った」
海斗は椅子を引き、床へ手を伸ばす。
拾って、終わらせる。
いつものように。
だが、蓮が先に端末を拾い上げた。
「へえ」
浮かんだ資料を見た蓮の口元が歪む。
「うわ。まだ保存してんのかよ、これ」
そこに映っていたのは、ストライカーFRAMEの資料だった。
灰白色の装甲。
背中に開いたスラスター。
低い姿勢で地面を蹴り、一瞬で敵陣へ飛び込む姿。
海斗が何度も開いていたもの。
何度も見て、何度も自分に重ねて、何度も諦めきれなかったもの。
「お前、また面談呼ばれてたよな」
蓮が、端末の表示を見下ろしたまま言った。
「三回目か。いや、四回目だっけ?」
海斗の喉が詰まる。
「教官にも言われてんだろ。このままFRAME座学を受けても意味ないって。一般支援課程に移れって」
海斗は答えなかった。
答えられなかった。
「なのに、まだこんなの見てんのかよ」
蓮が表示窓を周囲へ向けた。
「SILENTなのに、ストライカー志望?」
教室に笑いが広がった。
海斗の指先が、強く震えた。
「……返せよ」
「何を?」
「端末」
「これ?」
蓮は表示窓を覗き込み、わざとらしく読み上げた。
「接続反応、測定限界以下。推奨課程、一般支援課程。FRAME装着、非推奨」
笑い声が大きくなる。
「親切じゃん。ちゃんと書いてあるぞ」
蓮は海斗を見下ろした。
「お前は、着るなって」
胸の奥が、熱くなった。
恥ずかしいのか、悔しいのか。自分でも分からなかった。
「返せ」
海斗は立ち上がった。
蓮の手から端末を奪い返そうとする。
その瞬間、腹に衝撃が走った。
「っ――!」
蓮の拳が、深くめり込んでいた。
息が消える。
声も出ない。
膝から力が抜け、海斗は机に肩をぶつけて床へ崩れ落ちた。
教室から、笑い声が消えた。
誰かが小さく息を呑む音だけがした。
痛い。
息ができない。
腹の奥が熱く痺れて、身体が言うことを聞かない。
端末は、床に転がっていた。
「……止まった者が出れば、誰かが回収に向かう」
蓮の声が、頭上から降ってくる。
「さっき、教官も言ってただろ」
海斗は床の上で、必死に息を吸おうとした。
「動けない奴がいると、誰かが戻るんだよ」
蓮の声は低かった。
さっきまでの嘲りとは違っていた。
「俺の親父は、そういう奴を助けに戻って死んだ」
教室が静まり返った。
海斗は何も言えなかった。
そんなこと、知らない。
俺じゃない。
そう思った。
けれど、声にはならなかった。
「だから」
蓮が吐き捨てる。
「諦めろ。前に出るな、サイレント」
その言葉が、拳より痛かった。
やっぱり自分は。
何者にもなれない。
その時だった。
窓が、細かく震えた。
低い音だった。
空の上から、校舎全体を押し潰すように降ってくる音。
それは、誰かの歌のようにも聞こえた。
けれど、旋律はない。
意味のある言葉もない。
いくつもの声が同じ高さで重なり、ひとつの音になって近づいてくる。
「……何だよ、これ」
誰かが呟いた。
直後、警報が鳴った。
訓練の音ではなかった。
鼓膜を裂くような、本物の赤色警報。
『上空にCHORUS反応』
『防空圏、突破』
『全候補生は地下シェルターへ退避』
『繰り返す。全候補生は――』
放送が、途切れた。
窓の向こうで、光が走った。
一拍遅れて、校舎が内側から殴られたように揺れる。
窓が砕けた。
割れたガラスが教室へ吹き込み、外壁の破片が机の上を跳ねる。
海斗の身体も床から浮き、倒れた机へ背中から叩きつけられた。
「がっ……!」
肺に残っていた空気が、すべて押し出される。
腹を殴られた痛みに、背中を打ちつけた衝撃が重なった。手をつこうとしても腕に力が入らず、身体を起こせない。
悲鳴が上がった。
誰かの机が床を滑り、壁へ激突した。
天井の照明が激しく明滅し、赤い警報灯がぐにゃりと歪んで見えた。
頭上で、乾いた音がした。
天井に、細い亀裂が走っていた。
亀裂は枝分かれしながら広がり、その中心からコンクリートの破片が落ちてくる。
その隙間から、白いものが覗いた。
異様に長い、一本の指。
人間のものに似ているのに、関節の数も、長さも違う。
指先が天井の縁へかかり、ゆっくりと内側へ曲がった。
まるで、教室の中を探っているように。
『CHORUS反応、学園敷地内に侵入』
校内放送に、教官の声が割り込む。
『全候補生は地下シェルターへ退避! 負傷者を確認しろ! 動ける者は誘導を手伝え!』
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
止まっていた教室が、一斉に動き出した。
椅子が倒れる。
机が弾かれる。
生徒たちが出口へ押し寄せる。
海斗は床に倒れたまま、必死に息を吸おうとした。
「待っ……」
声が掠れる。
誰にも届かない。
目の前を、いくつもの足が駆け抜けていく。
誰も海斗を見ない。
誰も止まらない。
蓮だけが、まだ近くにいた。
逃げようとして、一歩目を踏み出せずにいる。
その視線は、海斗ではなく、天井から覗く白い指へ釘づけになっていた。
海斗は震える手を伸ばし、蓮の制服の裾を掴んだ。
「助け……」
蓮の肩が、びくりと震えた。
短く、目が合った。
助けてくれる。
そう思ってしまった。
だが、蓮の視線は再び崩れかけた天井へ向き、それからもう一度、海斗へ戻った。蓮の胸が、激しく上下していた。
逃げ遅れた、動けない人間。
それを助けに戻る人間。
蓮の中で、それが何かと重なったのが分かった。
「……手を離せ」
蓮が小さく言った。
「頼むから」
蓮は制服の裾を振り払い、背中を向けた。
そのまま、生徒たちの流れに紛れて廊下の奥へ消えていく。
「……くそ」
海斗は床に手をつき、どうにか身体を起こそうとした。だが、腕に力を込めた瞬間、腹と背中の痛みが鋭く跳ね、身体がくの字に折れる。
その時、さらに大きな衝撃が校舎を貫いた。
教室全体がねじれるように揺れ、残っていた窓ガラスが一斉に砕け散る。頭上では、亀裂の走った天井が嫌な音を立てて裂けた。
海斗は最後に、床に転がる端末を見た。
揺れる表示窓の中で、ストライカーFRAMEだけが、まだ飛び立とうとしていた。
海斗は震える指先を伸ばした。
届くはずがない。
それでも、伸ばした。
次の瞬間、天井が落ちた。
《FRAME/フレーム》
《CHORUS》に対抗するために開発された、神経接続型強化外骨格。
機械脊椎を通じて装着者の神経と接続し、身体の延長として装甲や兵装を操作する。高い適性が必要で、接続に耐えられない者には扱うことができない。
《CHORUS/コーラス》
人類と敵対する、正体不明の異形生命体。
人類の生存圏を脅かし、長年にわたって戦争を続けている。