「……姉さん」
掠れた声だった。
誰にも聞かせるつもりのない声。
けれど白い部屋は静かすぎて、その一言だけがやけに大きく響いた。
部屋の奥には、一人の男が立っている。
白峰創(しらみね・はじめ)。
第七要塞都市防衛管区を預かる現地司令官であり、結月の父。
黒い軍服に乱れはない。胸元の階級章も、伸びた背筋も、いつも通りだった。
ただ、頬はわずかに痩せていた。目元には浅い影が落ち、硬く結ばれた口元には、眠っていない者特有の疲労が滲んでいる。
父親ではなく、司令官の顔。
戦死報告を受け取り、損耗率を確認し、次の作戦を決める者の顔だった。
結月は、透明なケースから目を離さない。
「……どこで」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
白峰司令官は、短い沈黙を挟んで答える。
「第十三戦術学園、B-17区画」
「姉さんの遺体が見つかった場所ですか」
「そうだ」
結月は、認識票の横に表示された回収記録へ目を移した。
そこに記されているのは、姉の名前ではない。
回収対象――天音海斗。
結月の指先が、わずかに強張った。
「なぜ、姉さんの認識票が、天音海斗の所持品として回収されているんですか」
「回収時、彼が持っていた」
「姉さんの遺体から、持ち去ったということですか」
「映像が残っている」
白峰司令官はそれだけ答えると、壁際の端末へ指を滑らせた。
室内に小さな操作音が鳴り、監視記録を示す表示から音声波形だけが消える。
「……この部屋の音声記録を止めたんですか」
「ああ。監視映像は残る」
「規則違反です」
「分かっている」
それでも、白峰司令官は音声記録を戻そうとしなかった。
「姉の最期を見るお前の声まで、軍の資料として残す必要はない」
娘を慰める言葉を持たない彼にできるのは、せめて、その声を記録から守ることくらいだった。
白峰司令官が机上の端末を操作すると、空中に荒い映像が浮かび上がる。
赤いノイズ。
途切れかけた音声。
欠けた警告表示。
それでも、結月にはすぐに分かった。
これは姉の視界だ。
第八独立フレーム中隊《Grim Reaper》隊長。
灰狼。
白峰冴月(しらみね・さつき)。
結月の、たった一人の姉。
瓦礫の下にいる青年。
その前に立つ、白い異形。
青年を庇い、腹部を大きく損傷した灰色のFRAME。
画面の端では、欠けた警告表示が明滅している。
『推定――SERAPH class』
セラフ級。
出現すれば撤退が原則とされる、CHORUSの高位個体。
それでも、冴月は青年の前から退かなかった。
『……聞け』
掠れた姉の声が、白い部屋に流れる。
『お前は、生き残れ』
結月の呼吸が止まった。
『何してでも生きろ』
一度、苦しそうな息が混じる。
『化け物になってでもだ』
そこで映像が大きく乱れた。
画面が傾き、赤黒い瓦礫が視界を埋める。
姉の声は、もう聞こえなかった。
長い沈黙のあと、青年が冴月の前へ崩れるように膝をつく。
『ごめん……』
青年は泣いていた。
『ごめんなさい……』
震える手が、冴月の胸元に残された認識票へ伸びる。
乱暴に奪ったのではない。
壊れ物に触れるような、慎重な手つきだった。
青年は認識票を拾い上げると、血で汚れた制服の胸元へそっとしまう。
『……生き残る』
一度、息を詰まらせた。
『必ず……生き残るから……』
そこで記録は途切れた。
「……っ」
結月の喉から、押し殺しきれなかった声が漏れた。
唇を噛んでも涙は止まらず、一滴、また一滴と白い床へ落ちていく。
それでも結月は顔を伏せなかった。涙を拭うことさえせず、姉が最後に見ていた青年を、濡れた視界の中に捉え続ける。
白峰司令官は何も言わず、ただ娘の傍を動かなかった。
やがて投影が消え、白い部屋に元の明るさが戻る。
結月はゆっくりと呼吸を整え、ケースの中の認識票へ視線を落とした。
「……この人が、天音海斗」
「ああ」
「姉さんが、最後に守った人」
白峰司令官は、無言で頷いた。
天音海斗。
軍の報告では、汚染疑いの未分類対象。
CHORUS反応。
異常な再生能力。
対CHORUS弾への耐性。
ケルブ級を素手で撃退し、回収部隊から逃走。
並んでいるのは、青年自身を示す情報ではない。
すべてが、身体に起きた異常の記録だった。
だが、結月が先ほど見たのは、姉の死を前に泣き、認識票を壊さないように拾い上げた青年だ。
その姿を見たあとでは、報告書に並ぶ異常だけを理由に、彼を怪物とは呼べなかった。
「天音海斗は、このあとどうなるんですか」
「まだ決まっていない」
白峰司令官の返答を聞き、結月はわずかに息を詰めた。
「処分される可能性も?」
「危険な敵性個体と判断されればな」
「中央への移送は」
「それも、これから協議する」
「中央へ渡れば、研究対象として扱われるんですね」
白峰司令官は一度だけ目を伏せ、低い声で答えた。
「その可能性は高い。天音海斗は、これまで確認されたどの汚染個体とも一致しない。中央が関心を示さないはずがない」
処分対象か。
研究対象か。
どちらにしても、天音海斗は一人の青年として扱われない。
「姉さんが、命を懸けて守った人です」
「分かっている」
「なら――」
結月の言葉を、白峰司令官が遮った。
「私は、第七要塞都市を預かる司令官だ」
その声から、父親としての感情は消えていた。
「冴月の父親であることを理由に、危険性の確認されていない対象を無条件に保護することはできない」
結月は何も言えなかった。
危険なものを隔離する。
分からないものを測定する。
制御できないものから、要塞都市に暮らす人々を守る。
司令官として、父の判断は間違っていない。
間違っていないからこそ、苦しかった。
「……無条件に保護してほしいとは言いません」
結月は涙の跡が残る顔を上げた。
「天音海斗からCHORUS反応が出ているのは事実です。身体にも、説明できない異常がある。隔離と監視は必要だと思います」
白峰司令官は、口を挟まずに聞いている。
「ですが、それだけで彼の意思までCHORUS側に落ちたとは判断できません」
結月は、暗くなった端末の画面へ目を向けた。
「天音海斗には、まだ人間としての意思が残っています」
「記録だけで断定はできない」
「だから、確かめる必要があります」
結月は父へ向き直った。
「天音海斗を、第七管区内に置いてください」
白峰司令官の眉が動く。
「何を根拠に置く」
「私が監視します」
結月は迷わず答えた。
「冴月の妹だからか」
「……それもあります」
結月は否定しなかった。
「ですが、それだけで申し出ているわけではありません」
涙を拭い、改めて姿勢を正す。
「私は第七要塞都市中央戦術学園の軍属訓練生です。FRAME適性評価では上位にいます。対CHORUS戦闘訓練、隔離対象との接触手順、緊急制圧判断の課程も修了しています」
「訓練を修了したことと、未分類対象を監視することは同じではない」
「分かっています」
結月の手が、白い軍属訓練服の袖口を掴む。
先ほどまで震えていた指先を、押さえ込むように。
「それでも、天音海斗の監視役には、私が適任だと考えます」
「根拠は」
「姉さんです」
結月は、ケースの中の認識票を見た。
「彼は、姉さんに生きると約束しました。姉さんの言葉を覚えている限り、その妹である私の声にも耳を傾ける可能性があります」
姉の最期を見た青年が、どんな人間なのか知りたい。
姉が命を懸けて守ったものを、報告書に並ぶ数値だけで怪物にされたくない。
その思いを、結月は否定できなかった。
「私に、見届けさせてください」
父の目をまっすぐに見据える。
「天音海斗が、これから何になるのか」
声は、もう震えていなかった。
「私が傍で確かめます」
白峰司令官は答えず、割れた認識票と、記録の途切れた端末へ順に目を向けた。
最後に、涙の跡を残したまま立つ娘を見る。
「天音海斗の処遇は、これから中央との会議で決まる」
「はい」
「私の判断だけでは決められない」
「分かっています」
「お前の申し出が認められる保証もない」
結月は目を逸らさなかった。
「それでも、お願いします」
白峰司令官は、しばらく娘を見つめていた。
その目に浮かんだものが、司令官としての迷いなのか、父親としての心配なのか、結月には分からない。
「……覚えておく」
それだけを告げ、白峰司令官は扉へ向かった。
白い扉が開く。
「結月」
部屋を出る直前、白峰司令官が足を止めた。
「冴月が守ったからといって、天音海斗が安全だとは限らない」
「はい」
「お前が監視役になれば、必要な時には自分の手で止めなければならない」
結月の指先が、かすかに強張る。
それでも、答えに迷いはなかった。
「その覚悟も含めて、申し出ています」
白峰司令官は何も答えず、白い部屋を出ていった。
扉が閉じる。
結月は一人、証拠保管室に残された。
透明なケースの中には、姉の割れた認識票。
結月は、ケースの中の認識票を目に焼きつけるように見つめた。
声には出さない。
唇だけが、小さく動く。
――私が見届ける。
それから静かに踵を返し、証拠保管室を後にした。