レクイエム・フレーム ―FRAMEを纏えない青年― 作:momomotototo
白峰結月は、待機室にいた。
測定区画から少し離れた、軍関係者用の小さな部屋だった。壁は白く、窓はない。天井には細長い照明が埋め込まれ、机の上には端末も資料も置かれていなかった。
本来なら、軍属訓練生である結月がFRAME適性測定の管制に立ち会うことはできない。
白峰創から許されたのは、測定後の判断が下るまで、この部屋で待つことだけだった。
天音海斗――姉が最後に守った青年の名前だけが、結月の中で何度も反響していた。
測定室で何が行われ、父や中央が彼をどう判断するのか、結月には何も知らされていない。
扉一枚隔てた向こうですべてが決まっていくのに、自分に許されているのは、ただ待つことだけだった。
結月は膝の上で拳を握り、閉ざされた扉を見つめた。
その時だった。
床が、強く震えた。
「……っ!」
結月は反射的に椅子から立ち上がった。
測定区画の方角から、床を突き上げるような重い衝撃が伝わってくる。
天井の照明が細かく震え、壁際の端末に赤い警告表示が走る。
扉の向こうから、慌ただしい軍靴の音と、くぐもった怒号が聞こえてきた。
結月は椅子を離れ、待機室の扉を開ける。
白い廊下を、武装した兵士たちが走っていた。
「下がれ、下がれ!」
兵士の声に、通信機から漏れた報告が重なる。
『対象、制御不能!』
『投入したFRAME兵、行動不能!』
『NOCTURNEはまだか!』
断片的な言葉は、結月の中で一つの名前へ収束していった。
天音海斗。
待機しろと言われている。それでも、何も知らないまま座っていられる状況ではなかった。
「何が起きているんですか」
近くを走り抜けようとした兵士が、結月に気づいて足を止めた。
「白峰候補生、待機室へ戻ってください」
「教えてください。天音海斗は、今どうなっているんですか」
「命令です。ここから先は立入禁止です」
兵士はそれ以上説明せず、測定区画の方へ走っていった。
結月は廊下の先を見る。
非常灯に照らされた通路の奥へ、武装した背中が次々と消えていく。
結月は唇を噛み、待機室へ戻ると、壁際の通信端末に手を伸ばした。
繋ぐ先は一つしかない。
「お父様」
数秒の沈黙の後、通信が繋がった。
『結月。待機室から出るな』
「測定区画で何が起きているんですか」
『答える必要はない』
「天音海斗に、何かあったんですね」
通信の向こうで、わずかな間が空いた。
それが答えだった。
結月は端末を握る手に力を込める。
「お父様」
『待機しろと言ったはずだ』
「姉さんの記録を流してください」
通信の向こうで、空気が止まった気がした。
『……何を言っている』
「姉さんの最終交戦記録です。姉さんが、海斗さんに残した言葉を」
『……許可できる内容ではない』
「制圧班も、FRAME兵も止められなかったんですよね」
『お前が知る必要はない』
「否定は、しないんですね」
返答はなかった。
だが、その沈黙は先ほどよりも重かった。
「だったら、これ以上同じことをしても、誰かが傷つくだけです」
『精神刺激で悪化する可能性がある』
「それでも、今のままでは誰かが死にます」
結月は退かなかった。
「姉さんの言葉なら、今の海斗さんにも届くかもしれません」
通信の向こうで、管制官の声が重なる。
『神崎伊織、全奏解放準備!』
『対象、全奏解放反応増大!』
『接触します!』
結月は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、戦場へ向かう姉の背中、いつも少し乱れた銀灰色の髪、面倒くさそうに笑う声。
そして、もう二度と戻らない人。
「お願いします。お父様」
長い沈黙があった。
その沈黙の奥で、白峰創が何を考えているのか、結月には分からなかった。
司令官としての判断か。
父としての痛みか。
それとも、姉をもう一度記録の中から呼び戻すことへの迷いか。
やがて、通信の向こうで声が落ちた。
『……第八独立フレーム中隊《Grim Reaper》、REAPER-1の最終交戦記録を呼び出せ』
『司令、本気ですか』
『流せ』
短い沈黙。
『責任は私が取る』
◇ ◇ ◇
黒白と蒼白――二色の粒子が、測定室を満たしていた。
伊織が二本の短刀を構え直した途端、切断された首の感覚が蘇った。
彼女は敵ではない。
そう分かっていても、黒い棺は海斗の理性より先に、身体に残った恐怖を拾った。
『接続対象、拒絶反応を検出』
『対象、高エネルギー反応』
『殺傷準備』
黒いFRAMEが、伊織へ向かって動き出そうとした。
その時、測定室の大型モニターが白いノイズを吐いた。
警告表示が乱れ、赤黒い戦場の映像が壁一面に割り込む。
燃える校舎。
崩れた廊下。
舞い上がる灰。
そして、ノイズ混じりの女の声。
『お前は、生き残れ』
海斗の意識が、暗い底で震えた。
忘れられるはずがない。瓦礫の中で、自分に向けられたあの声だ。
『何してでも生きろ』
映像の中に、血と煤で汚れた灰色の腕がわずかに映る。HUDは乱れ、赤い警告表示が視界を埋めていたが、その声だけははっきりと残っていた。
『化け物になってでもだ』
黒いFRAMEの動きが、ほんのわずかに鈍る。
背後の棺が低く軋んだ。
『接続対象、記憶反応』
『拒絶反応、低下』
海斗は、改めて周囲を見た。
倒れている兵士たち。壁際に崩れた雫。片膝をつく相馬。短刀を構えた伊織。そして、戦闘によって破壊された測定室。
どれも戦っている間から見えていた。それでも今は、自分が引き起こした結果として、逃れようのない重さを持って迫ってくる。
自分を覆う黒い装甲と、背後にある黒い棺。
あれは自分を守るために、これだけの人を傷つけた。
「……やめろ」
小さな声だった。
それでも、今度は確かに外へ出た。
黒いFRAMEの動きが止まり、伊織も短刀を構えたまま踏みとどまった。
『脅威、残存』
背後の棺が告げる。
『排除継続を推奨』
「違う……」
海斗は、喉の奥から声を絞り出した。
「敵じゃ、ない……」
『脅威対象、武装継続』
「違う」
海斗は繰り返した。
目の前の伊織が怖い。短刀を向けられれば、切断された首の感覚が蘇る。
それでも、殺していい相手ではない。傷つけていい理由にはならない。
「もう……いい」
黒い棺が、低く軋む。
『接続対象、音声命令を確認』
『保護行動、停止』
『殺傷処理、中断』
黒い装甲の白い亀裂光が、少しずつ弱くなっていく。
全身を覆っていた外骨格は、腕から肩へ、胸から脚へと細かく割れるようにほどけ、剥がれ落ちることなく内側へ沈んでいった。
背中に張りついていた黒い棺がゆっくりと離れ、白い腕を引っ込める。黒い外殻が閉じると、棺は墓標のような影だけを残して海斗の背後に立った。
解放された瞬間、海斗の膝から力が抜けた。
「あ……」
受け身を取る余裕もなく床へ崩れ落ち、そのまま意識が遠のいていく。
最後に見えたのは、モニターに映る赤黒い戦場だった。
灰に濁った映像の中で、あの声だけがもう一度響いた気がした。
『生き残れ』
海斗は、そこで意識を失った。
◇ ◇ ◇
測定室は、しばらく誰も動けなかった。
黒い棺は、海斗の背後で沈黙している。
倒れた海斗へ近づこうとした兵士が一歩踏み出した瞬間、棺の外殻がわずかに開いた。
全員の足が止まる。
『全隊、発砲禁止』
管制通信から、白峰創の声が響いた。
『対象を刺激するな。救護班は待機。NOCTURNE、現場判断を報告しろ』
伊織は短刀を構えたまま、倒れた海斗と黒い棺を見ていた。
全奏解放による蒼白い粒子が、まだ装甲の隙間から揺れている。
だが、彼女は踏み込まない。
黒い棺が、まだ見ている。
そんな気がした。
「……灰狼さんじゃん」
伊織が、小さく言った。
相馬が顔を上げる。
「伊織さん、知ってるんですか」
雫が壁際から短く答えた。
「第八独立フレーム中隊《Grim Reaper》。隊長、灰狼」
「《Grim Reaper》……?」
相馬の声から、軽さが消えた。
「そういうこと。生きてるうちに会ってたら、こっちが敬礼する側」
伊織は軽く答えたが、その声はいつもより低かった。
彼女は、倒れた海斗へ視線を戻す。
「で、その人の記録で止まるってことは……」
伊織はそこで言葉を切った。
海斗は、灰狼の認識票を持っていた。そして今、彼女の最終交戦記録に反応して、黒い棺を止めた。
二人に何らかの関わりがあったことは、もう疑いようがない。あの記録に残された言葉は、この青年へ向けられたものだったのだ。
伊織は、倒れた海斗と、その背後に立つ黒い棺を見比べる。
だが、灰狼の記録が直接、黒い棺を止めたわけではない。
声を聞いた海斗が自分の意思を取り戻し、自分の言葉で止めた。その命令に、黒い棺が従った。
戦闘中、黒い棺は何度も海斗の恐怖を検出し、それを理由に保護行動を続けていた。あれは無秩序に暴れていたのではなく、海斗へ向けられた脅威を排除しようとしていたのだ。
ならば、銃を向ければ海斗が怯える。拘束しようとすれば、黒い棺が彼を守ろうとする。
制圧しようとするほど、海斗の恐怖を通じて黒い棺を刺激することになる。
「……最悪」
伊織は小さく呟いた。
短刀を下ろさないまま、通信へ答える。
「対象、戦闘停止。本人は意識喪失。黒い棺は沈黙中」
『接近可能か』
「おすすめしません」
即答だった。
「撃たないでください。近づきすぎないでください。今刺激したら、たぶんまた起きます」
『了解した』
白峰創の声は、短かった。
『救護班、非武装で待機。拘束具は使うな。まず対象の生命維持を優先しろ』
その命令に、管制側の声がざわついた。
『司令、拘束なしでの搬送は危険です』
『ならば気絶した青年一人を、ここで殺すか』
通信の向こうから、反論は返らなかった。
『命令は変えん。対象を刺激するな』
伊織は、通信を聞きながら小さく息を吐いた。
目の前の黒い棺は動かない。
それでも、測定室の誰もが分かっていた。
これは眠っているわけではない。
ただ、海斗の命令を聞いて止まっているだけだ。
◇ ◇ ◇
管制室の隅で、黒鷺玄真だけが沈黙していた。
モニターには、膝から崩れ落ちた天音海斗と、その背後で動きを止めた黒い棺が映っている。
制圧部隊の損耗表示、隔離区画の破損状況、警告色に染まったログ。そのすべてが、黒い棺の停止と同時にようやく更新を止めていた。
黒鷺が見ていたのは、倒れた海斗でも、その背後の棺でもない。画面の端に並ぶ反応値と、停止直前の出力推移だった。
管制室が静まり返る中、短い電子音が鳴った。
白峰が振り向く。
黒鷺の細い指が端末から離れ、画面の隅に《記録保存完了》の表示が浮かんでいた。
「黒鷺」
黒鷺は画面を見たまま、わずかに目を細める。
「貴様、今何を保存した」
「必要な記録です」
黒鷺は、それ以上何も言わなかった。
白峰は、しばらく黒鷺を見ていた。
この男は、驚いていない。
恐れてもいない。
ただ、確認したのだ。
天音海斗という一人の青年ではなく。
第七封印体が反応するための、条件を。