レクイエム・フレーム ―FRAMEを纏えない青年― 作:momomotototo
戦場で見た黒紫の装甲は、どこにもない。
肩からずり落ちかけた黒いジャケットと、その下に着た軽装のインナー。首元には細い接続端子の痕があり、片手にだけ黒いグローブをつけていた。
額をシーツへ預けたまま、少女の顔はわずかに海斗の方を向いている。
長い睫毛。
静かな寝息。
消毒液の匂いの中に、かすかに甘い髪の匂いが混じっていた。
海斗の身体が硬直する。
女の子が、こんな近くにいる。
それだけで、呼吸の仕方が分からなくなりかけた。
人と距離を詰めるのが苦手な海斗には、どうすればいいのか分からなかった。
まして、その相手はただの少女ではない。
伊織。
苗字までは知らないが、自分の腕を斬り落とし、最後には首まで切断したPHANTOMだ。
黒紫のFRAMEをまとっていた姿と、今、目の前で眠っている少女の姿が、うまく重ならない。
海斗は動けなかった。動けば起こしてしまう。だが、心臓の音だけが勝手に大きくなり、胸元に額を預けている少女にまで聞こえてしまいそうだった。
その時、伊織の瞼がゆっくりと上がった。
淡い菫色の瞳が、眠たげに海斗を見上げる。
「……あ」
伊織は何度か瞬きをしてから、海斗の顔を見た。
「起きたんだ」
まるで、朝の挨拶でもするような声だった。
伊織は、頭を預けていたことに今さら気づいたように、ゆっくり身体を起こした。
背中を伸ばし、片手で口元を押さえながら小さく欠伸をする。
「ん……どれくらい寝てたんだろ」
少し寝癖のついたミントグリーンの髪を、指先で軽く整える。
「あ……あの」
海斗は、どうにか声を出した。
「ここは……」
「医療隔離室だよ」
伊織は椅子に座り直し、ベッドの横に置かれた端末へ指を滑らせた。
画面に、海斗の脈拍や神経反応らしき数値が流れる。
「目、覚めたって伝えないとね」
その言葉で、海斗はようやく周囲を見た。
白い部屋。
病室に似ているが、普通の病室ではない。
壁にはいくつものセンサーが埋め込まれ、天井の隅には監視カメラがある。
ベッドの脇には医療端末、点滴装置、神経波形を映すモニター。
扉は厚く、内側から開けるための取っ手が見えない。
そして、部屋の奥。
壁際の影の中に、それがあった。
黒い棺。
表面には、白い亀裂のような光が細く走っている。その光は、胸の奥に重なるもう一つの鼓動と同じ間隔で脈打っていた。
あれに呑み込まれ、黒い装甲に包まれた。兵士を吹き飛ばし、機械脊椎を食べた。
断片的な記憶が、熱を持って蘇る。
「俺……」
海斗の声が震えた。
「俺、人を……」
「殺してないよ」
海斗の顔が上がる。
伊織は端末の表示を眺めながら、ミントグリーンの髪を指で耳の後ろへ流した。
「かなり派手に怪我はさせたけど、少なくとも君が殺した人はいない」
殺していない。
それでも、人を傷つけたことも、自分の意思で止められなかったことも変わらない。
「……俺が、やったんですか」
「うん」
伊織は隠さなかった。
「君というより、君の後ろのあれがやった、の方が近いかもしれないけど」
彼女は顎で部屋の奥を示した。
「……あれは、何なんですか」
「正式には、第七封印体――《ORIGIN-07》」
「オリジン・ゼロセブン……」
「軍では、07って呼んでる」
海斗は黒い棺を見た。
「ORIGINって、何なんですか。07ってことは、あんなものがほかにもいるんですか」
「そっか。学生には知らされてないんだ」
伊織は椅子の背にもたれた。
「ORIGINは、かつて地上を滅ぼした元凶――CHORUS災害の中核個体につけられた名称だよ。簡単に言えば、CHORUSのボスみたいなもの」
海斗は言葉を失った。
「それが、何体も……?」
「いたらしいよ。今も残っていると確認されてるのは、07だけみたいだけど。少なくとも、私が知らされてる範囲ではね」
伊織は、そこで言葉を切った。
「その07、君から離せないみたい」
海斗は息を止めた。
「離せないって……どういうことですか」
「君をここへ運ぶ時、あれは測定室に残してたんだよ。危ないからね。でも、五十メートルくらい離れたところで動き出した」
海斗の指が、シーツを強くつかんだ。
「それで……どうなったんですか」
「隔壁を突き破って、君を追いかけてきた」
「俺を追って、ここまで来たんですか」
「そう。君の近くまで来ると、そこで止まった。だから今は同じ部屋に置いてる。刺激しない方がいいって判断」
海斗は黒い棺から目を離せなかった。
そんなものが、自分の近くにいる。
自分を守るために。
いや、本当に守るためなのかも分からない。
もし自分が眠っている間に誰かが近づいたら。
もし、あれが誰かを敵だと判断したら。
「なんで、俺なんですか」
海斗は胸元を押さえた。
「それは、私も知らない」
伊織は即答した。
「知ってる人はいると思うけど、私には教えてもらえない」
海斗は、少し迷ってから口を開いた。
「あなたは……伊織さん、ですよね」
「うん。神崎伊織」
伊織は眠気の残る目で小さく頷いた。
「NOCTURNE所属。兵科はPHANTOM」
そこまで言ってから、海斗の腕へちらりと目を向ける。
「君の腕を斬って、最後に首を落とした人」
言い方があまりにも自然で、海斗は一瞬反応できなかった。
伊織は椅子の背にもたれ、片膝を軽く引き寄せた。
ずり落ちかけた黒いジャケットと、揺れたスカートの裾が、病室の白さの中でやけに目立つ。
海斗は一瞬だけ視線の置き場に迷い、慌てて伊織の顔を見た。
「ごめんね。痛かったでしょ」
謝罪の言葉なのに、声はどこか平坦だった。
痛かった。
そんな一言では足りない。
あの時の感覚が蘇り、冷や汗が海斗のこめかみを伝った。身体の震えを止めることができなかった。
伊織は、それを見て小さく首を傾げる。
「まだ怖い?」
「……はい」
否定できなかった。
「そっか」
伊織はベッド脇に肘をつき、少しだけ顔を近づける。
「ねえ」
淡い菫色の瞳が、海斗を覗き込んだ。
「なんで止まったの?」
「え……?」
「あれ」
伊織は黒い棺を指した。
「私たちが止めようとしても止まらなかった。でも、映像が流れたら止まった」
シーツの上で、海斗の指がわずかに動いた。
あの声。
――お前は、生き残れ。
「あの人は……」
海斗は、ゆっくりと言った。
「あの人は、俺を救ってくれた人です」
伊織の表情が、少しだけ変わった。
眠たげだった瞳の奥に、かすかな興味とは別のものが揺れる。
海斗は尋ねた。
「あの映像の人は……誰なんですか」
「それは――」
伊織が答えようとした時だった。
病室の扉のロックが低く鳴った。
伊織が顔を上げる。
厚い扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、一人の少女だった。
白銀の髪。
肩下まで伸びた髪は乱れなく整えられ、白い照明を受けて淡く光っている。
色の薄い肌に、細面の整った顔立ち。
赤い瞳は涼しげで、その表情から感情を読み取ることはできなかった。
身にまとっているのは、白い軍属訓練服だった。
少女は海斗を見た。
次に、部屋の奥の黒い棺を見た。
そしてもう一度、海斗へ視線を戻す。
「白峰冴月」
静かな声だった。
海斗の呼吸が止まる。
「あの映像に映っていた人の名前です」
少女は、わずかに間を置いて続けた。
「私は白峰結月。白峰冴月の妹です」
白峰冴月。
あの人の名前。
灰白色のFRAMEで、自分を守ってくれた人。
死ぬ直前まで、自分に生きろと言った人。
その妹が、目の前にいる。
何を言えばいいのか分からないまま、海斗の身体が先に動いた。
上体を起こすと、腕や胸に繋がれていた医療用コードが張り詰め、いくつかの端子が皮膚から剥がれた。モニターが短い警告音を鳴らす。
「動かない方がいいよ」
伊織が軽く言った。
それでも、海斗は止まれなかった。
「ごめんなさい」
口から、勝手に言葉がこぼれた。
結月の足が止まる。
「ごめんなさい。俺は、あの人に助けられて、それなのに……」
海斗は顔を上げられなかった。
助けられたこと。自分だけが生き残ったこと。あの人が傷ついていくのを、ただ見ていることしかできなかったこと。
そのすべてが、海斗には自分の罪のように思えた。
「謝らないでください」
結月の目元が、わずかに潤んでいた。それでも、その声は静かだった。
「あなたが謝ったら、姉さんが命を懸けて守ったものまで、間違いになってしまいます」
その言葉に、海斗の喉が詰まった。
「姉さんは、あなたに生きろと言いました。なら、まずは生きてください。謝るのは、その後でいいです」
結月はベッド脇まで歩いてきた。
伊織が椅子を少しずらす。
「起きて早々に重い話で悪いけど」
伊織が言った。
「この人、君の監視役になる予定」
海斗は顔を上げた。
「監視……」
「正式には、監視観察です」
結月は姿勢を崩さないまま言った。
「あなたはまだ、通常の生存者として扱われていません。軍の記録上は、未分類対象です」
未分類対象。
人間でも、敵でもない。
何なのか分からないもの。
海斗は伊織を見た。
「伊織さんは?」
「私は、止める役……かな」
「止める……」
「万が一、何かあった時にね」
伊織はそれ以上説明しなかった。
海斗も、それ以上は尋ねられなかった。
「中央から、あなたを第七管区内で管理できるか確認しろと命じられています。その観察場所として選ばれたのが、第七要塞都市高度戦術学園です」
中央都市。
各要塞都市を統括し、《絶対安全圏》と呼ばれる人類圏の中枢。
だが、軍用便を除けば、そこへ至る道はどれも命懸けだった。空路、海路、地下を走る一般便には常にCHORUS襲撃の危険があり、比較的安全な軍用便を利用するには、特別な許可か多額の費用が必要になる。
海斗の周囲に、中央都市を訪れた者は一人もいなかった。
行ったこともない場所からの命令が、自分と07の処遇を左右している。
まだ、実感が湧かなかった。
「なぜ、俺が学園に?」
「あなたを通常の学生として編入させるためではありません」
結月は、まっすぐに海斗を見た。
「高度戦術学園には、FRAME適性測定設備、医療隔離区画、緊急時に対応できるFRAME部隊が揃っています。まずは特別管理区画であなたと07を観察し、状態が安定していると確認できれば、行動範囲や他者との接触を段階的に広げていきます」
結月は一度言葉を切り、隔離室を見回した。
「この部屋に閉じ込めたままでは、隔離区画の外でも管理できるか判断できませんから」
学園へ戻れるわけではない。
別の場所へ移され、そこで観察されるだけだった。
「当初、中央はあなたを引き取るつもりでした。ですが、07と接続したあなたを拘束し、移送するのは現実的ではないと判断した」
それまで眠たげだった伊織の目が、わずかに細くなった。
「現実的ではないから、ね……」
結月が伊織を見る。
「何か?」
「海斗くんが未分類体になったのは、07が封印されていた第七要塞都市。そこで適性測定を受けたら、眠っていた07が目を覚まして、海斗くんと接続した」
伊織は指先にミントグリーンの髪をくるくると巻きつけ、ぱっと離した。
「偶然にしては、全部ちょっと出来すぎてるなって」
結月は伊織を一瞥した。
「……今は、憶測でしかありません」
言われてみれば、一つずつの出来事が、海斗を07へ導くために用意されていたようにも思えた。
もし、すべてが最初から仕組まれていたのだとしたら――。
結月は海斗へ向き直った。
「そこで、条件付きで第七管区による現地管理が認められました」
「条件……?」
「すべての観測記録を中央へ提出すること。そして、常時監視役を置くことです」
海斗の視線が結月へ向く。
「恐怖や混乱の中でも自分の意思を保ち、07を制御できるのかを確認します。その記録が、第七管区で管理可能だと、私の父――白峰創司令官が中央へ主張するための根拠になります」
海斗は視線を落とした。
これからは、何をするにも、すべて中央へ送られる記録になる。
「俺が07を制御できると証明したところで、何だっていうんですか」
抑えていたものが、言葉になってこぼれた。
「兵器として管理される場所が、中央から第七管区に変わるだけじゃないですか。俺は……兵器じゃない」
「中央には、そう思わせておけばいいんです」
予想していなかった答えに、海斗は結月を見た。
「中央があなたを何だと判断していても、第七管区で管理可能だと認めさせれば、ここに残せます」
結月は海斗から目を逸らさなかった。
「第七管区の管理下にいる限り、父の命令が優先されます。父は、あなたを未分類対象ではなく、一人の人間として扱うと決めています。中央へ渡れば、その保証はありません」
管理されることに変わりはない。それでも、その記録は自分を縛るためだけでなく、中央へ渡さないための盾にもなる。
人間として扱うという白峰創の方針を、今すぐ信じ切ることはできなかった。それでも、中央へ渡されるよりは、ここに残る方がいい。
選べる道は、最初からほとんど残されていない。
「……分かりました」
それでも、どちらへ進むかだけは、自分の口で決めたかった。
海斗は結月を見た。
「行きます。学園に」
結月は小さく頷いた。
伊織は、眠たげに笑う。
「素直でよろしい」
部屋の奥で、黒い棺の亀裂光が、海斗の答えを聞き届けたように一度だけ強く明滅した。
あれも来る。
自分と一緒に。
もう、離れられない。