振り返らなかった。
振り返れば、また動けなくなる気がした。
彼女が倒れている場所を見てしまえば、足はきっと止まる。
泣くことも、謝ることも、もうさっきやった。
それでも何かを返せた気はしなかった。
胸の奥には、割れた認識票の硬い感触がある。
それだけが、海斗を前へ押していた。
崩れた教室の出口を抜けると、焼けた霞(かすみ)が廊下の奥へ流れていた。
廊下は、原形をほとんど残していない。
天井の一部は崩れ落ち、剥き出しになった配線が焼けた血管のように垂れている。床には割れたガラス片や黒く炭化した教材が折り重なり、足を踏み入れる隙間さえなかった。
煙で視界は濁っているはずなのに、床に散ったガラス片の縁まで妙にはっきり見えた。
海斗は壁に手をつきながら、半分崩れた階段を降りた。
階段の下には、別棟へ続く細い廊下が口を開けている。
壁際には、半分焼け落ちた避難誘導表示が残っていた。
『地下シェルターへ――』
『地下シェ――避難――』
壊れた音声だけが、同じ言葉を繰り返していた。
地下シェルター。
そこまで行けば、まだ誰かいるかもしれない。
海斗は誘導表示の示す方へ足を向けた。
数時間前まで学園だった場所は、今では血と灰の臭いに塗り潰されている。
「……」
海斗は目を逸らした。
見ていたら、足が止まりそうだった。
生きる。
女の言葉を、何度も胸の中で繰り返す。
生きるんだ。
何してでも。
そう思った時だった。
ギチ、と音がした。
海斗の足が止まる。
人間の足音じゃない。
「……っ」
息が詰まった。
距離が分からないほど、生々しく聞こえる。
すぐそこにいる。
爪がコンクリートを削るような音に混じって、濡れた喉が鳴る音や、牙の隙間から漏れる呼吸まで聞こえてくる。
ぬちゃり、と唾液が落ちる音がした。
海斗は息を詰めたまま、爆風で裂けた壁の隙間を恐る恐る覗き込んだ。
白濁した複眼が、こちらを見ていた。
さっき海斗を襲った、あの四足の異形。
目の前にいる。
「……ぁ」
見つかった。
そう思うより早く、身体が動いていた。
海斗は、廊下へ向かって走り出した。
一歩。
床が砕けた。
「え――」
視界が流れる。
速い。
速すぎる。
廊下の壁が、赤い線みたいに横へ飛んでいく。
二歩目。
コンクリートが蜘蛛の巣状に割れる。
三歩目。
身体がさらに前へ押し出された。
自分の脚じゃない。
自分の速度じゃない。
呼吸が追いつかない。
心臓だけが、やけに静かだった。
「止まれ……!」
海斗は足を踏ん張ろうとした。
だが、床が先に砕けた。
靴底の下でコンクリートが弾け、身体が前へ滑る。
「止まれって……!」
壁が迫る。
白く焼けたコンクリート壁。
曲がった鉄筋。
割れた警告灯。
それら全部が、ひとつの塊みたいに目の前へ押し寄せた。
止まれ、止まれ、止まれ――。
海斗の身体が、壁へ突っ込んだ。
コンクリートと鉄筋をまとめてへし曲げ、粉塵を爆ぜ散らしながら、崩れた壁の向こう側へ転がり込む。
「がっ……!」
床に叩きつけられる。
肺から息が抜けた。
砕けた建材が背中に当たる。
痛い。
だが、折れていない。
潰れていない。
死んでいない。
海斗は粉塵の中で、荒く息を吐いた。
目の前には、自分が突き破った壁があった。
厚いコンクリートは内側から爆ぜたように砕け、曲がった鉄筋が肋骨みたいに剥き出しになっている。
人間がぶつかって壊せるものではない。
少なくとも、昨日までの海斗なら、壁にぶつかった時点で骨が折れていた。肺が潰れて、立ち上がることさえできなかったはずだ。
なのに、今は違う。
痛みはある。
けれど、身体は壊れていない。
壊れたのは、壁の方だった。
「……なんだよ、これ」
声が震える。
身体全部がおかしい。
力も、速度も、痛みの残り方も。
何もかも、知っている自分と違っていた。
海斗は震える手で胸元を押さえた。
服の下。腹の奥。そこがまだ熱い。
どくん。
また、小さく何かが脈打った気がした。
海斗は、粉塵の中で身を起こした。
やがて、舞い上がっていた粉塵が少しずつ薄れていく。
肩で息をしながら、顔を上げた。
自分が突き破った壁の穴。
その向こうには、壊れた教室の残骸が広がっていた。
さらにその先――さっき異形を見た、崩落壁の裂け目がある。
そこから、外の景色が覗いていた。
焼け焦げたグラウンドには、訓練用FRAMEの残骸がひしゃげたまま転がっている。照明塔は根元から折れ、赤みを帯びた煙が、倒れた鉄骨の隙間をゆっくりと流れていた。
そのさらに向こう。
崩壊した校舎の外縁部に、四足の異形がいた。
遠い。
あまりにも遠い。
少なくとも、数百メートルは離れている。
「……は?」
海斗は言葉を失った。
さっき、すぐ近くだと思った。
壁の隙間にいると思った。
目の前にいると思った。
息遣いまで聞こえた。
唾液が落ちる音まで分かった。
なのに違った。
異形は、ずっと遠くにいた。
それなのに、今も聞こえる。
ギチ。
ギチ、ギチ。
爪が建材を掻く音。
濡れた呼吸。
喉の奥で鳴る、低い唸り。
遠い。
なのに、近すぎる。
音も、匂いも、視界も。
全部が、人間の距離感から外れていた。
異形の白濁した複眼が、微かに動くのまで見えてしまう。
海斗の喉が、ひゅっと縮んだ。
「……嘘だろ」
近かったのは、異形ではなかった。
おかしかったのは距離ではなく、海斗自身の感覚だった。
海斗は後ずさる。砕けた壁の破片が、足元で崩れた。
止まっている場合じゃない。
ここにいたら、今度こそ殺される。
そう思っただけで、脚の奥に力が溜まっていく。
海斗は唇を噛んだ。
「……なんなんだよ、俺……」
灰混じりの煙が流れ込む。
遠くで異形が、ゆっくりとこちらを向いた。
今度こそ、本当に見られた気がした。
海斗は息を殺し、崩れた壁の陰へ身を沈めた。
外では炎が揺れている。
壊れた学園のどこかで、警報がまだ鳴っている。
その音に混じって、別の気配が近づいてきた。
重い足音。
硬い駆動音。
砕けた建材を踏み越える音。
そして、ノイズ混じりの人間の声。
『第十三戦術学園、B-17区画に到達』
『周辺クリアリング開始』
『生存者反応を再確認』
海斗は、崩れた壁の陰で息を止めた。
人の声だ。
軍の無線だ。
助けが来た。
「……助かる……」
掠れた声が、喉から漏れる。
ようやく終わる。
そう思った瞬間だけ、膝から力が抜けそうになった。
あの女の言葉を、無駄にしなくて済む。
海斗は震える足に力を入れ、壁に手をつきながら、ゆっくりと身体を起こした。
崩れた廊下の向こうから、白いライトが差し込む。
眩しさに目を細めると、光の向こうに複数の人影が見えた。
全身を黒灰色の防護装備で覆い、ヘルメットと呼吸フィルターを装着した兵士たちだった。手には小銃が握られている。
救助隊にしては、あまりに物々しかった。
担架も、医療キットも見えない。
彼らが持っているのは、人を運ぶための装備ではなく、人を撃つための銃だった。
海斗にも、それだけは分かった。
それでも、そこにいるのは化け物ではなかった。
人間だった。
「……こ、こっち……」
声を出そうとする。
だが喉が乾き切っていて、まともな音にならない。
代わりに、足元の破片が小さく鳴った。
それだけだった。
しかし、兵士たちは一斉に反応した。
『反応あり』
『前方、崩落壁内部』
『生存者反応、一』
『対象、学生服。負傷あり』
ライトが、海斗の顔を照らす。
「……っ」
眩しさに顔を歪めながら、海斗は震える手を上げた。
血に汚れた右手。
戻ってしまった左腕。
灰と赤黒い汚れにまみれた制服。
自分が敵ではないと示したかった。
助けてほしかった。
ただ、それだけだった。
「たす……けて……」
言葉にならない声が、喉の奥で掠れて消えた。
だが。
『待て』
兵士の声が変わった。
短く、硬い声だった。
『対象からCHORUS反応』
『濃度、危険域』
近づきかけていた足音が、止まる。
ライトの角度が変わった。
銃口が、上がる。
「……え」
海斗は理解できなかった。
コーラス反応。
俺から。
何を言ってるんだ。
CHORUSは、あの怪物どものことだろ。
『撃て』
短い命令だった。
『待ってください、学生です』
別の兵士の声が割り込む。
若い声だった。
迷いが、はっきり滲んでいた。
だが、返ってきた声は低かった。
『シェルターで見ただろ』
沈黙が落ちる。
『さっきのも、最初は学生に見えた。泣いてた。助けてくれって言ってた。近づいた瞬間、胸が割れて、中から出てきた』
誰も動かなかった。
赤黒い煙の中で、ライトだけが揺れている。
『近づけるな』
カチャ、と。
安全装置が外れる音がした。
「違う……」
海斗は首を振った。
「俺は……違う……」
『対象、発声確認』
『誘引行動の可能性あり』
「違う!」
叫んだ声は、泣き声みたいに掠れていた。
海斗は両手を上げたまま、一歩下がる。
その瞬間、兵士たちの銃口がさらに揃った。
「やめて……!」
撃たれる。
その実感が、遅れて全身を冷たく貫いた。
逃げたい。
けれど、動けば撃たれる。
逃げれば、もう本当に人間として見てもらえなくなる。
足が震える。
指先が強張る。
ライトが眩しい。
誰かの呼吸音が聞こえる。
引き金にかかった指が、わずかに軋む音まで聞こえた。
「俺は……」
喉の奥が、きゅっと狭くなる。
何を言えばいいのか分からなかった。
助けてほしかっただけだ。
逃げて、生き延びて、ここまで来ただけだ。
なのに、どうして。
どうして人間に、人間じゃないものを見るような目を向けられているのか。
胸の奥で、女の言葉が蘇った。
――化け物になってでもだ。
違う。
違う。
違う。
俺は、まだ。
まだ、人間だ。
「俺は……人間です」
その言葉は、崩れた廊下に小さく落ちた。
誰も答えなかった。
兵士たちの銃口は下がらない。
白いライトの向こうで、冷たい声だけが続く。
『生存者判定を取り消し』
『汚染個体として処理する』
『発砲許可』
生存者判定を取り消し。
その言葉が、海斗の胸を冷たく刺した。
さっきまで、自分は助けられる側だった。
今は違う。
撃たれる側だ。
人間としてではなく。
怪物として。
海斗の足が、ほんのわずかに床を掴んだ。
足元のコンクリートが、小さく軋む。
「……死んで、たまるか」
自分に向けて言った。
死んでたまるか。
女が命を懸けて残した自分を、ここで撃ち殺されてたまるか。
『対象、姿勢変化』
『発砲準備』
銃口の奥が、黒く見えた。
恐怖が、限界を超えた。
逃げなければ。
撃たれる。
殺される。
海斗は息を吸った。
そして。
白いライトの中で、足元の床が、ひび割れた。