その後、丁の亡骸は血をぬぐって丁寧に清められ、歴代の天馬たちが眠る墓所の端に収められた。葬式はしなかった。
そして、天狗の社会に新しい掟が定められた。
【人を愛する勿れ】
天狗が人間ごときに振り回されるなんてあってはならぬことだと一命を取り留めた天馬は語った。その顔は凄まじく、愛憎入り混じった夜叉のようであった。皆、厳かにこの言葉に頷いた。
「人の子如きに守られるとは面目丸つぶれも良いところだ。せっかく、目にかけてやったのに。最後の最後で判断を間違う愚か者に育つなんて。やはり、あいつらは救いようがないのだ。」
「全くその通りです。恩を仇で返すなんて。私は一時でもあいつを人間の中でもマシだと思った自分を恥じます。」
皮肉にも腹に一物抱えた天狗が集まる会談の場で意見が一致したのはこれが初めてであった。
戦いの後、錯乱していた射命丸は療養のために病室に軟禁されていた。面会が許可されるようになってから犬走は姫海棠に付き添う形でお見舞いに行った。
患者用の白い衣を着てぼんやりと窓の外を眺めている射命丸は一気に五百も老け込んだように見えた。
「文、調子はどう?」
姫海棠がお見舞いの品を近くの卓に置きながら射命丸に尋ねた。
犬走は部屋の隅に正座で待機していた。
「上々ですよ。」
「それはよかったわ。」
実際、言葉通りに顔色はさほど悪くなかった。あの時取り乱していたのが噓みたいだった。
「過去の私はいい拾い物をしましたね。」
射命丸はぽつりとつぶやいた
「どういうこと。」
姫海棠が訝しみながら聞いた。
「あの人の子のことですよ。いや、最初は期待していなかったんですけどね。人気の長編連載のネタになるわ。結構な暇つぶしになるわ。で、元が取れたと思ったら、鬼の生贄にまでなるんですから。生意気なのが玉に瑕でしたが、そこそこいい拾い物をしました。」
「ちょっと!」
あんまりな言い方に姫海棠が気色ばんで胸倉を食ってかかった。しかし、喉元までこみ上げていた怒声が響くことは無かった。
「本当に、人の子のくせに天狗を守ろうなんて。生意気なんですよ。私は分をわきまえない愚か者は嫌いです。」
紅い瞳から穏やかさが失われていた。
「文。」
燃える夕日のような瞳は憎悪で染まっていた。
「丁なんて大嫌いです。」
「良い子だったと思うわよ。あの子は。」
「それはそれは。変わり者ですね。新しい掟に背いては駄目ですよ。」
「あら知ってたの。」
「こんなとこでも訪れてくれる鴉はいますからね。人を愛することを禁止するなんて馬鹿馬鹿しい。わざわざ決められなくてもあんな存在は好きませんよ。」
そう言いながら射命丸は机の引き出しから真っ白な封筒を取り出すと姫海棠のほうに差し出した。
「これは何?」
「何って辞表ですよ。」
封筒には[辞表]と達筆で書かれていた。
「新しい掟には私が人の子を連れ込んだことも関わっていますから。何か言われる前に出て行ってしまおうと思いまして。」
「そんなこと誰もおもっていないわよ。」
姫海棠の言っていることは本当だった。天狗の中では射命丸への責任の追及は一切なかった。むしろ、その身を案じている者もいた。
「そのうち思いますよ。それに私が里にいることに耐えきれないのです。」
「辛いのね。」
「どうでしょうね。」
姫海棠は渡された封筒を突き返そうと思ったが、渋々懐にしまった。
「一応、長年のよしみで仲立ちはしてあげるわ。」
「ありがとうございます。」
素直に下げられた頭に居心地の悪そうな姫海棠は部屋の隅に控えている犬走を呼んだ。
「貴女も用があるのでしょ。」
「はい。」
失礼しますと断って姫海棠の隣に座った。
「恨み言ですか。権力を笠にきてあんな子の世話を押し付けたましたからね。」
「違います。最初は不満に思ったこともありましたが、丁の世話はそれなりに楽しかったので特に文句はありません。」
「なかなか言うようになりましたね。生意気なところがうつったのではないですか。貴女は世話を焼きすぎるきらいがありましたし。」
「そうかもしれません。私はあの子が好きでしたから。」
珍しい犬走の率直な物言いに二人の鴉天狗は面食らった。
「犬走。」
「姫海棠様、今だけは見逃してください。こう言えるのもこれが最後ですから。」
諫める声もいとわず、犬走はつづけた。
「人と妖怪と越えられない差がありますが、剣の前では私と丁は師弟です。師は弟子を慈しむものです。純粋に慕ってくれる弟子が可愛くないはずがありません。」
「その割には厳しい稽古でしたが。」
「それとこれは別です。甘やかしたら為になりませんから。」
姫海棠はいつだったか二人の関係を年の離れた姉妹になぞらえたことを思い出した。ヒヨコのようにずっと犬走のあとをついていく丁が面白くてからかったら、へそを曲げられて苦言を呈されたのだ。
全く、過保護ではないとどの口が言ったのだか。犬走は射命丸の次に丁を可愛がっていた天狗だった。
「それで用とは何ですか。」
「これを渡しに来ました。」
犬走は薄汚れた手のひらに収まるほどのきんちゃく袋を取り出すと射命丸に恭しく差し出した。
「これは。」
袋の中から出てきたのは朱いトンボ玉だった。
「丁のですか。そう言えば買ってやったことがありましたっけ。」
「埋葬した後に座敷牢の隅から出てきたので一緒にしてやれなかったのです。それで、」
「形見というわけですか。貴女のほうが良かったのでは。」
「私は木刀をもらいましたので。姫海棠さんは文鎮を」
姫海棠も犬走と丁の遺品の片づけをしたのだ。流石に筆は捨てたのかなかったが、幼いころにあげたお下がりの文鎮が紙に包まれて箱にしまわれているのを見つけて、不覚にも目頭が熱くなった。
「よくやりますね。忘れられなくなりますよ。」
「どうせしばらくは忘れられないわ。」
射命丸はあきれた様子だったが返さず机の上に置いた。
姫海棠は窓の外をみた。青々とした松を剪定している庭師がいる。
「あの子の名前の由来。甲乙丙丁の丁とか、使用人の丁とか言っていたけど本当は違うんでしょ。」
「違いませんよ。」
射命丸の張り詰めた声に犬走の尻尾はピクリと動いた。
「すみませんが帰ってもらえませんか。少し、疲れました。」
「無理をさせて悪かったわね。これは確かに届けるわ。」
「いえ、わざわざ訪ねてくださってありがとうございました。お願いします。」
姫海棠はサッサと立ち上がると足早に帰っていった。
「まだ何かありますか。」
「はい。」
射命丸が問いかけると、犬走は居住まいを正して額を畳にこすりつけるほど深々と頭を下げた。
「貴女、いったい何を。」
「ありがとうございました。」
何についての礼なのか皆目見当もつかない射命丸に続けて述べる。
「私とあの子を引き合わせてくれたことに深く感謝申し上げます。貴女のおかげで私は最高の弟子を持つことができました。そして、お願いがございます。あの子の墓に一度でもいいので手を合わせてください。あの子は射命丸様を心から慕っておりました。」
実は軟禁状態にあっても丁の墓の場所を風の噂で知っていたのだが、射命丸は此処を出ても行くつもりはなかった。
「気が向いたら行きます。」内心を押し殺して、表面上は部下への義理として曖昧な返事に留めた。
「どうか頼みます。」
もう一度念押しすると犬走は部屋を出ていった。
ふすまが閉まると部屋には庭先の鴉の声しか聞こえなくなった。
一人になった射命丸は犬走が置いていったトンボ玉をつついたり転がしたりしていじっていた。透けた光が爪を赤く染めた。
これを買ったのはいつだったろうか。
いや、本当は覚えている。丁が里で暮らすようなった頃だ。
気まぐれに玩具を買ってやろうと思ったら人形でもなくこれを選んだ。何故欲しいのか理由を聞いても射命丸の顔をじっと見て恥ずかしそうにしているだけで答えてくれなかった。
天狗を欺こうとは小癪だと思ったがいつか聞こうとその場は流した。不満そうな顔をしたから実は聞いてほしかったのかもしれないが、再び聞く機会はとうとうこなかった。
赤いトンボ玉を日にかざす。
灼熱の色をしているが柔らかい光だ。
ひとしきり遊ぶと机の上に置いた。とくに理由はない。その辺に転がしていたら誤って踏んだ時に痛いからそうしているだけのことだ。
もう姫海棠は辞表を上に届けたのだろうか。それとも明日出すのだろうか。
役職を降りた今何をしよう。
知見を広めるために旅をするか。
自堕落に享楽にふけるか。
それとも。
己を鍛えて、何物にも揺るがされない強さを求めるか。
自由の身になったほうが勤勉になるとは、とんだ皮肉に薄っすら笑いがこみ上げる。
私は天狗。
鴉天狗の射命丸文。
面白くて愉快なことを愛する記者だ。ただ気の赴くままに空を飛び、何にも縛られない存在だ。それがたった一人の捨て子に執着するなんて言語道断。
でも、馬鹿馬鹿しいと笑ったものの、ふと我に返ると胸を焦がすような激しい情が沸々と湧き上がってくる。不快だ。とてつもなく不快である。
射命丸は頭を振って気を改めると決意を固めた。
あんな子に惑わされるような腑抜けた心を捨てて、より妖怪らしい強靭な心を手に入れよう。肝心な時に役に立たない甘さなんて何のためにもならない。
「丁。私は貴女が嫌いです。」
私の平穏を奪っていった狼藉者め。
こんな思い、知りたくなかった。
「でも、貴女みたいな嫌な人間と関わらないようにするためにも教訓として覚えていてあげますよ。」
射命丸は外行きの服に着替えると窓枠にもたれて鋭く口笛を吹いた。暫く経つとどこからともなく現れた二羽の鴉が下駄を咥えてやって来た。
「貴方たちともお別れです。」
鴉天狗は窓枠に足をかけ、人知れず飛び去った。
残された鴉の片方は一声鳴くと、机の上に置き去りにされたトンボ玉を啄んで何処かへ持っていった。