赤子が天狗に拾われてから、丁度十度目の冬を迎えた。相変わらず鬱蒼とした竹林に、木刀を打ち付ける音と落ち葉が巻きあげられる音がどこからか聞こえてくる。
その場にいたのは人間の女の子と白狼天狗の二人だけだった。
「甘い。」
厳しい叱責と同時に小さい人間が宙を舞った。飛んだ身体は竹に受け止められ、ドサッと地面に落ちた。横たわっている少女の手には樫の木で作られた黒っぽい木刀が握られている。
対峙している白狼天狗、犬走椛は自分が吹っ飛ばした少女に駆け寄ろうともせず鞘の先端を向けて問いかけた。
「終わりにしますか。丁。」
二人の頭上では竹の葉に薄い灰色の影が差して、東の空には既に夜の気配がする。
丁と呼ばれた少女は木刀を杖によろめきながら立ち上がると構えた。額には玉のような汗が浮かんでいるが、その顔に疲労の色はない。
「まだやれます。師匠。」
碧い目は真っすぐ犬走を見据えており、若鹿のようなしなやかで逞しい両足は地面をしっかり踏みしめている。
犬走はその様子に満足そうに頷くと弟子に告げた。
「次で終わりにしましょう。さあ、どこからでもかかってきなさい。」
「はい。」
威勢のいい返事と共に丁は切りかかった。勢いよく上段で打ち込むつもりか剣を頭上に振り上げる。
隙がある胴を見逃すほど相手は甘くない。
しかし、鞘はわき腹に達しなかった。最初から誘い込むのを目的としていたのか、丁は木刀を返して打ち払ったのだ。だが、天狗の前では所詮小手先の技術に過ぎなかった。
「それではまだまだ軽いですね。」
犬走は距離をつめて足払いをかける。少女はそれを後ろに宙返りをして避けた。軽業のような身のこなしも彼女の一つの長所である。
巻き上げられた木の葉が煙幕のような役割をして、手合わせは仕切り直された。碧い目が油断なく犬走を見据える。丁は息を整えると今度は懐に入り喉への突きを図った。
力はないが技の判断とキレはこの年頃にしては上等だろう。このぐらいだったら人間の男相手でも勝負になる。次々と剣をいなしながら師匠は弟子の腕前を冷静に分析していた。
「惜しいな。」
つい本心が漏れた。幸いにも丁の耳には届かなかったが、思わず口に出たことに本人は驚きを覚えた。その驚きは弟子との埋められない種族差への虚しさも含んでいた。
犬走は内心を誤魔化すように早くケリをつけるため、右足でグッと竹の葉が積もった地面を踏み込むと人には到底出せないような速さで肉薄し、木刀を跳ね飛ばした。
「勝負ありですね。」
「参りました。」
丁の細い首には木刀が添えられていた。
潔い降参の言葉とは裏腹に、一太刀も与えられなかった弟子の眉間には皺が二本寄っていた。顔を赤く汗ばんでいる。負けず嫌いな少女は遠くに飛んで行った木刀を回収すると再戦を申し込もうか逡巡した。
犬走は悔しさを隠そうとしない少女に苦笑しながら、頭を撫でると懐から小さい壺を取り出した。
「ほら、手を出してください。豆がつぶれたでしょう。軟膏を塗りますから。」
「いいです。自分で塗れますよ。」
「いいから。手を出しなさい。」
自分より高い位置にある薬に手を伸ばしている丁の胸元から、跳ねた拍子に茶色いきんちゃく袋が飛び出した。犬走はそれを慌てて拾う少女に落ち着くよう窘めると近くの倒木に座らせた。
木刀を握っていた小さな右手をとるとむらなく軟膏を擦り込み始めた。爪の先から指の股まで時間をかけて緑色の薬を丹念に塗り込んでいくと所々皮膚が厚くなって固くなっている感触がよく分かる。
「もう沁みると言って泣かなくなりましたね。」
犬走は感慨深げに呟いた。
犬走椛という天狗は今でこそ同僚に揶揄われるほど甲斐甲斐しく世話を焼いているが、当初はこの弟子のことを好いてはいなかった。時間はあるとはいえ人間の子どもに教えることに意味を見出せなかったのだ。
「椛。これはお遊びです。本気で稽古をつけなくても軽くあしらってやれば受け身ぐらいは上手くなるでしょう。」
「射命丸さま。それは剣士として聞き捨てなりませんよ。」
「でしょうね。そういう貴女だから任せたいんですよ。」
彼女は根が真面目だから射命丸の言うとおりに子どものできる範囲で稽古をつけていたのだが、日が経てば経つほど浮き彫りになる人の子の非力さにとんだ面倒ごとを押し付けられたと思いさえした。
稽古をつけ始めた頃、子どもの手は毎回皮がめくれて血が滲んだ。特に大事だとは思わなかったが上司から預かった手前、痛いと泣く子どものために河童のところに行って薬をもらってきた。
そんな気遣いも小さかった弟子は沁みると泣いて嫌がった。
「さあ、手をだしなさい。薬を塗ってあげますから。」
「いらない。」
「膿んでしまったらどうするんですか。」
犬走の態度が素っ気なかったのも悪かったかもしれない。
それでも、あんまりな態度に段々腹立たしくなってきて、そんなに嫌がるなら稽古はつけないと脅したら、それ以降は下唇を噛んで鼠みたいな顔をして耐えるようになった。子供は静かになったが犬走の心にはまだもやもやとした不愉快な気持ちが残っていた。
丁に稽古をつけることを諦めさせたかった犬走はそのやせ我慢を終わらせようと、あるとき意地悪く傷口をこするように強く握った。丁は一瞬手を引っ込めようとしたがまた手を預けた。
「痛いですか。」
気遣いのない冷たい問だった。
「痛くなんかない。」
見え透いた強がりだった。
「こんなこともう辞めてしまいなさい。貴女がいくら剣を振ったところで私にかなうはずがないのですから。机に向かっている時間にあてたほうが少しはためになるでしょう。」
涙をこらえる子どもに少しバツが悪くなって、今度は優しく言った。
「いやだ。」
丁は首を激しく横に振った。
「射命丸様には私がいいように伝えますよ。」
「だめ。」
「何故そこまで意固地になるのですか。」
犬走には子どもがそこまで剣に執着する理由が分からなかった。
「だって、射命丸様が天狗は文武両道なんだって。」
「貴女は人間でしょう。関係ないじゃないですか。」
「天狗になれないのはわかってる。」
「なら。」
「でも、少しでも近づきたいの。」
それはあまりにも素朴で率直な理由だった。妖怪である身にも好ましく見えるほどの無垢さだった。
「貴女は素直ですね。丁」
「そうなの?射命丸様には意地っ張りといわれるよ。」
「あの方は天邪鬼ですから。」
自然と口調は柔らかいものになった。ここまでしてようやく犬走は丁を認めることができた。自分の弟子として教えるのに相応しいと、守ってやりたいと思えるようになったのだ。
「いつの話ですか。」
師匠に手を預けながら少女はむくれた。もう赤ちゃんじゃない、と言外に言っているようだった。
「ついこの間のことですかね。」
少女が子ども扱いされるのを嫌がっているのを知っているが、妖怪からしてみれば言葉が話せるようになったとはいえ赤子の時と大差ない。射命丸に抱えられていたこの子と初めて会った日もすぐに思い出せる。
「師匠たちの基準で考えないでください。」
「難しいことを言いますね。」
丁は既に自分が人間であることを知っている。周りにいる存在が全て人ではないことも同じく。
「私だってあと数年したら、師匠と同じくらいになるんですからね。いえ、師匠よりも大きくなって見せます。」
「生意気な弟子ですね。その日を楽しみしていますよ。」
「余裕でいられるのも今のうちですからね。」
人間である丁は成長する。天狗と違い、日々身体が作り変えられて、やがて大人になる。うっかりしていたらそのまま皺くちゃのおばあさんになってしまうだろう。
いつしか、弟子が人間であることを惜しむようになってしまった。この子が同族ならさぞかし立派な天狗になったことだろう、と想像したことは一度や二度ではない。
「こういうのは急ぐものではないんですよ。」
出来ればゆっくり、ゆっくり成長してほしい。上司から嫌々ながら引き受けた指南役だったが、そう願ってしまうほどこのか弱い弟子を愛おしく思っているらしい。
「そう言われても私は早く大人になりたいです。そしたら、師匠から一本取れるかもしれませんし。」
「減らず口を叩けるくらいなら、もう少し手合わせしますか。」
ひとまずは師匠の心をくみ取れない不出来で可愛い愛弟子に、時間の許す限り追加稽古をしよう。先の分からない未来のことより、目の前の時間を大切にしなければ別れなんてあっという間に訪れるのだから。
「あの師匠、そろそろ射命丸様が迎えに来る時間なのですが。」
「どうせ抱えられて運ばれるのですから、限界までやっても問題ありません。」
「それはそうですが。」
「ほら早く、時間は有限だと教えましたよね。」
その後、迎えに来た射命丸はいつも以上にボロボロになった丁に腹を抱えて笑ったそうだ。