「剣をふるうのも、すっかり様になったわね。」
ある日、丁が庭先で素振りをしていると空からどこか気だるげな声が聞こえてきた。
「あっ先生。こんにちは。」
「こんにちは。丁。今日も稽古をして偉いわ。」
軽い風とともに降り立ったのは、姫海棠はたてと呼ばれる鴉天狗で、射命丸、犬走に次いで何かと世話を焼いてくれる存在だった。よく暇になるとお菓子を片手に遊びに来るので、丁も懐いている。
姫海棠は一見さっぱりとした気性のように見えるが情に深く、仕事で忙しい射命丸の代わりに小さい頃から遊び相手になったり、外に連れ出したりして色々なことを経験させた。真面目なこと以外にも、さぼりや夜更かしと言ったちょっとした悪いことも密かに教えることもある。
時折、少女が犬走の稽古から逃げたいときは、これ幸いと姫海棠の手を借りることも度々あった。白狼天狗は鴉天狗に逆らいづらいのだ。その代わり、後の稽古でこっぴどくしごかれるが。
「人間の中だったら貴女に敵うものはそういないんじゃないの。」
「この程度ではまだまだ足りません。」
「真面目なのはいいことだけど。この後、手習いがあるのだからキリが良いところで止めるのよ。」
「はい。」
額に薄っすらと汗を浮かべて剣を振り下ろす丁を姫海棠は縁側からしばらく眺めていた。鶯の声が聞こえる長閑な昼下がりのことだった。
この家は丁が射命丸に拾われてから半月後に、ある天狗が丁のために貸し与えたものだ。安易な思い付きから始まった人間の子の成長記録は思いのほか、読者の他の天狗たちに好意的に受けいれられた。無論、どの天狗も人間のことを知らないわけではないが赤子から育てた者は今まで身近に一人もいなかったのだ。
射命丸が里を歩くと面白がって果物や子供用の服をよこす者まで現れた。丁が洞窟に住んでいたのは結局のところほんの少しの間だった。
「先生、鍛錬が終わりました。」
少女は縁側で梅の花を見ている姫海棠に声をかけた。
「じゃあ、井戸で汗を流してから上がってきなさい。井戸水でも今の時期は寒いんだから被るんじゃないわよ。」
「そんなこと分かってますよ。」
汗ばんで火照った身体を濡らした手拭いで拭くとさっぱりして気持ちがいい。体を清めて服も着替えた丁は、筆や墨を持ってくると机を挟んで姫海棠と向かい合った。
「先生、今日もご指導よろしくお願いいたします。」
「はいはい、よろしく。」
犬走が剣の師なら、姫海棠は学を教えるもう一人の師である。
ある時、射命丸に出合い頭にいきなり産着にくるまれた人の子を見せられて、「あと数年したら文字を教えてやってください」と教師役を押し付けられたのだ。
報酬として提示された外の世界の珍品に惹かれて引き受けたことだったが、案外、姫海棠は自分から進んで世話を焼いていた。
「はじめまして、丁です。」
三つになった時、再び会った丁は射命丸の膝にしがみつきながら挨拶をした。
保護者の影に身体を隠しているくせに、目だけは一丁前に睨みつけてくる小生意気さが必死に毛を逆立てる子猫のように見えた。
「初めまして、貴女の先生になる姫海棠よ。」
丁度持っていた飴玉を鞄から出した。
「なあに、それ。」
「食べればわかるわ。ほら、口を開けなさい。」
丁は先ほどまでの警戒心はどこへ行ったのか、素直に小さい口を開けた。飴を放り込んでやると、べっこう飴の優しい甘さに見る見るうちに表情が驚きに変わった。
砂糖をつかった甘いものは初めて食べたのだろうか。柔らかそうな頬をもごもごと動かして夢中で舐めている。
「餌付けとはやりますね。」
あっという間に手懐けた様に射命丸は感心した。
「懐柔の基本よ。」
姫海棠は得意げだった。
「ねえ、これはなんていうの?」
「飴というのよ。」
「あめ?」
もう子供は射命丸を盾にすることはなかった。飴玉一つで姫海棠を安心できる人だと判断した単純さは、少々心配ではあるがヘンにスれてなくて好ましいと感じた。
「気に入った?」
「うん。大好き。」
「それはよかった。いい子で勉強を頑張ったら飴をもっとあげるわよ。」
「ほんとう!」
この日から、姫海棠はたてという天狗は人の子の先生となった。最初は甘いお菓子を目当てに勉強していた丁も、だんだん学ぶこと自体を面白がるようになり、はたてもそんな生徒の変化を喜んでいた。
「さあ、今日は算額をするわ。これが出来たら店番のお手伝いもできるかもしれないわね。働くときに役立つわよ。」
「はい。いつかは山を降りて働かないといけませんからね。」
「えっ。」
姫海棠は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。丁が此処を出ていく、彼女はそんなことを考えたこともなかったのだ。
「何でそんなこと。」
「だって私はまだ子供だからここに置いてもらえているだけでしょう。」
「そんなこと誰が言ったの。」
はたては丁を怖がらせないように優しく尋ねた。
「誰って。えっと、それは別にいいでしょう、先生。」
「誰なの。」
今度は厳しく尋ねた。
丁は何も言わず、じっと畳を睨んで黙りこくった。
「丁。」
姫海棠がきつく呼ぶと何度も無視するのは失礼だと思ったのか、何度か口を開閉させてから、ぼそぼそと呟くように白状した。
「他の妖怪が。私は、此処にいてはいけないと。」
「そんなことあるわけないじゃない。」
先日、丁が稽古をしているとき犬走が側を離れた僅かな瞬間を見計らってある妖怪がかどわかそうとしたのだ。その際に無頼漢は「お前はここに居てはいけない存在なのだ」と告げた。
「心配しなくても今更あなたを追い出そうとする奴なんていないわよ。この離れだって天魔様のご厚意なのでしょう。」
「そうですが。」
物事の道理を少しは分かるようになってきた丁からしてみれば、妖怪の言葉にしこりが残る。彼女だって本当は人間が妖怪の里にいることがおかしいことなのだと察してはいるのだ。
「丁、ここを出て行けなんて今更誰も言わないわ。それとも、貴女は出ていきたいのかしら。」
「そんなことは。でも、私は人間です。どうあがいたって天狗にはなれません。」
常から射命丸は丁にお前は人間だと口を酸っぱくして教えていた。私とお前は違う種族なのだと、間違って少女が天狗になれるという幻想を抱かないように注意していた。
姫海棠にも射命丸の気持ちは分かる。
決して自分のことを母と呼ばせないようにしているのは、一種のけじめなのだろう。
姫海棠は目の前の少女を優しく抱きしめた。剣を習っているとはいえ華奢な身体だ。強く抱きしめれば容易に骨が折れそうである。
「貴女が人間でも私にとっては可愛い教え子だわ。」
「先生。」
腕の中で丁は照れくさそうにしながらも隠しきれない嬉しさに唇をキュッとすぼめた。顔を見ようとしてくる先生の肩口に顔を埋めて赤くなった頬を誤魔化した。こういう仕草はまだ子供らしい。
姫海棠は髪をすくように撫でるとこう続けた。
「全く貴女に出ていかれたら絶対外に遊びに行く天狗が増えてしまうわ。私だって心配で毎日会いに行ってしまいそう。」
これは嘘偽りのない本音だった。
「大袈裟な。」
「大袈裟なんかじゃないわよ。これからはその辺の妖怪に耳を貸しては駄目よ」
「はい。先生。」
「ほら、早く勉強を終わらせたらお茶にでもしましょうよ。今日はとっておきを持ってきたんだから。」
「もしかして、里の甘いものですか。」
少女は先ほどまで悩んでいたことが嘘のように喜色満面で訊ねた。
「それは見てからのお楽しみよ。」
先生は無邪気な生徒の様子に嬉しげだった。
机の上に本を開いて二人だけの寺小屋が開かれる。妖怪が人の子の教師になる。そこは幻想郷の中でも類を見ない珍しい教室だった。
草木も眠る丑三つ時。子どもも大人も、もう寝る時間。夜風に吹かれた木々が枝をぶつかり合わせている森に犬走は哨戒任務の合間を縫って駆け付けた。
「姫海棠様。只今、参上しました。」
「仕事もあるのに悪いわね。犬走。早速本題に移るのだけど、この前、他の妖怪が丁にちょっかいを出そうとしたみたい。」
「ああ、先日のアレですか。」
珍しく不満を顕わにしている上司を、不思議に思っていた部下は合点がいった。丁が天狗以外の妖怪と接触したのは犬走ももちろん知っている。むしろ、承知の上で丁を一人残したのだ。千里眼で見張っていたから万が一、命の危機にさらされても守ってやれる自信があった。
「丁はだいぶ成長しましたし、あれくらいの小者だったらまず危害をくわえられませんよ。」
「でも、惑わされそうにはなったわ。犬走、これからは例え小者であっても丁に近づけないようにしてくれる。姉貴分なのだからしっかりしてほしいわね。」
叱責というよりも過保護な親類のお小言のほうに近い苦言だった。
「姉ではなく師です。また拗ねられると困るので丁には絶対言わないでくださいよ。」
「ヒヨコみたいで可愛かったからついからかっちゃっただけじゃない。母役は既にいるから姉枠。どう、嬉しいでしょう。」
「だから師匠です。あんまり甘やかすのも丁のためになりませんよ。」
「あっでも、そうなると貴女と射命丸も親子になるのかしら。面白そうね。」
「……姫海棠様。用を思い出したので失礼します。」
犬走は母でもない姉でもない貴女はどの立ち位置なのですか、と問いただしたい気持ちがあったがグッとこらえてその場を後にした。
この二人の教師による会合の後、この会話が影響しているのかは定かではないが天狗の里の付近では暫く他の妖怪が姿を現さなくなった。