「早く起きなさい。」
ある日、射命丸は朝から声を荒げていた。丁は布団を頭から被ったまま丸くなっていた。朝が弱いのだ。
「もう少ししたら、おきます。」
「記事にされたくなかったら直ぐですよ。」
そう言って射命丸は部屋を出て行った。丁はモソモソと動いて億劫そうに上体を起こした。しかし、まだ眠気を振り払えないのか振り子のように前後に頭を揺らしていた。
「早く起きなさい。」
再び、障子越しに射命丸が声をかけた。
「だいじょうぶです。」
「何が大丈夫ですか。」
半分、夢の世界にいるようなボンヤリとした様子で少女はやっと蒲団から抜け出した。低く唸りながら伸びをして、のどちんこまで見えるほど大きな欠伸を一つすると、障子の隙間から除く朱色と目が合った。
「見ないでください。」
無防備なところを見られた恥ずかしさを隠すように、不愉快そうな顔をして文句を言った。
「だらしがないですね。犬走が見たらなんていうか。」
「射命丸様。」
声を張り上げた丁に「おー怖い怖い」と我が身を羽で抱きしめるそぶりをしながら、射命丸は居間のほうへ行った。
少女は夜着を脱いで丁寧に畳むと、枕元に置いてあった着物に着替えた。
今日は師匠も姫海棠様も用事があって教えることができないと言っていた。素振りと宿題を終わらせたら、久々に射命丸様に空の散歩に連れて行って貰えないか頼んでみようかな。確か、非番だった気がする。
丁が押し入れに畳んだ蒲団をしまいながらこんなことを考えていると、不意にわき腹をつつかれた。
「隙あり。」
「わあっ。」
驚いた拍子に尻もちをつくと、ご機嫌な射命丸が愉快そうに見下ろしていた。
「仕度が遅いから見に来ましたよ。」
「もう、着替えも終わっています。」
ムッとした様子を隠すことなく返事をした子どもに、射命丸は気分が良いという風に振舞った。
「ならいいんです。さあ、今日は出かけますよ。」
「お出かけに行くんですか!」
居間には朝食の他に弁当と水筒が用意されていた。普段なら射命丸は稽古に行く少女に竹の葉で包まれたおにぎりを持たせるのだが、今日は漆塗りの黒い重箱に入ったものだった。蓋を開けて中身を覗こうとする不埒な手は容赦なく叩いた。
「どうしたんですか。これ。」
「いいから早くご飯を食べなさい。」
見慣れない物に目を輝かせる子どもに、朝食を早く食べるようせっつくと天狗はこう答えた。
「今日は秋の花を見に遠出しますよ。」
「お花見に連れて行ってくれるのですか。」
「あくまでも新聞の取材ですよ。取材のために特別に連れて行ってあげます。」
射命丸が少女を連れて行ったのは萩の花が群生している場所であった。降り立ったすぐそばの木には薄紅色の小さい花が枝先に連なっている。
「綺麗ですね。射命丸様。」
「当り前です。私のとっておきの場所なのですから。」
丁は萩を初めて見たわけではないが、これほど生えている場所は知らなかった。鴉天狗は手元の紙に何やら書き込みながら、おもむろに一房を手に取った。少女も真似て近くでよく観察しようと隣に立った。
「射命丸様は萩がお好きなのですか。」
「そうですね。嫌いではないですよ。」
「ふうん。そうですか。」
射命丸にとっての「嫌いではない」という答えは「好き」と同義だ。丁はそのことを知っていたけれど、指摘してわざわざ気分を悪くさせるのも勿体ないと思って黙った。
太陽がてっぺんになった頃、開けた場所に茣蓙を敷いて二人は昼食をとろうとしていた。少女は重箱の中を見て感嘆の声をあげた。
「ええ、こんなたくさんの御萩どうしたんですか。」
「朝早く起きて作ったんですよ。」
「射命丸さまの手作りなんですか。」
蓋を開けて木綿の布をどかすとそこには鈍い照りを放つ御萩が、縦に四つ、横に五つの列を作って詰められていた。
「貴女が犬走から一本取ったと聞きましてね。ご褒美ですよ。」
先日、馴染みの白狼天狗が悔しいような面映ゆいような顔をしてそのことを報告してきた。
「射命丸様。報告がございます。」
「なんだ。」
「今日の稽古で丁に一本とられました。」
眉間に深い皺を寄せた渋面なのに、嬉しさが滲み出た不思議な表情であった。袖をまくると白い肌にできたばかりの紅い痣があった。
「たったの一本だけでしたが。骨までひびくいい太刀筋でした。」
射命丸にとってはそのぐらいで喜ぶようではまだまだだと思っていたが、部下の珍しい一面を見たこともあって、この際、褒美に丁の好物を好きなだけ食わせてやろうと考えた。
「はたてに聞きましたよ。貴女はあんこをつかった和菓子にはまっていると。」
「射命丸さまには内緒にしてくださいと言ったのに。」
「これからは他人を信じすぎないことですね。」
少女は贅沢なことに甘味が好きだった。幼い時から姫海棠が事あるごとに飴玉だの干し柿だのを与えるのですっかり味を占めたのだ。栗やさつま芋、果物等も好きだが取り分け砂糖を使ったものを好んでいた。ただ、そういう高価な菓子は滅多に手に入らない貴重品だ。だから、射命丸は天魔に融通をきかせてもらい昨夜から餡子を焚いて少女を驚かせてやろうと一計を案じた。
「ほら、蓋をあけたままだと干からびてしまいます。早く一つ取りなさい。」
「そうですね。」
御萩を前にした丁は射命丸の想像以上の喜びをみせた。上手くいったと心の中で笑いながら、皿代わりの油紙を渡すと丁は素早い手つきで箸で掴んで取った。
「はい。射命丸様。」
自分のよりも先に取り分けるとは殊勝なことだと思いながら受け取った。少女も自分の分を手に取ると大口を開けて頬張った。
「美味しいです。」
「そうでしょう。心して食べなさい。」
「はい。」
無心になって御萩を喰らう子どもは口の端どころか鼻の頭にも餡子を付けていた。射命丸はその様子を浅ましいと思いつつも諫めようとはしなかった。
寝汚さを除けば普段は行儀がいい子なのだ。たまには年相応の振る舞いをしても大目に見てやろうと思った。
「丁、顔をこちらに出しなさい。」
「どうしたんですか。」
「顔に餡子がついています。」
書き損じた紙で小豆の粒を摘まんでやった。少女は礼を言うとテレを隠すようにまた御萩に手を伸ばした。
御萩はそのほとんどが丁の腹におさまった。
「食い意地はってますねぇ。まさか、全部食べるとは。」
鴉天狗は呆れた様子で空になった重箱を風呂敷で包み直した。
「全く。まるで私が普段食べさせて無いようではありませんか。」
「せっかくの射命丸様の手作りですから。固くなる前に食べないと。」
射命丸のお小言も意に介さず、丁は満足そうに目を細めてお腹をさすっていた。料理人は鼻を鳴らすと目の前の丸く膨れたお腹をポンポン叩いた。
「打てば響くこの鼓、立派な腹太鼓ですね。」
「苦しいです。」
少女は鬱陶しそうに払いのけた。
天狗は意地の悪い顔をしてわき腹をつついた。丁は驚いて不埒者から距離をとった。
「それ以上近づいたらひどいですよ。」
「おやおや、何が酷いのでしょうか。」
「私だってやられてばかりではありませんからね。」
少女も射命丸のほうに腕を伸ばして仕返ししようとした。
不毛なくすぐり合いが始まった。合いと言っても腕の長さが違うから、一方的に丁が笑い転げていた。わき腹、首筋、脇と容赦なく虐められ「降参」と途切れ途切れに言う少女に天狗はやっと手を止めた。
「情けないですねぇ。」
息が上がっている様子にニンマリと笑ってその身体を枕にして寝っ転がった。布越しに忙しい心臓の音が聞こえてくる。
「重いです。」
「失礼ね。」
ふたりは芝生の上で寝っ転がったまま暫くぼおっとしていた。やがて、丁は遊び疲れたのか眠ってしまった。額に張り付いた前髪をよけてやっても起きる気配はない。
妖怪の前で健やかな寝息をたてるなんて、何と危機感のない子どもでしょうか。薄い胸に頭をのせたまま射命丸はこんなことを考えていたが、いつしか落ち着いた心臓の鼓動が耳に心地よかったのか、彼女もウトウトし始めた。
「少しくらいなら私も寝ていいでしょう。」
黒い翼で丁ごと身体を包み込むように姿勢を整える。
明日の新聞は花より団子と幼稚にはしゃぐ人の子のことを書こう、微睡みに逆らうことなく落ちていく意識の中で射命丸は密かに口角をあげた。