【憧れ】
「丁、犬走の言うことをよく聞くんですよ。」
「はい。射命丸さま。」
三月のこと。丁は訳があって一晩犬走の家に預けられた。射命丸は丁と一緒に暮らしているわけではない、が離れたところに赴かなくてはならなくなったので、万が一がないように知り合いの所に泊まらせようと考えたのだ。
「さあ、帰りましょうか。」
「師匠の家に行くのは久しぶりですね。」
「そうですね。数年ぶりですね。」
稽古が終わって師匠と一緒の家に帰るというのは滅多にないことなので、丁は射命丸に会えない寂しさを忘れて少し浮かれていた。夕食ではその日の出来事や前に行った遠足のことなどを一生懸命に話す少女とそれを楽しそうに聞く白狼天狗の姿があった。
その晩。丁は表の騒がしい物音で目が覚めた。犬走は別の部屋で寝ている。恐る恐る、窓を覗いてみると暗闇の中で小さい影がうじゃうじゃと蠢いている。口端からひきつる様な悲鳴が漏れた。
「どうしたんですか。」
「師匠。」
いつの間にか起きていた犬走が丁の隣に立つと外を一瞥して「ああ、今日だったのですか」と呟いた。壁にかけていた上着をとると丁も促して特別授業だと外に出た。
「腰がひけていますよ。」
「だって。怖いですよ。」
犬走の手をしっかりと握りながら近くの沢に寄ってみると、丁が怖がっていたものの正体はおびただしい数のヒキガエルだった。
「春は蛙の恋の季節なんですよ。」
よく見ると腹を卵でパンパンに膨らませた雌が混じっている。冬眠から目覚めたばかりだろうに、雄たちは先をめぐって激しく争っていた。戦いに勝利した雄は雌の脇腹をがっしりと掴んで離さない。
「私はカエルにびくびくしていたんですか。」
「そうですよ。丁の小心者。」
幽霊の正体見たり枯れ尾花。自分が怖がっていたものの正体に微妙な顔をしている丁を犬走は揶揄った。
「初めて見ました。だからうるさかったんですね。」
「煩いと言っては可哀そうですよ。蛙も子孫を残すために必死なのですから。」
犬走の目線の先には二段に重なった蛙の夫婦が水中でじっとしていた。この夫婦の卵が全て孵ったとしても無事大人になれるのはほんの一握りに過ぎない。大半は他の生物の食料になるのだ。
「生き物の使命は命を残していくことです。それはどの生物にも当てはまることですよ。例え子供が埋めなくても次の世代への引継ぎの仕事があります。」
そう語って隣の少女の頭を撫でた。
「貴女にはまだ難しいですかね。」
「私もいずれは子どもを産むのですか。」
少女の純粋な質問に天狗は口ごもった。まだまだ先のことなのに嫁に行くことを考えると寂しくなってしまったのだ。
「そうです、ね。いつかは貴女も相手を見つけて夫婦になるでしょう。」
ただ、丁が良いと思った人を保護者達が素直に受け入れられるかという問題があるのだが。もちろん、犬走も場合によっては相応の対応を検討しなければならない。具体的にいうと腕っぷしの強さとか。
「なら、相手は師匠がいいです。」
「えっ?」
色々考えを巡らせていた犬走は面食らった。
「なぜ私を?」
「師匠は強くてカッコいいですし、何より優しいです。」
心に温かいものが広がるような気がした。しかし、同時にこんなことを丁を可愛がっている人たちの耳に入ったら大変なことになると思った。命が危ない。とくに射命丸はいったいどんな反応をするのか想像もつかない。
「嬉しいですね。でも、そういう事は簡単に言っては駄目ですよ。とくに射命丸様の前ではね。」
「何故ですか。」
「あの方は貴女の保護者ですから。貴女のことを誰よりも大事だと思っているのです。」
【手習い】
「射命丸。チョウのことで相談なのだけど。」
「なんですか。」
ある日、姫海棠は一番初めに教える文字を少女の名前にしようと考えていた。
「射命丸。あの子供の名前なのだけど、「チョウ」は虫の蝶でいいのかしら。」
「違いますよ。甲乙丙丁のほうです。」
机に向かって何やら書き物をしていた射命丸は、振り返りもせず答えた。
「いくら何でも地味ではないかしら。」
「ひねりのない良い字ではないですか。使用人の意味もありますからね。立場をわきまえた名前です。」
姫海棠はむしろ、お世話をしているのは天狗のほうではないかと思ったが、それを指摘するのはやめておいた。
「分かったわ。で、もし丁に漢字の意味を説明するとなったらさっきの言葉をそのまま教えてもいいのね。」
筆の動きが止まった。
「そうですね。まあ、豆腐の数え方とか、包丁の丁だとかいって誤魔化してください。妙に卑屈になられると困りますから。」
「ひねくれているのはどっちよ。」
「何か言いましたか。」
「いいえ、なにも。」
その後、姫海棠は丁に自身の名前の漢字を教えたが、初めて知る文字に喜ぶばかりで懸念していた意味を問われなかったことに密かに安堵した。
「先生。実はこの前、射命丸様がお花見に連れて行ってくれたんです。」
「お花見?この時期に?」
「萩の花を見に行ったんです。」
今日の勉強が終わったあと、縁側で並んでお茶を飲んでいると丁が嬉しそうに射命丸のことを話してきた。このお茶の時間は恒例のもので時々、里の珍しいお菓子も一緒につまむときがある。
「射命丸様の手作りの御萩はとっても甘くて、今まで食べたものの中では一番おいしかったです。」
「えっ。射命丸が作ったの?」
「ええ。そうです。」
如何にその御萩が美味しかったのかを力説する丁を前にして、姫海棠は表面ではほほえましく話しを聞いているものの、内心はとても驚いていた。
射命丸文は天狗の中でもとびっきり気位がたかく傲慢な奴だ。そいつがご褒美を用意するだけでも珍しいのに早起きしてお菓子をこしらえるなんて信じられなかった。
気まぐれで始めた子育て。
射命丸は自分が人の子に変えられつつあるのに気づいているのだろうか。
(それは私も同じか)
寿命という概念のない妖怪は「停滞」と「飽き」こそが最大の脅威だ。老いない身体は苦痛を感じないし、長い生は将来の不安をなくす。
しかし、丁は違う。
老いも寿命もある人間だ。会うたびに成長していく子どもの傍にいるうちに姫海棠も影響されたのかもしれない。
「ねえ、その御萩をもう一度食べたい?」
「もちろんです。射命丸さまが作ってくださるのなら何度だって食べたいです。」
「そう。」
変わっていくことがこれほど楽しいものだなんて知らなかった。
叶うならこの楽しい時間が永遠に続いてほしいと思った。