今日から霊夢の残機   作:大体三恵

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第一章 白黒の巫女
第一話 憧れの姿を、この身に


 目を覚ました時、最初に抱いた違和感は、背中に伝わる畳の硬さだった。

 

 布団は薄く、枕は低い。

 障子越しに入る朝の光は白く、蝉の声が開け放した欄間から遠慮なく入り込んでいる。冷房の音も、冷蔵庫の低い唸りも聞こえず、会社へ行く前の朝としては静かすぎた。

 

 純和風の天井を眺めながら、昨夜の記憶を探す。

 

 仕事を終えて帰宅し、簡単な夕食を済ませ、入浴してから寝た……はずよね?

 酒は飲んでいない。体調にも問題はなく、外泊の予定もなかった。意識を失うような出来事は思い当たらない。

 

 起き上がろうとして膝を折って立て、腕の短さに気づいた……違う。単に短足というのではない。

 

 女の身にしては長身だった私の感覚的に、足の長さが足りない。

 布団から出した手は、自分が知っているものよりも小さく繊細で、指も細かった。肌には張りがあり、仕事中に紙で切った傷も、手首に残っていた古い火傷の跡もない。

 

 嫌な予感がした。

 

 身体を起こすと、背中から黒い髪が滑り落ち、肩を越えて胸元まで垂れた。髪が長いこと自体には慣れていた時期もあるが、社会人になってからの私は肩につかない程度に切っていたはずだった。

 

 布団を押しのけ、立ち上がる。視点が低い。畳の上に置かれた足は小さく、着ているものは白い寝間着だった。

 ……どうやって着たんだろう?

 誰かに、着せてもらったのかな?

 

 部屋の隅に、和風の鏡カバーのかかる姿見があった。

 確認したくないという感情と、確認せずに判断してはいけないという習慣が、数秒だけ競り合った。結局、後者が勝った。

 

 鏡の前へ立ち、上から垂れているカバーを持ち上げて払って見た。

 

 そこには、博麗霊夢がいた。

 

 私が知っている霊夢と区別できない。

 霊夢が……憧れの霊夢が、もう会えないと思っていたあの霊夢が、寝起きの乱れた髪でこちらを見返していた。

 

 黒い髪、白い肌、整った眉と大きな瞳。幻想郷で見た時よりも少し幼く見える気もしたが、鏡越しであることを考えれば誤差の範囲かもしれない。

 

 頬へ手を当てると、鏡の中の霊夢も同じ場所へ触れた。

 

「うそ……冗談でしょう」

 

 声まで似ていた。

 

 本人よりわずかに低いのか、それとも自分の耳へ内側から響くため違って聞こえるだけなのかは分からない。いずれにしても、昨夜まで使っていた私の声ではない。

 

 鏡へ近づき、目元と輪郭を確かめる。

 

 霊夢の顔を、これほど近くから見たことはなかった。

 

 幻想郷にいた二週間、話をしたことも、同じ部屋で茶を飲んだこともあった。それでも真正面から顔を覗き込むような真似はできなかった。

 憧れている相手だからこそ、無遠慮に見ることには抵抗があったけど今は違う。

 

 目を逸らしても、鏡の中に霊夢がいる。

 

 混乱すべき状況なのに、ほんの一瞬だけ、ひどく場違いな高揚感が胸の奥を過ぎり、満足感が後に残る。

 

 好きな霊夢の顔を、好きなだけいつでも、好きな距離で、好きな角度で見られる。

 

 そう考えた直後、自分が何を思ったのか理解し、額へ手を当てた。

 

「そういう問題ではないでしょう、私っ!」

 

「そういう問題でもいいんじゃないかしら?」

 

 背後から声がした。

 

 振り返ると、部屋の隅に紫色の裂け目が開き、その中から八雲紫がこちらを覗いていた。扇子で口元を隠しているが、目は明らかに笑っている。

 

「おはよう。よく眠れたようね」

 

「説明してください」

 

「挨拶を返す余裕もないの」

 

「自宅で寝たはずの成人女性が、知らない神社で博麗霊夢の姿になって目を覚ましたんです。再会の挨拶なんて優先する状況ではありません」

 

「知らない神社ではないわ。ここも博麗神社よ」

 

 紫は裂け目からすっと静かに畳へ降り、指し示すように部屋を見回した。

 

「幻想郷のものとは別だけれど、外の世界にも博麗神社は残っているの。管理する人間がいなくなって、少し困っていたところなのよ」

 

「私を管理人にするために、こんな姿へ変えたんですか。まあ、前職は幻想郷へ迷い込んでいる間に解雇となったので、幸いかもしれませんが……」

 

「あら、災難、でも神社の管理は副次的な理由ね」

 

「では、主目的は何です」

 

 紫は扇子を閉じ、鏡の中の私と実物の私を見比べた。

 

「あなたには、霊夢の残機になってもらいます」

 

 何を言われたのか分からなかった。

 言葉の意味が理解できないのではなく、その単語を人間へ適用する意図が分からない。

 

「残機……。残機とはゲームで失敗した時に使う、あの残機ですか」

 

「だいたい合っているわ。霊夢が死ぬような目に遭った時、代わりに減る命が必要だったの」

 

「それで私を霊夢の姿にしたんですか」

 

「器は似ている方が馴染みやすいもの」

 

「私の同意は」

 

「聞いたら断ったでしょう」

 

「当然です! ……たぶん」

 

 断ると思ったが、同じ姿になってずっと一緒にいられると説明されたら、判断が鈍るかもしれない。

 紫は悪びれずに頷いた。

 

「でも、あなたは霊夢に憧れていたじゃない。憧れの霊夢になれて、少しは嬉しいでしょう」

 

「違う、そうじゃありません」

 

 反射的に声が大きくなった。

 

 紫が楽しそうに眉を上げる。

 

「ふぅん……違うの?」

 

「私は霊夢のようになれたらと思ったことはあります。でも、それは霊夢の顔や身体が欲しかったという意味ではありません」

 

「では、何が欲しかったのかしら」

 

 答えようとして、言葉に詰まった。

 

 霊夢の強さ、迷いのなさ、自分の役割を疑わない生き方。面倒だと言いながら、必要なら危険へ向かうことのできる軽さ。私が危機を分析し、回避し、被害を小さくすることしかできない一方で、霊夢は問題そのものを正面から殴り倒す。

 

 それを羨ましいと思っていた。

 

 ただ、それだけではなかった気もする。

 

 幻想郷から戻った後も、時々、霊夢が何をしているのか考えた。食事は取っているだろうか、また無茶な異変へ出ていないだろうか、私がいなくなったことを少しは覚えているだろうか。

 

 もう一度会いたいと思った回数は、憧れという言葉で片づけるには多すぎた。

 

「私は、あの子になりたかったんじゃありません」

 

 自分で選んだ言葉なのに、口にした後で嫌な予感がした。

 

「ただ、もう少し……いえ、霊夢を近くでもっと見て、時々触れあったり、あわよくばそんなこんなあんなしていたかっただけです!」

 

 紫は数秒黙り、それから扇子を口元へ戻した。

 

「あなた、時々かなり気持ちが悪いことを言うわね」

 

「分かっています。今の発言は取り消します」

 

「残念ながら、聞いてしまったものは取り消せないわ。大丈夫よ。霊夢には言わないから」

 

「うぐぐ……」

 

 言い返す言葉が見つからず、私はもう一度鏡を見た。

 霊夢の顔が、困ったように眉を寄せている。

 表情は私のものだった。

 

 姿が同じでも、そこにいるのは霊夢ではない。

 

 当然の事実を確認すると、先ほど一瞬感じた満足感が、遅れて強い嫌悪へ変わった。

 これは…見えた! 危機感だ!

 

「元へ戻してください」

 

「今は無理ね」

 

「今は、ということは条件があるんですか」

 

「もちろん。あなたの役目が終われば、考えてあげてもいいわ」

 

「役目が終わる条件を教えてください」

 

「まずは、あなたが何になったのかを説明しましょうか」

 

 紫はそう言うと、畳の上へ当然のように腰を下ろした。

 私は鏡から離れ、その正面へ座る。

 混乱も怒りも消えてはいない。それでも、分からないことを分からないままにしておく方が危険だった。

 

 今の私には、少なくとも自分の置かれた条件を確認する必要がある。

 

 たとえその説明をする相手が、最初からこちらの同意を必要としていない横暴な……いえ、果断な八雲紫であったとしても。

 

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