紫が境界を通って消えた後、最初に行ったのは博麗神社の確認だった。
自分の置かれた状況を嘆くことは後でもできるが、住む場所の安全性と生活条件は先に確認した方がよい。
地震、火災、侵入。これらの対策。設備の故障、通信手段の有無を把握しないまま夜を迎えることは避けたかった。
神社の構造は、幻想郷で見た博麗神社とよく似ていた。
境内には拝殿と本殿があり、その脇に居住用の建物がつながっている。配置や外観には見覚えがあるものの、こちらには電気、水道、ガスが通っていた。
台所には現代の冷蔵庫と炊飯器があり、浴室には給湯設備がある。電話回線はなく、携帯電話の電波も場所によって弱かった。
冷蔵庫の中には数日分の食料があり、棚には米、調味料、乾麺、保存食がそろっている。
居間には現金、通帳、身分証明書、携帯電話も用意されていた。
身分証明書には、現在の顔写真と、紫が作ったらしい経歴が記載されている。
年齢は明確には十四歳ではなく、事情があって就学していない十六歳という扱いになっていた。
外見との差をどう説明するつもりなのかは分からないが、成人として扱われる経歴ではない。
戸籍上の名前を見て、すぐに閉じた。
それが私の名前である必要はなかった。
それと同時に紫が用意した記号に、自分自身を合わせるつもりもない。
衣類は……少なかった。
巫女装束が数組、寝間着、浴衣、下着、日用品。それ以外の普段着はほとんどなく、このまま町へ出るなら巫女装束を着るしかない。
幻想郷の霊夢なら、巫女装束で里へ行っても誰も不思議には思わない。現代日本では、町中を歩けば少なからず目立つだろう。
もっとも、この顔で巫女装束を着れば、目立つ理由が服だけで済むのかは疑問だった。
そう考えたところで、また自分が霊夢の顔を外から評価していることに気づいた。
鏡の中の顔には、すでに少し慣れ始めている。それだけ何度も鏡を見ている。
自分の顔だとは思えないが、霊夢本人を見ているとも感じなくなっていた。
そのことが少し惜しいと思った自分に、さらに嫌気が差した。
「私は一体、あの子を何だと思っていたんでしょうね」
答える者はいない。
建物の確認を終え、境内へ出る。石段の先には山道があり、その向こうに町の屋根がわずかに見えた。
スマホを起動させて地図を確認すると、神社は地方都市の郊外に位置しているが、最寄り駅や商店まではかなり距離がある。
坂道も長く、徒歩だけで日用品を運ぶには不便だった。
自転車を買うにしても、帰りは登りで大変だ。それに参道の階段を登れない。
電動アシストなら、参道の階段をバッテリーを抱えて登ることになるだろう。
紫が飛べると言っていたことを思い出す。
霊夢が空を飛ぶ姿は、幻想郷で何度も見た。
力を入れて跳ぶのではなく、地面から当然のように離れる。飛行というより、重力に従う必要がないことを最初から知っているような動きだった。
私もできると言われても、実感はなかった。
境内の中央へ立ち、周囲に人がいないことを確認する。念のため地面から一メートル以上は上がらず、転倒しても大怪我をしない境内の土の広場を選んだ。
どうすれば飛べるのかを考える。
考えても方法は分からない。
しかし、分からないことを無理に実行するつもりもなかった。まずは身体の反応を確かめるため、膝を少し曲げ、跳躍するつもりで地面を蹴る。
身体が軽く浮いた。
通常ならすぐに着地するはずが、足は地面へ戻らなかった。
驚いて姿勢を崩すと、身体が横へ傾く。反射的に腕を広げた瞬間、霊力らしい感覚が身体の周囲へ広がり、転倒する前に空中で静止した。
地面までの距離は、五十センチほどだった。
「できてしまいましたね」
嬉しいというより、困惑が先に来た。
自転車へ初めて乗れた時のような達成感はない。練習して身につけたものではなく、身体の方が正解を知っているため、私はその動きを追認しただけだった。
少し前へ進もうと考えると、身体がゆっくり移動する。止まりたいと思えば止まり、下りようとすれば足が地面へ近づいた。
操作は思ったより直感的だった。
だからこそ危険でもある。
下限と上限と加減。これは知らないというのは、目隠しと同じと捉えた方がいい。
簡単に使える能力ほど、限界を知らないまま過信しやすい。
失敗を一度もせず、成功したものは思わぬ失敗をする。
私は手帳を取り出し、飛行の試験条件を書き留めた。
高度は一メートル以下、速度は歩行以下、境内から出ない。初日は方向転換と停止だけを確認し、上昇や高速移動は行わない。疲労や霊力消費が出た場合は即座に中止する。
その後、一時間ほど低空飛行を繰り返した。
前後左右への移動、停止、着地、姿勢を崩した際の復帰。どれも身体はすぐに覚え、同じ失敗を繰り返すことはなかった。
才能があるというより、霊夢の完成された身体へ、私の操作が追いついていくだけに近い。
空中で静止し、自分の手を見る。
細く、白く、傷一つない手だった。
幻想郷で茶を受け取った時、霊夢の指先を何度か見たことがある。弾幕を放ち、妖怪を殴り、境内を掃除し、湯呑みを持つ手。細いのに、不思議と弱くは見えなかった。
今、同じ形の手が私の腕についている。
借り物だと考えればよいはずなのに、胸の奥で別の感情が動いた。
霊夢の手を、私が使っている。
その考えには申し訳なさと同時に、他人へ渡したくないような薄暗い満足が混じっていた。
私はすぐに地面へ下りた。
「さすがに、よくありませんね」
誰かの身体を模したものへ執着することも、それを本人とのつながりのように考えることも、正常とは言い難い。
霊夢に憧れていた。
そう言えば聞こえはよいが、実際には、彼女の強さや生き方だけでなく、表情や声、何気ない仕草まで記憶していた。本人が知らないところで、それらを何度も思い返したこともある。
尊敬だけなら、そこまでする必要はなかっただろう。
紫は、私が霊夢になりたかったのだと誤解した。
いや誤解しているふりか。
私は違うと答えたが、完全に間違っていると言い切る自信は、少しずつなくなっていた。
霊夢そのものになりたかったわけではない。
ただ、彼女の近くにいたかった。
近づけないなら、せめて忘れたくなかった。
そして今、私は霊夢の姿をしている。
これを喜べば、自分が何を求めていたのか認めることになる気がした。
考えを打ち切り、社務所へ戻る。
昼食を作ろうとして、台所の高さが身体に合っていないことに気づいた。
なにか手頃な踏み台を使えば問題はないが、以前なら必要のなかった作業が増えている。
包丁を握る手も小さく、重い鍋を持つ際には両手を使った方が安定した。
それでも、料理そのものはできた。
元の身体より不便な点はあるが、女性としての生活を一から覚え直す必要はない。髪の手入れや衣服、入浴についても、年齢と身体の違いに慣れれば済む。
問題は、外見が若すぎることと、生活の基盤が完全に失われたことだった。
会社は幻想郷へ行っている間に解雇されたのでこれはいい。
自宅へ戻っても、身分証明書と顔が一致しない。家族へ説明する手段もなく、紫がどこまで情報を操作しているのかも分からない。
今のところ、神社に巫女として就職したと解釈し、ここで暮らす以外の選択肢はなかった。
昼食を済ませ、境内の縁側へ座る。
山から吹く風は思ったより涼しく、蝉の声も建物の中で聞くより遠かった。
町へ降りる道、食料の残量、交通手段、必要な衣類、通信環境。考えるべきことを手帳へ順番に書いていく。
できないことはしない。分からないことも、分からないままにはしない。確認できる範囲を広げ、条件が整ってから動く。
それが、元の私のやり方だった。
霊夢なら、思い立った時点で空へ飛び出しているかもしれない。
その違いに、私は少しだけ安心した。
この身体がどれほど霊夢に似ていても、私は霊夢ではない。
少なくとも、危険を前にしてまず手帳を開くような人間ではなかったはずだ。
日が傾く前に、もう一度境内を低く飛んだ。
今度は最初より滑らかに動けたが、山の外へ出ることはしなかった。町まで飛べるとしても、人目や着地点、帰路を確認せずに試す理由はない。
最後に地面へ下り、空を見上げる。
霊夢が飛ぶ時は、もっと高く、もっと速く、何の迷いもなく進む。
その姿をもう一度見たいと思った。
同じ顔になった今でも、彼女本人を見たいという気持ちは消えていない。
むしろ、自分の顔を鏡で見るたびに、似ているだけのものでは足りないと分かる。
それが憧れなのか、別の名前をつけるべき感情なのかは、まだ考えないことにした。