翌朝、境内の掃除と簡単な飛行練習を終えたところで、当面の問題として衣類を買いに行くことにした。
食料には数日の余裕があり、電気や水道も使える。寝具や日用品も最低限はそろっているが、普段着だけはほとんど用意されていなかった。
巫女装束が複数あることを考えれば、紫は私がそれを日常着として使うつもりだったのかもしれない。
幻想郷なら問題はない。
博麗の巫女が巫女装束で歩いていても、誰も服装の理由を尋ねないだろう。
しかし、ここは現代日本である。
秋葉原でも東京でも京都でも出雲でも伊勢でもない。
私の住んでいた隣の町。政令指定都市で、賑わっているがそれだけだ。
神社の境内を掃除するだけならともかく、町へ降りて衣類や食料を買うたびに巫女装束を着ていれば、少なくとも周囲の記憶には残る。
自分がどう見えるかを気にする以前に、目撃情報が蓄積されることは避けたかった。
衣装箪笥には浴衣も入っていた。
紺地に白い花が描かれた、派手すぎないものだった。巫女装束よりは町中へ溶け込む可能性があるものの、浴衣で昼間から買い物へ出れば、季節柄あり得ないとまでは言えなくても、結局は人目を引く。
それ以前に、私は浴衣を自分で正しく着付けられなかった。
女性として長く暮らしてきたからといって、和装の着付けまで当然にできるわけではない。以前、祭りや旅館で浴衣を着た経験はあるが、どちらも案内を見ながら簡単に帯を巻いたか、最初から整えてもらっただけだった。襟の合わせ方や裾の位置くらいは分かるものの、外出着として崩れない形に仕上げる自信はない。
それでも一度は試してみた。
浴衣へ袖を通し、鏡の前で襟を合わせ、帯を手に取る。身体が巫女装束の紐を結ぶ時のように勝手に答えを出してくれる可能性も考えたが、期待した反応はなかった。
何度か巻き直した末に、形だけならそれらしく見える状態にはなった。しかし歩けば帯が緩みそうで、背中側の処理も正しいとは思えない。外から見れば浴衣を着た少女で済むかもしれないが、分かる人が見れば不自然だろう。
分からないことを、できたことにして外へ出る理由はなかった。
「これはやめましょう」
帯を解き、浴衣を脱いで元の位置へ戻した。
残る選択肢は巫女装束しかない。
ドレスコードとは、その場に即した服装を着るというだけではない。正しく着用しているかも、また重要なのだ。
幸い、子供のころから剣道経験が私にはある。
巫女服と剣道の袴などは同一ではないが、大きく違うわけではない。
霊夢の修行に付き合わせてもらって、巫女服も借りたことがあり、一通り拙いながらも着付けをした。
白衣と緋袴へ着替えると、こちらは考える必要もなく形が整った。浴衣では何度試しても決まらなかった襟元が、巫女装束では鏡を見なくても正しい位置へ収まる。帯や紐を締める手順も身体が知っており、着終わった後に直す場所はほとんどなかった。
便利ではあるが、納得はしにくい。
衣装箪笥の上には、大きな赤いリボンが置かれていた。
霊夢の姿を構成するものとして、顔や髪と同じくらい印象の強い装飾だった。幻想郷で初めて彼女を見た時も、最初に目へ入ったのは鮮やかな赤だったと思う。
手に取り、布の感触を確かめる。
これは霊夢本人が使っていたものではなく、紫がこちらの身体に合わせて用意した別物にすぎない。
それでも、自分の髪へ結ぶことには奇妙な抵抗があった。
同じ顔と身体を与えられ、さらに同じ服を着ている。そこへこのリボンまで加えれば、鏡の中に映るものは、私の知る博麗霊夢とほとんど区別がつかなくなるだろう。
それを避けたいと思う一方で、完成した姿を一度じっくり見てみたいという気持ちも、否定できない程度には存在していた。
霊夢と同じ顔が、霊夢と同じ衣装をまとい、霊夢と同じ赤いリボンを結ぶ。本人なら見慣れているはずの姿を、私は鏡越しに、誰にも邪魔されずたっぷりと眺めることができる。
その考えに自分で気づき、リボンを箪笥へ戻した。
「町へ行くだけですから、必要ありません」
口に出して理由を作る。
実際、大きなリボンを外すだけでも、霊夢本人との印象は多少変わるだろう。
巫女装束そのものが目立つことに変わりはないが、完全に同じ姿で歩くよりはマシだった。
財布と携帯電話、身分証明書、手帳を小さな鞄へ入れ、戸締まりを確認してから境内へ出る。町へ向かう道は前日に地図で調べてあったものの、実際に歩くのは初めてだった。
山道は想像していたよりも整備されていた。
神社の所有地には植林された杉が多く、道沿いの下草も定期的に刈られている。
管理する人間がいなくなったと紫は言っていたが、完全に放置されていたわけではないらしい。
坂を下るにつれて住宅が増え、蝉の声に車の走行音が混ざり始めた。
最初にすれ違ったのは、犬を連れた年配の女性だった。
女性は私を見ると一度足を止め、巫女装束から顔へ視線を移した。見知らぬ神職へ挨拶するべきか迷ったらしく、軽く頭を下げる。
「おはようございます」
こちらから声を掛けると、女性は少し安心したように笑った。
「おはよう。お山の神社の子かい」
「ええ。しばらく、あちらで暮らすことになりました」
「そうなの。ずいぶん若い巫女さんが来たんだねえ」
事情を尋ねられるかと思ったが、女性はそれ以上踏み込まず、犬に引かれるように歩いていった。
神社に若い人間が住み始めたことは珍しいだろうが、不審に思われるほどではないらしい。紫が周囲の認識へ何らかの処置をしている可能性はあるものの、現時点では判断できなかった。
住宅地へ入ると、びっくりするほど人の視線は増えた。
巫女装束で歩いている以上、見られること自体は想定内だった。
だが結果は想定以上だった。
車の助手席にいた子供が振り返り、通学途中らしい高校生がこちらを見て何かを話している。露骨に撮影のため携帯電話を向ける人間はいなかったが、今後もそうだという保証はない。
きっと隠れて撮影されているだろう。
私は顔を伏せず、周囲を確認しながら歩いた。
目立たないために挙動を不自然にすれば、かえって記憶へ残る。服を買うまでの一度だけなら、堂々としていた方がよい。
不釣り合いな人物はいいが、不審者になってはいけない。
町の中心部には駅へ続く商店街と、その少し先に複数の店舗が入った商業施設があった。最初に見つけた衣料品店は価格こそ手頃だったが、現在の身体に合う寸法が少ない。子供服売り場なら選択肢は増えるものの、見た目まで幼くなる服は避けたかった。
身分証明書上は十六歳である。実際の外見は十四歳ほどに見えるとしても、子供として扱われやすい服装を選ぶ必要はない。
二軒目に入った店は、若い女性向けの衣類を中心に扱っていた。店員は私の姿を見ると、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに営業用の笑顔へ戻った。
「何かお探しですか」
「普段着を一式そろえたいんです。できれば動きやすく、手入れに手間のかからないものをお願いします」
「一式というと、今日着る分もですか」
「可能なら、購入後に着替えて帰ります」
店員は巫女装束を見た後、事情を尋ねるべきか迷ったらしい。しかし、客が説明しない以上は触れないことにしたようだった。
「色や雰囲気の希望はありますか」
一瞬、赤が私の脳裏をよぎるが振り払う。
黒。
無難で、元の私に似合っていた色合いでまとめよう。
「白、黒、濃い灰色の範囲で、装飾は少ないものがいいです。山道を歩くので、スカートよりパンツを優先してください」
「かなりはっきり決まっているんですね」
「ええ。用途が決まっていますから」
店員に案内され、白い半袖シャツ、黒いカーゴパンツ、薄手の黒いパーカを選んだ。靴は別の売り場で買う必要があるが、衣類だけでも当面の問題は解決できる。
試着室へ入り、巫女装束を脱ぐ。
白衣と緋袴を畳む手つきは、自分でも不自然に思うほど慎重だった。しわを残さないよう折り目を整え、赤い布へ汚れがついていないことを確認してから、用意された籠へ置く。
本人の衣服ではない。
そう理解していても、霊夢の姿に属するものを乱雑に扱う気にはなれなかった。
下着姿の私に、興奮することはあまりなかった。
短い期間とはいえ、霊夢とは生活を共にしている。見慣れるほどではないが、よく見た。
それに裸や下着が好きなわけではない。私は霊夢との交流に興奮……違った。彼女との交流を望んでいるのだから。
選んだシャツへ腕を通し、カーゴパンツを履く。丈は問題なかったが、以前の身体と比べれば腰も脚も細く、同じような服を着ても全体の印象が異なる。
試着室の鏡には、白と黒だけでまとめた少女が映っていた。
巫女装束を脱いだことで霊夢らしさは薄れたはずなのに、顔と髪が同じ以上、完全には切り離せない。
むしろ見慣れない服を着せたことで、霊夢本人が外の世界へ来て、私の好みで選んだ服を着ているようにも見えた。
意識して選んだつもりはないのに、さすが霊夢。なんでも似合う。
白い襟元から伸びる首筋と、黒いパンツに包まれた細い脚を見て、似合っていると素直に思う。
自分に似合っているというより、霊夢に似合っている。
その考えが自然に浮かんだ。
もし本人を外の世界へ連れ出すことができたなら、こういう服を着せてみたい。赤と白以外の霊夢が、町を歩き、店の鏡を見て、落ち着かない顔をするところを隣で眺めてみたい。
服を選ぶという名目なら、本人の身体を上から下まで見ても不自然ではないだろう。
それを……この手で触れて、堪能して…………。
そこまで考えたところで、鏡の中の顔が険しくなった。
「私は何を考えているんでしょうね」
試着室の外から、店員の声がした。
「何か合いませんでしたか」
「いえ。服には問題ありません」
問題は中身。私の方だ。
カーテンを開けると、店員は一瞬言葉を止め、それから全身を確認するように視線を動かした。
「すごくお似合いです。最初に見た時は、もう少し和風で可愛い感じがいいかと思ったんですけど、こういう格好だとずいぶん印象が変わりますね」
たしかに。
思っていた以上に似合ったし、ヒップホップダンスをしていると言っても納得してしまうマッチぶりだった。
「背中とか、動きにくそうな場所はありますか」
「サイズは合っています。しゃがんでみてもらえますか」
指示に従って膝を曲げ、腕を上げ、肩や腰の可動域を確かめる。しゃがんでも裾が邪魔にならず、ポケットの位置も使いやすい。山道を歩く程度なら問題ないだろう。
山……作業用の手袋もいるかも。
「これにします。同じ形で、替えをもう二組お願いします」
「全部白と黒でそろえますか? せっかくなので別の色も似合うと思いますよ」
「管理しやすいので、同系統で構いません」
「赤とか、すごく似合いそうですけど」
赤という言葉に、箪笥へ戻したリボンが浮かんだ。
一緒に霊夢のあのツンと澄ました顔も。
「赤は、今のところ十分です」
店員には意味が通じなかったらしく、少し不思議そうな顔をされた。
衣類を購入し、着てきた巫女装束は紙袋へ入れてもらった。白衣と緋袴が店の袋に収まっている光景には妙な違和感があったが、そのまま着て帰るよりは人目を引かない。
続いて靴売り場へ移動し、白と黒でまとめた軽いスニーカーを購入した。底が厚すぎず、足首を動かしやすいものを選び、その場で履き替える。黒い薄手のパーカは暑いため腰へ巻き、財布や携帯電話を入れる小さなショルダーバッグも追加した。
山作業用のブーツもいるかな?
でも、それはまた後だ。
必要なものを一通りそろえ、商業施設を出る。
巫女装束ではなくなった以上、先ほどより視線は減ると考えていた。
ところが、意外。
期待したほどの変化はなかった。
すれ違った女性が一度こちらを見た後で振り返り、同年代に見える少女たちが小声で何かを話している。幼い子供は遠慮なく顔を見上げ、母親に手を引かれても視線を外さなかった。
服装以外にも、若い人間が一人で大きな買い物袋を持っていることや、長い黒髪が目につくことは考えられる。神社へ向かう道を歩いているため、先ほどの巫女と同一人物だと気づかれている可能性もあった。
さっきまで巫女服だったのに、まったく違う服装になっている。同一人物なのかと確認されているのかもしれない。
外見そのものが原因だという考えも浮かんだが、自分の顔を客観的に評価することにはまだ慣れていない。
霊夢が人目を引く容姿であることは知っているものの、それが自分へ向けられる視線として返ってくると、実感が伴わなかった。
店舗のガラスへ映る姿を横目で確認する。
白いシャツと黒いカーゴパンツは、狙いどおり軽装で、動きを妨げるものもない。自分の好みとしても不満はなかった。
そしてやはり、霊夢によく似合っていた。
そう考えると、ほんの少しだけ気分がよかった。
自分が褒められたわけでもないのに、霊夢の魅力を自分だけが正しく引き出したような、根拠のない満足があった。
この身体は霊夢本人ではない。
服を選んだのも、着ているのも私である。
それでも、鏡やガラスに映るたび、私は自分の姿ではなく、普段とは違う霊夢を見つけたような気分になる。
正常な距離感ではないことは分かっていた。
だけど……。
紫に何の同意もなくこの身体へ変えられた以上、多少の慰めを得るくらいは許されてもよいだろう。
そう考えている時点で、慰めという言葉を都合よく使っている自覚もあった。
「慰め……ってなによ」
私は選んだ単語に自嘲した。
邪な考えを吹っ切って、町を出る前に飲み物を買い、来た道を戻る。
上り坂へ入ると、歩幅の違いが負担として現れた。
以前なら一定の速度で登れた傾斜でも、今の身体では脚が短く、荷物を持っている分だけ呼吸も早くなる。
あまり知られていないが、上り道というのは身長が有利に働く。
頭の重心移動と振り方と、歩くという実質倒れるところを踏ん張るという繰り返す行動は、身長が高いほどエネルギーを生み出し、反動を受け取りやすい。
霊夢の身体能力そのものは低くない。むしろ平衡感覚や身のこなしは以前より優れているが、長時間の歩行に必要な筋力と体格は別の問題だった。
飛行を使えば楽に戻れるけど、境内の外ではまだ一度も試しておらず、周囲にはまだ住宅もある。
疲労を理由に安全条件を緩めれば、今後も同じ判断を繰り返すことになる。
選択肢は多い方がいいが、楽のため選択肢を増やすのは事故につながる。
意志を固めて登る。
途中で二度休憩し、飲み物を補給しながら歩いた。
住宅が途切れ、神社の所有地へ入ったところで、ようやく周囲に人がいないことを確認できた。木々に隠れる程度の高さまで浮かび、歩くより少し速い速度で山道を進む。
広い空を飛ぶ開放感ではないが、登り道から解放された感覚はそれはそれで素晴らしい。
紙袋の中身が傾かないよう片腕で抱え、もう一方の手で姿勢を調整する。荷物を持った状態では重心がずれるものの、身体はすぐに補正方法を見つけた。
自分で試行錯誤するより先に、身体が正しい動きを選ぶ。
その感覚には、まだ慣れなかった。
鳥居を潜って境内へ着地し、玄関へ入る。買った衣類を箪笥へしまい、巫女装束はしわを伸ばして元の場所へ戻した。
大きな赤いリボンは、出かける前と同じ位置に置かれていた。
白と黒の服を着たまま、それを手に取る。
今の服装へ合わせるつもりはない。それでも、黒い髪へ赤いリボンを結べば、どのように見えるのかという興味が再び浮かんだ。
自分が見たいのは、現在の自分なのか、別の服を着た霊夢なのか。
答えはおそらく後者だった。
その事実を認める代わりに、私はリボンを丁寧に畳み、衣装箪笥の奥へしまった。
気持ちを切り替えろ、私。
よし。普段使いする衣類は手に入った。
これで、町へ出るたびに博麗の巫女を名乗るような格好をせずに済む。
ただ、衣装を変えた程度では、自分が霊夢の姿をしているという問題まで薄れるわけではなかった。
鏡の前を通ると、白と黒の服を着た少女がこちらを見る。
私は少しだけ足を止め、その姿を確認してから、何も見なかったことにして台所へ向かった。