異世界転生したのに前の転生者にやり尽くされていた件 作:berunarudo
「というか、師匠は何で森にいたんだよ」
雨は、いつの間にかやんでいた。
さっきまで灰色に沈んでいた空の隙間から、細い日差しが落ちている。濡れた葉の先から雨粒がこぼれ、地面の泥に小さな波紋を作っていた。
俺と師匠は、大暴鳥の死骸が横たわる森の中にいた。
あらためて見ると、とんでもない光景だった。
折れた大木。抉れた地面。血に濡れた草。
砕け散った俺のショートソードの破片。
少し離れた場所には、俺が倒した暴鳥の死骸が転がっている。さらにその奥には、師匠が一撃で仕留めた大暴鳥が、黒い山のように沈んでいた。
さっきまで、俺はあれと戦っていた。
そう思うだけで、背中に冷たいものが走る。
勝てる相手ではなかった。
今なら分かる。
あの時の俺は、怒りと焦りと劣等感で目が曇っていた。
自分を主人公にすると言いながら、実際には、自分が主人公ではないことを認めたくなくて、死にに行っていただけだったのかもしれない。
それでも、生きている。
師匠が来たからだ。
だからこそ、気になった。
なぜ、師匠はあの場にいたのか。
俺は依頼を受けて森に来た。
だが、師匠は領主館にいたはずだ。
「最近、この周辺の魔物が異常だった」
師匠は大暴鳥の死骸を見上げながら言った。
「だから、その調査をするために、お前たちについてきたってのもある」
「護衛だけじゃなかったのか」
「護衛も仕事だ。調査も仕事だ。」
「それで森を調べていたら、どこぞの馬鹿弟子が死にかけてたわけだ」
「え、へへへ……」
俺は肩を落とした。
なるほど。ようやく分かった。
どうして、めんどくさがりの師匠がわざわざ俺たちの遠征についてきたのか。
もちろん、俺たちの護衛という理由もあったのだろう。けれど、それだけではなかった。
師匠は、この周囲の異常を最初から警戒していたのだ。
◇
「お前が倒した暴鳥。俺が倒した大暴鳥。それから赤眼熊」
師匠は足元に落ちていた枝を拾い、泥の上に簡単な絵を描いた。
妙に上手いのが腹立つな。
この人、本当に変なところで器用だ。
「こいつらは、本来なら山岳地帯にいる魔物だ」
「山岳地帯?」
「ああ。少なくとも、こんな街近くの森に当たり前みたいに出てくる魔物じゃねぇ」
俺は周囲を見回した。森は静かだった。
けれど、その静けさが逆に不気味だった。
大暴鳥が暴れたせいで、普通の獣や小型の魔物は逃げたのかもしれない。
木々の奥から聞こえるはずの鳴き声も、今はほとんどない。
ただ、濃い魔粒子だけが空気の中に漂っていた。
「それが、ここまで降りてきている」
師匠は枝で地面を叩いた。
「問題は、なぜ降りてきたかだ」
「何か原因は分かったの?」
師匠は首を振った。
「いや。決定的な手掛かりはまだねぇ」
「そっか」
「だが、分かったこともある」
「何?」
「どいつも怯えていない」
俺は首を傾げた。
「怯えていない?」
「ああ」
師匠は泥の上に、大きな矢印を二本描いた。
「いいか、魔物が大移動――スタンピードを起こす時は、大きく分けて二つのパターンがある」
「二つ」
「一つ目は、自分より強い魔物に追われているパターンだ。山の奥に化け物が現れた。縄張りを追われた魔物が逃げる。逃げた魔物が別の魔物を押し出す。そうやって連鎖的に魔物が人里へ流れてくる」
「それは分かりやすいな」
強い魔物に追われて逃げる。
自然界ならあり得る話だ。俺だって、大暴鳥が後ろから追ってきたら街まで全力で逃げる。いや、逃げ切れるかどうかは別として。
「だが、今回は違う」
「どうして?」
「逃げている魔物は、もっと周囲に敏感になる。背後を気にするし、怯えた動きをする。だが、お前が戦った魔物は違った」
師匠は大暴鳥の死骸へ視線を向ける。
「興奮していた。怯えているというより、何かに引き寄せられていた」
「引き寄せられていた……」
「二つ目のパターンだ」
師匠はもう一本の矢印を強くなぞる。
「魔物は魔力に惹かれる。正確には、強いエネルギーに敏感なんだ。濃い魔粒子。強い魔想。特殊な魔導具。そういうものがあると、魔物は本能的に寄ってくる」
その言葉に、俺は思い当たることがあった。
俺は魔想が多い。
魔術回路はないが、魔力炉だけは鍛えてきた。
昔から、魔物はやたら俺に反応していた。赤眼熊も、暴鳥も、俺が魔想を解放した途端に目の色を変えた。
あれは驚いたのではない。餌を見つけたのだ。
「なるほど。だから俺、狙われやすいのか」
「そういうことだ」
「嬉しくないな」
「魔物にモテモテだな、ルーク」
「最悪のモテ期だ」
師匠がかかかと笑う。
その笑い声はいつも通りだった。けれど、すぐに表情は真剣なものへ戻った。
「お前が戦った森にいる魔物は、どいつも興奮状態だった。逃げてきたんじゃねぇ。何かに惹かれて、ここまで来ている」
「つまり、二つ目のパターン」
「正解だ」
師匠は俺の頭を乱暴に撫でた。
「お、やるじゃねぇか」
「子供扱いするな」
「十歳だろ」
そう言いながら師匠は地面の絵を靴で消した。
「問題は、その引き寄せている力が何かだ」
「街か、この森に、強力な魔力を持つ何かがある?」
「その可能性が高い」
「でも、師匠でも分からないのか」
「分からん。俺は狩人であって、万能の神様じゃねぇからな」
「師匠なら何でも分かりそうなのに」
「何でも分かるやつなんざ、だいたい詐欺師だ」
それは妙に説得力があった。
師匠は空を見上げた。
雨上がりの空は少しずつ明るくなっている。けれど、森の奥にはまだ重い空気が残っていた。
「このまま放っておけば、魔物は間違いなく集まる。数が増えれば、いずれ街へ流れる」
「スタンピード……」
「ああ」
師匠の声は低かった。
「そうなれば、この街はただじゃ済まねぇ」
キャンウィング領。
魔導列車があり、大きな教会があり、領主館があり、多くの人が暮らす街。
昨日までは、俺にとって外の世界の象徴だった場所。
そこに魔物の大群が押し寄せる。想像しただけで、背筋が冷えた。
「どうする?」
「領主に報告する」
師匠は即答した。
「俺たちだけでどうにかする段階じゃねぇ。領主、騎士団、冒険者、場合によっちゃ王都にも話を通す必要がある」
「分かった」
「その前に」
「うん?」
俺は大暴鳥と暴鳥の死骸を見た。
「これ、どうする?」
討伐依頼の対象は暴鳥だ。素材も報酬もある。
大暴鳥に関しては、俺が倒したわけではないが、とんでもない価値があるはずだ。
師匠はわざとらしく耳に手を当てた。
「あん? 何も聞こえねぇな」
「師匠、手伝って」
「聞こえねぇなあ」
「報酬、少し分けるから」
「おいおい、つれねぇな。説教代もよこせ」
「この銭ゲバ野郎」
俺がそう言うと、師匠はくるりと背を向けた。
「じゃあ、一人で持って帰ってこい」
「嘘です。報酬渡します。手伝ってください」
「そうだよな。かかかか!」
こういうところは、本当にいつも通りだ。
さっきまで泣きそうな顔で過去を語っていた男と同一人物とは思えない。
でも、だからこそ少し安心した。
師匠は師匠だ。
過去に何があっても、後悔を抱えていても、こうしてふざけて笑っている。
俺も、そういう強さを少しだけ見習いたいと思った。
◇
冒険者ギルドに戻る頃には、昼を少し過ぎていた。
ギルドの中は、朝とほとんど変わらない景色だった。
酒を飲む冒険者。依頼書を眺める若い冒険者。受付で報酬を受け取る者たち。壁に並ぶ依頼書。
違うのは、俺の横に雷窮のジャンがいることくらいだ。
受付嬢のローズさんは、俺の顔を見るなり固まった。
「……生きてた」
「第一声それかよ」
「だって、Bランク依頼を受けた十歳の子供が、昼過ぎに帰ってきたのよ? 普通は驚くわよ」
「まあ、それはそうかも」
「それで、依頼は……」
「暴鳥は倒しました」
ローズさんはしばらく俺を見た。
それから、俺の後ろに積まれた暴鳥の素材を見た。
さらに、その横にある明らかに規格外の黒い羽を見た。
「……これは?」
「大暴鳥の素材だな」
師匠が横から口を挟んだ。
「大暴鳥」
ローズさんの顔から血の気が引いた。
「大暴鳥!?」
ギルド中の視線がこちらへ向いた。
「いやいやいや、待ってください。暴鳥でもBランク相当ですよ? 大暴鳥はAランク指定です。そもそも、この近辺に出るはずが――」
「出たんだよ」
師匠は面倒くさそうに言う。
「俺が仕留めた」
「あなたは……」
ローズさんが師匠を見た。
その目が、次の瞬間大きく開かれる。
「まさか、雷窮のジャン様……?」
「そういうこった」
師匠が軽く手を上げる。
その瞬間、ギルドの空気が変わった。
疑いや困惑、ざわめきは、一瞬で、驚きと納得に塗り替えられる。
ずるい。
俺がどれだけ説明しても信じてもらえなかっただろうに、師匠が名乗るだけで全部解決する。
いや、実績とはそういうものなのだろう。
それでも少しだけ悔しい。
最終的に、俺の暴鳥討伐は認められた。
ただし、大暴鳥の討伐者は師匠として処理された。
当然だ。実際に倒したのは師匠なのだから。
俺は暴鳥の報酬を受け取り、師匠は大暴鳥の報酬を受け取った。
金額は、桁が二つ違った。
「……師匠」
「あん?」
「まさか、最初からこれを狙っていたのでは?」
「かかかか。何のことだか分かんねぇなあ」
師匠は実に嬉しそうに笑っていた。
その顔面に拳をぶつけたい衝動を抑えるのが大変だった。
ただ、報酬を受け取った時、俺は少しだけ手の中の重みを感じた。
これは俺の実績だ。
暴鳥を倒したのは俺だ。
その事実まで、なかったことにする必要はない。
ジャンに言われた通りだ。
俺は、自分の力を認めなければならない。
「あ、そういえば」
ローズさんが不安そうに周囲を見回した。
「グーズ様を見ませんでしたか?」
「グーズ?」
俺は首を傾げた。
「あいつなら、森で途中まで見たけど、その後は知らない」
あいつがいつの間にか消えていった。
本当にどこへ行ったのか、俺は知らない。
まあ、正直どうでもいい。
あんなやつのことを考えるより、今はスタンピードの方が問題だ。
◇
夕方。
俺たちは領主館へ戻った。
門をくぐると、濡れた石畳が夕陽を反射していた。雨上がりの空は赤く染まり、屋敷の白い壁を柔らかく照らしている。
「お帰りなさいませ、ジャン様、ルークス様」
領主館の扉の前に、執事ミシェルさんが立っていた。
まるで、俺たちが帰ってくる時間を最初から知っていたかのようだった。
この人、気配でも察知しているのだろうか。
一流の執事は違うな。そんな呑気な感想を抱きかけた時だった。
「おい、ルーク」
師匠が、低い声で言った。
「はい?」
「あいつ、強いぞ」
「え?」
俺は思わずミシェルさんを見る。
たしかに、立ち姿は綺麗だ。
隙も少ない。
でも、強いと言われると少し不思議だった。
「確かに、強そうではあるけど」
「そういう意味じゃねぇ」
師匠の声には、いつもの茶化すような響きがなかった。
「あいつ、完全に気配を消してやがる」
「完全に?」
「ああ。俺でも、正面からやれば勝てるかどうか分からん」
背中に冷たいものが走った。
あの大暴鳥を一撃で射抜いた師匠が、ただの執事を見て警戒している。
その事実だけで、ミシェルという男の見え方が変わった。
俺の目の前にいるのは、ただの執事ではない。
少なくとも、雷窮のジャンにそう思わせる何かを持った人物だ。
ミシェルさんは、こちらの会話が聞こえていないかのように、穏やかに微笑んでいる。
その笑みが、急に薄い仮面のように見えた。
「ミシェルさん」
「はい」
師匠が一歩前へ出る。
「領主エルランド様と話がしたい」
「ただいま、旦那様は事務作業のお時間でございます。少し後ほどでもよろしいでしょうか」
「いや、今すぐだ」
師匠の声が鋭くなる。
「重大事項だと伝えてくれ」
ミシェルさんの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
本当に一瞬だった。
普通なら気づかないほどの変化。
だが、今の俺には妙に引っかかった。
「……承知いたしました」
ミシェルさんは深く頭を下げた。
「大至急、旦那様にお伝えしてまいります」
そう言って、音もなく廊下の奥へ消えていく。
足音がしない。
ただ歩いているだけなのに、気配が薄い。
俺は思わず師匠を見た。
「師匠」
「言っただろ」
師匠はミシェルさんが消えた廊下を見つめていた。
「あれは、ただの執事じゃねぇ」
◇
しばらくして、俺たちは執務室へ通された。
室内には、大量の書類に囲まれた領主エルランド・キャンウィングの姿があった。
机の上には書類の山。
帳簿。封蝋された手紙。地図。
それから、前世で見覚えのある形のペン。
……あれ、ボールペンじゃね?
この世界、本当にどこまで異世界なんだ。
いや、今はそれどころではない。
「すまないね。今日の仕事がまだまだ残っていてね」
エルランドさんは疲れた顔で微笑んだ。
「時間を取ってくれて感謝する」
師匠は珍しく真面目な声で言った。
「それで、私にどのような用だね、ジャン・ボルト殿」
師匠はまっすぐエルランドさんを見た。
「この場所で、スタンピードが起きかけている」
エルランドさんの手が、ぴたりと止まった。
部屋の空気が変わる。
「それは、誠かね」
「ああ」
師匠は短く答えた。
「この俺、雷窮のジャンがそう判断した」
エルランドさんはペンを机に置いた。
軽い音が、やけに大きく聞こえた。
「我々も、騎士や冒険者を使って調査はしていた」
エルランドさんはゆっくりと口を開く。
「近年、周辺に現れる魔物が異常に増えていることは確認している。山岳地帯の魔物が降りてきていることも、報告には上がっていた」
「なら話は早い」
「だが、スタンピードにまで達しているとは判断していなかった」
「今のところ、まだ完全には起きていない」
師匠は言った。
「だが、放っておけば間違いなく起きる」
エルランドさんは深く息を吐いた。
「原因は?」
「魔力欲求の方だ」
「……最悪のパターンだな」
「ああ」
師匠の表情は険しい。
「魔物は何かに惹かれている。怯えて逃げているんじゃねぇ。強い力を求めて集まっている」
執務室に静寂が落ちた。
俺は二人の会話を黙って聞いていた。
領主としてのエルランドさんの顔は、昨日の穏やかな父親の顔とは違っていた。
エリシアを心配していた優しい父親ではなく、領地全体の命を背負う為政者の顔。
この人は今、街に住む全員の命を考えている。
「この領地に、魔物を引き寄せるようなものはない」
エルランドさんははっきりと言った。
「それは本当ですか?」
思わず俺は口を挟んでいた。
エルランドさんは俺を見る。
「誠だ。少なくとも、私の知る限りでは存在しない」
「なら、事態はもっと悪い」
師匠が言った。
「外から持ち込まれた可能性がある」
「つまり」
エルランドさんの目が細くなる。
「テロの危険性がある、ということだな」
「テロ……」
思わず声が漏れた。
魔物の異常発生。それが自然現象ではなく、誰かの手で引き起こされているかもしれない。
そんなことができるのか。
いや、この世界には魔術がある。魔導具がある。アレスが残した技術もある。
そして、俺が知らないだけで、もっと危険なものもあるのだろう。
エルランドさんは立ち上がった。
「至急、本国に応援を要請する」
その声には迷いがなかった。
「騎士団にも警戒を強めさせる。冒険者ギルドにも通達を出そう」
「それがいい」
「もし、それまでに動きがあった場合、ジャン殿にも協力してほしい」
エルランドさんは師匠の前で頭を下げた。
領主が、冒険者に頭を下げる。
それだけ、事態は重いということだ。
「かかか」
師匠はいつものように笑った。
「この街がなくなれば、王都まで行くのが面倒だ」
「ジャン殿」
「もちろん協力するぜ」
「感謝する」
こうして、俺たちは執務室を出た。
廊下へ出る直前、俺はふと振り返った。
エルランドさんはすでに書類へ向かっていた。
だが、その表情はさっきよりずっと険しかった。
領主館の外では、夕陽が少しずつ沈み始めている。
夜が近づいていた。
◇
夕食の時間。
俺はレンとサラに会った。
たった一日しか経っていないはずなのに、二人と会うのがずいぶん久しぶりのように感じた。
二人はエリシアと一緒にいた。
「まさか、勇者様が本当に勇者様になってしまうとは」
エリシアは頬を赤らめ、レンを見つめている。
「えへへ」
レンは完全に溶けていた。
分かりやすく言えば、褒められすぎて頬が緩みっぱなしである。
「今日ずっとその顔だよ、レン君」
サラがにこにこと笑っている。
「い、いや、だってさ。勇者だぞ、勇者。俺、本当に勇者だったんだぜ」
「うん。すごいね」
「だろ!」
「でも、調子に乗りすぎないようにね」
「はい」
俺はその光景を見て、少しだけ息を吐いた。
レンはいつも変わらない。
勇者になっても、褒められて浮かれても、サラに注意されればすぐにしゅんとする。
その単純さが、少し羨ましくて、少し安心する。
レンが俺に気づいた。
「おい、ルークス! どこ行ってたんだよ!」
「そうだよ、どこに行ってたの?」
サラもこちらを見る。
俺は一瞬だけ迷った。
大暴鳥と戦って死にかけた。
全部を話すには、夕食前の空気が平和すぎた。
「ちょっと師匠とお出かけだ」
「なに、それいいな!」
レンが目を輝かせる。
「明日はみんなで行こうぜ!」
「いいね」
サラも微笑んだ。
俺の予定が、勝手に埋まった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
レンといると、退屈しない。
サラといると、少し落ち着く。
エリシアはレンにくっつきすぎだが、まあ今は見なかったことにする。
夕食は賑やかだった。
師匠も、エルランドさんも、ガードナーさんも同じ席で食事をした。
エルランドさんは少し疲れているようだったが、エリシアの前では穏やかな父親の顔を崩さなかった。
その姿を見て、俺は思った。
この人も守ろうとしているのだ。
みんな、それぞれの場所で何かを守ろうとしている。
俺も、俺のやり方で守りたい。
◇
「はぁ」
夜空を眺める一つの影が、深いため息を漏らした。
「まったく、イレギュラーばかりが起こって困ってしまいますね」
その影は、領主館の屋根の上に立っていた。
月明かりに照らされても、輪郭ははっきりしない。
まるで夜そのものが人の形を取ったように、黒い外套が風に揺れている。
影は一つではなかった。
屋根の端に。
煙突の影に。
庭園の木々の下に。
壁面の暗がりに。
いくつもの影が、静かに蠢いていた。
人のようで、人ではない。
魔物のようで、魔物でもない。
それらは声を発することなく、ただ主の言葉を待つように夜の中で揺れていた。
「勇者の誕生」
影は指を一本立てる。
「スタンピードの早期発覚」
二本目。
「エリシアの誘拐失敗」
三本目。
「どれもこれも、あの忌々しい集団のせいですよ」
声は穏やかだった。
だが、その奥には冷たい怒りがあった。
「このままでは、面倒な勇者が来てしまいますね。騎士団も動く。領主も警戒を強める」
影は夜空を見上げた。
満月が出ていた。
雲ひとつない空に、白く丸い月が浮かんでいる。
その光は、キャンウィング領の屋根を静かに照らしていた。
「ああ、夜空を照らす月よ」
影は、月へ手を伸ばす。
「あなたは明日には欠けているでしょう」
その言葉は、祈りのようでもあり、宣告のようでもあった。
「私の計画は、常に完璧でなければならない」
影の指先に、黒い魔力が集まる。
それは普通の魔術とは違っていた。
魔術師が扱う属性の光ではない。
魔導具が放つ人工的な輝きでもない。
もっと深く、もっと冷たく、見ているだけで意識が沈んでいくような闇。
影が、月を掴むように手を閉じる。
「私の計画は絶対です」
黒い魔力が、夜空へ滲んだ。
月明かりが、わずかに揺らぐ。
「いただくとしましょう」
影は微笑む。
「太陽を」
そして、その影は静かに呪句を告げた。
「全解――Beware the abyss」
その言葉だけは、この世界のどの詠唱とも違っていた。
まるで、世界の外側から持ち込まれた異物のような響きだった。
次の瞬間、月が黒く染まった。
闇が空を覆う。星が消える。月明かりが消える。
街灯の光さえ、夜に呑まれるように弱まっていく。
キャンウィング領の上空に、巨大な影が広がった。
それは雲ではない。
夜そのものが、街へ落ちてきたようだった。
その日。
キャンウィング領に、朝は訪れなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
作中に登場する英語は基本的に英語ではなく、オリジナルの言語というかその人にしか理解できないものが基本です。言い表せないものを無理矢理表した形です。
特に印象に残った場面や台詞がありましたら、一言だけでも感想をいただけると、とても励みになります。