異世界転生したのに前の転生者にやり尽くされていた件 作:berunarudo
朝が来なかった。
最初にそう思ったのは、目を開けた瞬間だった。
いつもなら、窓の隙間から差し込む朝日が、まぶたの裏を薄く照らしてくれる。
故郷の町にいた頃からそうだった。朝になれば、鳥が鳴き、母さんが台所に立つ音がして、ルーシーの寝ぼけた声が聞こえてくる。
キャンウィング領の領主館でも、昨日までは似たようなものだった。
使用人たちが廊下を歩く足音。庭の手入れをする音。遠くから聞こえる街のざわめき。魔導列車の低い汽笛。
そういうものが、朝を教えてくれていた。
だが、今日は違った。
暗い。部屋の中が、夜のままだった。
最初は、まだ深夜なのかと思った。
寝たつもりになっていただけで、実はほとんど時間が経っていないのかもしれない。そう考えて、俺はベッドの上で身体を起こした。
けれど、違う。
身体には、確かに眠った感覚があった。
頭の奥には、浅いながらも眠りから引き上げられた重さがある。
腹も少し減っている。喉も乾いている。
夜明け前、というには長く眠りすぎている。
俺は窓へ近づいた。
カーテンを開ける。
外は、黒かった。
星のない夜。月のない空。街の屋根も、庭園の木々も、領主館の白い壁も、すべてが薄い闇に沈んでいる。
部屋の魔導灯が切れたとか、窓の向きが悪いとか、そういう問題ではなかった。
街全体が、夜に閉じ込められている。
◇
しばらくして、俺たちは領主館のロビーに集まった。
そこにはすでに、レン、サラ、エリシア、マリー、ガードナーさん、そして師匠がいた。
使用人たちも廊下の奥で不安そうに集まり、互いに小声で何かを話している。
誰も、状況を理解できていなかった。
時計は朝を示している。朝食の準備も始まっている。けれど窓の外は夜のまま。
鳥は鳴かない。街のざわめきも、いつもより遠い。
代わりに聞こえるのは、不安げな人々の声だった。
「おいおい、どうなってやがる」
師匠が頭をかきながら呟いた。
「いつから一日の時間が変わったんだよ」
軽口のように聞こえたが、その片目は笑っていなかった。
昨日のスタンピードの話を思い出しているのだろう。師匠の視線は、何度も窓の外の闇へ向けられていた。
「ルーク、どうなってるんだ?」
レンが目をこすりながら聞いてきた。
眠そうな顔をしている。
勇者になった翌日だというのに、いきなり朝が消えるとは、さすがのレンも理解が追いついていないらしい。
「俺にも分からない」
俺は正直に答えた。
「ただ……なんだか、身体がムズムズする」
「ムズムズ?」
レンは首を傾げた。
俺は自分の腕を見下ろした。
皮膚の下を、細かい虫が這っているような感覚。
いや、虫というより、体内の魔想が落ち着かない感じだ。
血の流れと一緒に巡っている魔想が、外側から引っ張られているような感覚がある。
「分かる」
ガードナーさんが眉をひそめた。
「私も少し、身体の内側がざわつくような感じがあります」
「私もです」
マリーも小さく頷いた。
使用人たちの何人かも、似たような反応をしていた。
だが、レンとサラだけは違った。
「俺は特に何もないぞ」
「私も……少し不安だけど、身体がムズムズする感じはないかな」
二人だけが、この異常な感覚を共有していない。
それが何を意味しているのか、今の俺には分からなかった。
ただ、偶然ではない気がした。
「気分悪いぜ、まったく」
師匠が舌打ちをして、領主館の扉へ向かった。
「ここにいても解決しねぇ。ちょっくら調査してくる」
「俺も行くぞ!」
レンがすぐに手を挙げた。
だが、師匠は首を振った。
「こんな事態に、お前を連れていくかよ。大人しくしてろ」
「なんでだよ!」
「お前はトラブルメーカーなんだよ」
「おい、ルーク」
「え?」
「お前は来い」
「うぇー、なんでルークだけ!」
レンが不満そうに声を上げる。
「こいつはお前と違ってお利口だからな」
俺は苦笑しながら、師匠の後を追う。
扉が閉まる直前、サラと目が合った。
サラは少し不安そうな顔で、俺を見ていた。
「気をつけてね」
「ああ」
俺は小さく頷いた。
◇
領主館を出た瞬間、肌を撫でる空気の違和感がさらに強くなった。
「分かってんだろ、ルーク」
師匠が前を歩きながら言った。
「テロなんでしょ」
「はぁ。嫌な予感はよく当たりやがる」
師匠は苦々しげに呟いた。
街へ出ると、人々はすでに外へ出始めていた。
最初は、誰もが半信半疑だったのだろう。
朝なのに暗い。時計は進んでいる。店を開ける時間のはずなのに、空には太陽がない。
人々は空を見上げ、隣人と話し、騎士や兵士に説明を求めていた。
「どうなってやがる」
「おいおい、困るぜ。俺は朝が好きなんだよ」
「俺は夜の方が好きだぜ」
「ああん?」
「なんだよ」
「やめろ、お前ら!」
小さな言い争いが起きかけ、騎士が慌てて止める。
街はまだ暴動にはなっていない。だが、不安は確実に広がっていた。
昨日、師匠が言っていたテロの危険性。それが、現実味を帯びていく。
「ルーク、お前は何か分かるか?」
師匠に聞かれ、俺は首を振った。
「全身がムズムズする。でも、それ以上は分からない」
「だろうな」
師匠は空を見上げた。
黒い空。雲ではない。煙でもない。
「おそらくだが、これは結界じゃねぇ」
「結界じゃない?」
「ああ」
師匠は歩きながら答える。
「結界ってのは、普通は閉じ込めるため、守るため、遮断するために使う。だが、こいつは違う。俺たちの行動を制限してねぇ。街の外にも出られる可能性が高い」
「じゃあ、何のために?」
「餌だ」
俺は足を止めかけた。
「餌?」
「この闇は、俺たちの魔想を増幅している」
師匠の声は低い。
「増幅度は人によって違うだろうがな。体内の魔想をざわつかせ、少しずつ外へ漏れやすくしている。街全体から漏れた魔想が、この空間に満ちていく」
「満ちたらどうなる?」
「昨日話しただろ」
師匠は俺を見る。
「魔物は強い魔力に惹かれる」
嫌な汗が背中を伝った。
「満たされた魔想に引き寄せられて、魔物がこの場所を狙う」
「スタンピード……」
「ああ」
師匠は頷いた。
「じゃねぇと、こんな分かりやすい術を使う意味がない。俺たちを閉じ込めるわけでもなく、能力をむしろ増幅するようなテロなんぞ、普通ならあり得ねぇ」
「街そのものを餌場にしてるのか」
「そういうことだ」
胸の奥が冷たくなった。
この街にいる人々。みんなの魔想が、魔物を呼ぶ餌にされている。
◇
俺たちはそのまま門の前まで向かった。
騎士たちは混乱しながらも、なんとか人々を落ち着かせようとしていた。
師匠は騎士に短く事情を説明し、俺たちは門の外へ出る。
出られた。やはり、この術は街を閉じ込めているわけではない。
街の外に出て、俺は思わず息を呑んだ。
キャンウィング領だけが、黒い影に覆われていた。
街の上空に、丸く歪な闇が浮かんでいる。
その外側には、ちゃんと朝があった。
遠くの空は薄く明るい。山の稜線には光が差している。
森の向こうには、朝焼けの名残すら見える。
なのに、キャンウィング領だけが夜に沈んでいる。
「これほどの術……」
師匠が低く呟く。
「独想魔術か」
「師匠、なんだそれ?」
「魔術ってのは、基本的には式だ」
師匠は闇を見上げたまま説明した。
「魔術回路があって、術式を覚えれば、同じ属性や系統の魔術は誰でも扱える。もちろん、向き不向きはあるけどな」
「魔術回路があれば、だろ」
「ああ」
師匠は俺をちらりと見た。
「魔術回路がなけりゃ、そもそも入り口に立てねぇ」
分かっている。
それでも、その言葉は少しだけ胸に刺さった。
「だが、稀にいるんだ」
師匠は続ける。
「特定の魔術と、自分の魔術回路の相性が良すぎるやつがな。そういうやつの魔術は、ただの汎用魔術から外れていく。本人の思想、執着、人生そのものが術式に混ざる」
「人生が混ざる……」
「そうして変質した、本人にしか使えない魔術。それが独想魔術だ」
師匠の声は重かった。
「魔術師にとっては、到達点の一つだ。だが、厄介でもある。普通の魔術と違って対策が立てにくい。術者本人の価値観が術式になっているから、常識が通じねぇ」
俺は黒い空を見上げた。
これが誰かの思想や執着から生まれた魔術だとしたら。
その術者は、いったい何を考えているのか。
「ルーク」
師匠が俺の名を呼んだ。
「今回の相手は、わけが違う」
「……分かってる」
「分かってねぇ顔だな」
師匠は俺の頭を軽く小突いた。
「いざって時は逃げろ」
その声は、いつものふざけたものではなかった。
「昨日みたいに意地で突っ込むな。敵が独想魔術持ちなら、お前が想像してるよりずっと面倒だ」
「分かった」
俺は頷くしかなかった。
◇
領主館に戻ると、屋敷中の人間が慌ただしく動いていた。
廊下を使用人が走り、メイドたちが水や布を運んでいる。
空気が明らかに変わっていた。
「何があった!」
師匠が近くのメイドに声をかける。
メイドは顔を青くしながら答えた。
「お、奥様の容態が突然……!」
その言葉を聞いた瞬間、俺たちは駆け出した。
案内された部屋に入ると、苦しそうな声が聞こえた。
ベッドの上には、エリシアの母――アリシアさんが横たわっていた。
顔は青白く、額には汗が浮かんでいる。胸が大きく上下し、呼吸は浅く荒い。
「お母様! 頑張ってください!」
エリシアが必死に母の手を握っていた。
その隣で、サラが両手をかざしている。
白い光が、サラの手からアリシアさんの身体へ流れ込んでいた。
だが、サラの顔は苦しそうだった。
「くっ……うう……!」
光は確かに届いている。
しかし、アリシアさんの身体の奥にある何かが、それを拒んでいるように見えた。
正式に魔術を学んでいないサラには、あまりにも荷が重い。
「くそ、やべぇぞこれは」
師匠も手をかざした。
淡い回復魔術の光が、サラの光に重なる。
それでも、アリシアさんの苦しみは消えなかった。
俺は、何もできなかった。
でも、俺には魔術回路がない。
「俺も!」
レンがアリシアさんへ手をかざした。
その瞬間、レンの手の甲の痣が光った。
太陽のような、勇者の光。だが、次の瞬間。
アリシアさんの身体から、黒い瘴気が噴き上がった。
「ぐわっ!」
レンが吹き飛ばされる。
サラも、師匠も、エリシアも、俺も、衝撃で後ろへ弾かれた。
部屋の空気が一気に重くなる。
黒い瘴気は、アリシアさんの身体から湧き続けていた。
煙のようで、泥のようで、生き物のように蠢いている。
「お母様!」
エリシアが立ち上がり、母へ駆け寄ろうとする。
「待て!」
俺は反射的にエリシアの腕を掴んだ。
瘴気に触れたら危険だ。
そう思った。
エリシアは俺を振りほどこうとする。
「離して! お母様が!」
「だめだ! 今近づいたらお前まで――」
「嫌! また失うなんて嫌!」
その叫びに、俺は言葉を失った。
また、その言葉が重かった。
「私は……」
サラが、ゆっくりと立ち上がった。
肩で息をしている。顔色は悪い。
さっきの衝撃で腕も震えている。
それでも、サラはアリシアさんを見ていた。
「私は、諦めない」
その声は小さかった。
けれど、確かに部屋に響いた。
「絶対に、救ってみせる」
サラがもう一度、手をかざす。
その時だった。
サラの手の甲に浮かんだ印が、変化した。
花びらのようにも、光の羽のようにも見える白い痣。
その翼が、ゆっくりと大きく広がっていく。
レンの光とは違う。レンの光は、太陽だった。
見る者の目を焼くほど眩しく、前へ進むための光。
だが、サラの光は違った。
包み込む光だった。
ただ、そこにある痛みごと抱きしめるような、優しい光。
「はあああああ!」
サラの光が、部屋中に広がった。
黒い瘴気が押し返される。
アリシアさんの身体にまとわりついていた闇が、白い光に包まれてほどけていく。
エリシアは母の手を握ったまま、涙を流していた。
俺は、ただ見ていた。眩しいとは思わなかった。
レンの時とは違う。目を逸らしたい光ではなかった。
光が収まった。
部屋の空気が、少しだけ軽くなる。
アリシアさんの呼吸は、まだ弱い。
けれど、さっきまでの苦しげな喘ぎは消えていた。
「何が起こったんだ……?」
レンが呆然と呟く。
「分からない」
サラは肩で息をしながら、自分の手の甲を見つめていた。
「でも、突然、力があふれてきたの」
サラの指先は震えている。
彼女自身も、何が起きたのか分かっていないのだろう。
それでも、アリシアさんは助かった。
少なくとも、今この瞬間は。
◇
その後、慌てて駆けつけたエルランドさんに事情を説明すると、彼は何度もサラに頭を下げた。
「二度も救われるとはな」
エルランドさんの声は震えていた。
「エリシアだけでなく、妻まで……感謝してもしきれない」
「い、いえ。私は、その……」
サラは困った顔をしていた。
感謝されることに慣れていないのだろう。
それでも、エリシアはサラの手を握り、涙を浮かべながら何度も礼を言った。
「ありがとうございます、サラ様。本当に……本当にありがとうございます」
サラは照れたように目を伏せた。
アリシアさんは、今は眠っている。完全に治ったわけではない。
ただ、危険な状態は一度越えたようだった。
俺たちはロビーへ移動し、力尽きたように椅子へ腰を下ろした。
「さ、さすがに疲れたな」
レンが背もたれに身体を預ける。
「私はもう動けない……」
サラは小さく呟いた。
「皆さん、本当にありがとうございました。私のお母様を助けてくださって」
エリシアが深く頭を下げる。
「当然よ!」
レンが親指を立てた。
けれど、師匠だけは腕を組んだまま、険しい顔をしていた。
「それにしても、ただの病気とは思えねぇな」
その言葉で、空気がまた重くなる。俺も同じことを思っていた。
普通の病気なら、あれほどの瘴気が湧くはずがない。
レンの勇者の力に反応して拒絶するような動きも、ただの病では説明できない。
エリシアは静かに顔を伏せた。
「お嬢様。私が説明いたしましょうか」
マリーがそっと声をかける。
だが、エリシアは首を振った。
「いいの、マリー。私が話すわ」
エリシアは膝の上で両手を握りしめた。
「私には、お兄様がいました」
「兄?」
レンが目を丸くする。
「はい。私のお兄様は、とても優秀な人でした。優しくて、強くて、領民からも慕われていて……私にとって、自慢のお兄様でした」
エリシアの声は、少しずつ過去へ沈んでいく。
「幼い頃、私はよくお兄様に遊んでもらいました。お兄様は私の頭を撫でて、『エリシアを守れるくらい立派になる』と言ってくれました」
エリシアは小さく笑った。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「そんなお兄様は、十歳の洗礼で勇者に選ばれました」
俺たちは息を呑んだ。
レンと同じ勇者。
「街中が祝福しました。お父様も、お母様も、私も、誇らしかった。お兄様は王都へ行きました。きっと立派な勇者になる。誰もがそう信じていました」
エリシアの指が震える。
「でも、次に帰ってきたのは……」
言葉が途切れた。
マリーが目を伏せる。
「軽い、軽い壺でした」
ロビーに静寂が落ちた。
それが何を意味するのか、説明されなくても分かった。
「なんで……」
レンの声が震えていた。
昨日、勇者に選ばれたばかりのレンにとって、その話は重すぎた。
「お兄様は、戦死したと言われました」
エリシアは続ける。
「けれど、お兄様は簡単に死ぬような人ではありませんでした。それに、説明にはどこか違和感がありました。お父様は必死に、お兄様がなぜ死んだのかを調べようとしました」
「何か分かったのか?」
俺が聞くと、エリシアは首を振った。
「何も。どれだけ調べても、何も見つかりませんでした」
「それから、家族は少しずつ離れていきました」
エリシアの声は静かだった。
「お父様はお兄様の死の真相を追い続け、お母様は日に日に元気をなくしていきました。食卓から笑い声が消えて、屋敷の中には薬の匂いばかりが残るようになりました」
「そんなある日、お母様が倒れました。腕のいい医者に診せても、原因は不明。薬も効かず、魔術でも完全には治らない。いつしか、お母様は自分が呪われていると思うようになりました」
「そんな……」
サラが小さく声を漏らした。
「だから、私は月灯草を採りに行きました」
エリシアは俯いた。
「少しでも、お母様が楽になるならと思って」
その先に何が起きたか、俺たちは知っている。
何かが繋がっている。
でも、俺にはまだ、その線の先が見えなかった。
◇
翌朝。
いや、朝と呼んでいいのかは分からない。
相変わらず、空に朝日はなかった。
窓の外は暗い。街は夜に沈んだまま。
それでも、時間だけは確かに進んでいた。
領主館の外が騒がしい。俺は跳ね起き、窓へ向かった。
領主館の周りに、大勢の人が集まっていた。
人々は怒っているようにも見えた。
だが、それ以上に怯えていた。
耳を澄ませる。
ざわめきの中から、いくつもの声が聞こえてきた。
「領主様が隠しているらしい」
「魔王の槍だ」
「その槍のせいで、魔物が集まっているんだろ」
「だから朝が来ないんだ」
「領主様は、俺たちに何を隠しているんだ!」
民衆の不安が、怒りへ変わろうとしていた。
「どうなっている……?」
俺は窓の外を見下ろしながら、呟いた。
闇に沈んだキャンウィング領で、影が蠢き始めていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
エリシアの兄はとてもレンに似ています。
独想魔術は昔の方が使える者が多かったのですが、現代は使えるものが少ない分、厄介かつ強力なものばかりです。
特に印象に残った場面や台詞がありましたら、一言だけでも感想をいただけると、とても励みになります。