異世界転生したのに前の転生者にやり尽くされていた件 作:berunarudo
「事実である」
その一言から、最悪な一日が始まった。
領主の娘は魔族である。
もしそんな言葉を、平和な昼下がりに聞かされていたなら、俺は笑い飛ばしていたと思う。
何を馬鹿なことを言っているのかと。エリシアはどう見ても人間だ。
少し世間知らずで、少し夢見がちで、レンを勇者様と呼んで目を輝かせる、ただの女の子だ。
けれど、今は違った。
朝は来ていない。空は黒いまま。街は不安に沈み、民衆は領主館の周囲に集まっている。
昨日まで領主を信じていた人々が、今は領主の名を呪うように叫んでいる。
そこに投げ込まれた言葉は、人々の理性を簡単に溶かした。
魔族。
たった二文字の言葉だ。
けれど、この世界において、その言葉はあまりにも重い。
人類を脅かす敵。神に背くもの。恐怖と嫌悪の象徴。
その血が領主の娘に混ざっていると知らされれば、民衆はもう冷静ではいられない。
騎士でさえ、動揺していた。
守るべき領主家。守るべきお嬢様。
だが、その守るべき相手が魔族かもしれない。
たったそれだけで、忠誠の中に小さな亀裂が生まれる。
その亀裂は、目には見えない。
けれど、一度入ってしまえば、疑念という水がそこに染み込み、やがて大きく広がっていく。
俺は否定してほしかった。
エルランドさんは悪い人ではない。
領民を思い、領地のために金を使い、娘を愛している父親だった。
少なくとも、俺にはそう見えていた。
エリシアだって、どう見ても人間だった。
怯え、笑い、泣き、誰かに助けを求める、普通の女の子だった。
どう考えても嘘だ。悪意ある誰かが流した、最低の噂だ。
そう言ってほしかった。
だが、俺たちの前でエルランドさんが放った言葉は、俺の願いとは真逆だった。
「この記事の内容は、事実である」
ロビーに沈黙が落ちた。
誰もすぐには動けなかった。誰もすぐには声を出せなかった。
俺たちは理解できなかった。
いや、違う。理解はできていた。
ただ、理解したくなかっただけだ。
「ど、どういうことだよ、領主様」
最初に声を出したのはレンだった。
その声はいつものように大きかった。
けれど、わずかに震えていた。
「そうだぜ。そいつはちと、冗談きついぜ」
師匠も笑おうとしていた。
だが、その笑いは途中で消えた。
「我が主。いったい何をおっしゃっているのですか」
ミシェルさんの声は、動揺を隠せなかった。
ロビーの中央に立つエルランドさんは、静かだった。
まるで、ここにいる誰よりも落ち着いているように見えた。
だが、それは落ち着きではない。
何かをすでに決めてしまった人間の顔だった。
「皆に黙っていて悪かった」
エルランドさんはそう言った。
その手には、一本の槍が握られていた。
質素な槍だった。
飾り気はない。禍々しい装飾もない。
魔王の槍と呼ぶには、あまりにも地味だった。
「槍は存在する」
エリシアが息を呑む音がした。
「この槍を使って、わしは娘を魔族にした」
「お、お父様……?」
エリシアは首を振った。
一度ではない。何度も、何度も。
まるで父の言葉を聞かなかったことにしたいように。
まるで目の前にいる父親が、いつもの優しい父親に戻ってくれることを願うように。
「私は、人間です」
その声は細かった。
「私は……お父様の娘です」
「厳密に言えば、人間の遺伝子の中に、魔族の遺伝子が存在する」
「な、何を言って……」
エリシアの足元がふらつく。
マリーさんが慌ててその肩を支えた。
「お嬢様」
「説明しろよ!」
レンが前に出る。
「ちゃんと説明しやがれ!」
レンの声は真っ直ぐロビーに響いた。
怒りの声だった。だが、それだけではない。
信じたいという声でもあった。
レンは、まだエルランドさんを信じようとしていた。
エリシアを助けた時から、領主館に招かれ、親切にされ、この人は良い領主なのだと感じていたからだろう。
俺も同じだった。
だから、次にエルランドさんが口にした言葉が、胸に突き刺さった。
「我が息子の死因は、王国の秘密に触れたことだ」
空気が凍った。
「わしは王国に恨みがある。息子の無念を晴らすために、民衆を魔族に変え、王国へ向ける最強の軍団を作り出す」
「……は?」
「それが、わしの計画だ」
エルランドさんは続ける。
「そのための実験として、わしは娘を利用した」
「ふざけるなよ!」
レンの拳が震えていた。
強く握りしめられた指の隙間から、血が滲みそうなほどだった。
「エリシアの気持ちはどうなる! あんたを信じてた民衆はどうなる! あんたを信じてた家族はどうなるんだよ!」
「すべては王国のせいだ」
「違う!」
レンは叫んだ。
「別の道だってあったはずだろ!」
「ないさ」
エルランドさんは静かに答えた。
「王国は、儂ごときでは勝つことなど不可能な相手だ。この計画も、せいぜい嫌がらせ程度にしかならんだろう」
「だったら、なおさらやる意味なんてないだろ!」
「それでも」
エルランドさんの声が、そこで初めて揺れた。
「それでも、やらなければならなかった」
彼の目は湿っていた。赤く充血していた。
眠れなかったのか、泣いたのか、それとも怒り続けていたのか。
俺には分からない。
ただ、その目だけは嘘をついているように見えなかった。
「息子の無念を、晴らさなければならなかった」
その言葉に、偽りを感じられなかった。
だから余計に分からなかった。
この人は本当に悪なのか。それとも、悪を演じているだけなのか。
だが、もし演技なら、なぜここまで本物の痛みを見せるのか。
答えが出ないまま、レンの手の甲が光った。
勇者の痣。金色の光が、ロビーの暗さを押し返すように輝き始める。
「なら、俺が止めてやるよ」
レンは一歩前に出た。
「あんたが本当に悪いことをしようとしてるなら、俺が止める」
「わしを舐めるな」
エルランドさんの足元で、風が鳴った。
次の瞬間、暴風がロビーに吹き荒れた。
レンの光を飲み込むように、風が膨れ上がる。
領主館の窓が一斉に砕け散った。
ガラス片が空中に舞い、冷たい夜の空気が流れ込んでくる。
「きゃあっ!」
「伏せろ!」
俺は近くにいたサラを庇うように腕を伸ばした。
エルランドさんの身体が、風に持ち上げられる。
彼は割れた窓へ向かい、そのまま外へ飛び出した。
外に集まっていた民衆が、一斉に彼を見上げた。
「出てきやがった!」
「魔族の手下め!」
「悪魔!」
怒号が夜の街に響いた。
エルランドさんは空中で風を操り、民衆へ向けて突風を放った。
人々が吹き飛ばされる。
誰かが転び、誰かが悲鳴を上げ、誰かが怒りをさらに燃やす。
それを見下ろしながら、エルランドさんは名乗った。
「わしの名は、エルランド・キャンウィング」
その声は、風に乗って街全体へ広がった。
「この土地の領主である」
民衆が静まり返る。
怒りが消えたわけではない。
むしろ、怒りはさらに濃くなった。
だが、誰もが次の言葉を待っていた。
「わしを殺せば、悪夢は終わる」
俺は息を止めた。
「逃げも隠れもしない。ウィング駅の時計台の上で待つ」
エルランドさんは、ゆっくりと腕を広げた。
「殺してみろ」
その言葉を残し、彼は風を起こして上空へ飛んでいった。
一瞬の静寂。
そして。
「あいつを殺せ!」
「時計台だ!」
「悪夢を終わらせろ!」
民衆が走り出した。
誰かが持っていた松明が揺れる。
誰かが石を拾う。
誰かがナイフを抜く。
誰かが祈るように、誰かが呪うように、時計台へ向かって駆けていく。
俺たちは、その光景を見つめるしかなかった。
なぜ彼がこんなことをしたのか。
俺には理解できなかった。
ただ、一つだけ分かった。
エルランドさんは、自分を殺させようとしている。
◇
その頃、ウィング駅の時計台の頂上で、エルランド・キャンウィングは風の中に立っていた。
眼下には、自分の街が広がっている。
若い頃、何度も飛び回った街だった。
父から風魔術を教わり、初めて屋根の上へ飛び移った日。
妻と出会い、祭りの夜に時計台から花火を見た日。
息子が生まれ、いつかこの街を継ぐのだと笑った日。
エリシアが小さな手で自分の指を握り、初めて「お父様」と呼んだ日。
そのすべてが、この街にあった。
だが今、その街の民は、自分を殺すために時計台へ向かっている。
それでいい。
エルランドはそう思った。
民衆は悪ではない。彼らは怖いだけだ。
朝が来ない恐怖に耐えられず、理解できる敵を求めているだけだ。
ならば、自分がその敵になればいい。
領主として民を守ることができなかった。
父として娘を完全に守ることもできなかった。
夫として妻を救うこともできなかった。
王国に抗うこともできなかった。
だからせめて、最後に悪になろう。
自分一人を殺せば終わると、民衆に信じ込ませる。
怒りを一か所に集める。混乱を、自分の死で閉じ込める。
それが、エルランドに残された最後の領主としての仕事だった。
「どうだ、影よ」
エルランドは風の向こうへ語りかける。
「貴様らの計画は、これで終わりだ」
時計台の影が揺れた。
黒い染みのようなものが床から浮かび上がり、ゆっくりと人の形を取る。
「ええ」
影は穏やかに答えた。
「まったく、あなたという人を、私は見くびっていましたよ」
エルランドは笑った。
その笑い声は、風に散って街へ流れていく。
「彼らには申し訳ないことをした」
「ええ、本当に」
「だが、ジャン殿であれば理解できるであろう。怒りとは、厄介なものだ。止めようとすれば、さらに燃え上がる。ならば、燃える先を一つに絞るしかない」
「実に見事です」
影は拍手をした。
ぱち、ぱち、ぱち。
乾いた音が、時計台の上に響く。
「影よ。完璧な計画を奪われた気分はどうだ」
「最高の気分ですよ」
影はそう答えた。
「私の計画が、破れないことを証明できたのですから」
エルランドは目を細める。
影が笑っているのか、怒っているのか、分からない。
ただ、その輪郭がわずかに震えているように見えた。
それが何よりも嬉しかった。
「あなたは、我々が狙う槍の譲渡を防ぐために、自身が悪となることで、自死と責任を請け負うつもりなのですね」
「ああ、そうだ」
エルランドは風をまといながら答える。
「ロンギヌスの槍は、この土地の領主しか魔族の遺伝子を取り出すことができない。ならば、わしがすべての責任を取り、悪として滅ぼされれば、貴様らは動くことができない」
「ですが、あなたには娘がいる」
「儂は、もとより槍の呪縛から娘を守るつもりでもあった」
エルランドの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「そのために、娘に魔族の遺伝子を入れた」
「なるほど」
影は、感心したように頷いた。
「賢いあなたが見せた唯一の隙は、最高の罠であったと」
「魔族の遺伝子が定着した娘は、領主としては認められない。ゆえに、貴様らが槍を手に入れる道は永久に失われる」
エルランドは影を睨んだ。
「これで詰みだ」
影は再び拍手した。
「あなたのその頭脳には、本当に驚かされますよ」
「儂ではない。貴様らの計画が完璧だったからこそ、利用できたのだ」
「いいえ」
影の形が蠢いた。
黒い影が騒ぎ、歪み、夜の闇を何度も折り畳むようにして、人の形へと変わっていく。
長い手足。隙のない姿勢。整った顔立ち。黒い執事服。
そして、いつも領主館の玄関で見せていた、穏やかな笑み。
そこに立っていたのは、ミシェルだった。
エルランドは、しばらく何も言わなかった。
驚きがなかったわけではない。怒りがなかったわけでもない。
十年だ。
彼は十年もの間、キャンウィング家に仕えていた。
エリシアが幼い頃から、屋敷にいた。
妻が病に倒れた時も、息子の死に屋敷が沈んだ時も、彼は変わらず執事として傍にいた。
いつも静かに頭を下げ、必要なものを用意し、誰よりも先に仕事を終わらせる男だった。
だからこそ、納得もあった。
あれほど優秀な男が、ただの執事で終わるはずがない。
あれほど隙のない男が、何の目的もなくこの家に仕えるはずがない。
「そうか」
エルランドは、喉の奥から声を絞り出した。
「貴様であったか」
「申し訳ございません、我が主よ」
ミシェルは、いつもと同じように深く頭を下げた。
その仕草は完璧だった。
だからこそ、吐き気がするほど美しかった。
「貴様なら、納得がいく」
「光栄でございます」
「その強さ。その優秀さ。その異常なまでの用意周到さ」
エルランドは槍を握る手に力を込める。
「どれもすべて、ロンギヌスの槍のためだったのだな。十年もの間、貴様はそのためだけに、我が家に仕えていたのか」
「すべては、ノアーク教団のため」
ミシェルは顔を上げた。
そこに罪悪感はなかった。裏切りの痛みもない。
ただ、自分の役目を果たす者の静かな誇りだけがあった。
「貴様もまた、儂と同じか」
エルランドは小さく笑った。
「ひとつの目的のために、人生を狂気へ捧げた者だったとはな」
「否定はいたしません」
ミシェルは穏やかに微笑む。
「ですが、我が主。ひとつだけ訂正を」
「何だ」
「私の作戦は、一つではありません」
その声は、静かだった。
だが、時計台の上を吹き抜ける風よりも冷たかった。
「何重にも縫い合わせているのですよ。たとえ一枚目を破られようと、その下には二枚目がある。二枚目を破られれば、三枚目がある。布というものは、重ねれば重ねるほど刃を通しにくくなる」
「それがどうした」
エルランドはミシェルを睨んだ。
「すでに詰みである。儂が死ねば、槍の譲渡は成立しない。娘は領主として認められない。貴様らがロンギヌスの槍を手に入れる道は、ここで断たれる」
「ええ。実に見事な一手でした」
ミシェルは素直に頷いた。
「あなたは、私の計画を大きく崩した。そこは認めましょう」
「ならば――」
「ですが」
ミシェルの笑みが、わずかに深くなる。
「我々の目的は、ロンギヌスの槍そのものではありません」
エルランドの眉が動いた。
「何?」
「我々の目的は、古代の魔族の遺伝子」
ミシェルは、まるで秘密を明かすように囁いた。
「今の魔族は弱すぎるのですよ。長い年月の中で薄まり、劣化し、かつての力を失っている。ならば、古代に近い状態で保存され、実際に人間へ使用されたものから奪えばいい」
「無駄だ」
エルランドは即座に言った。
「娘の中にある魔族の遺伝子は、勇者の遺伝子によって抑えられている。貴様らがどう足掻こうと、取り出すことはできん」
「ええ」
ミシェルはあっさりと認めた。
「普通なら、そうでしょう」
その手に、一つのカプセルが浮かび上がる。
透明な容器の中で、黒紫色の液体が揺れていた。
液体は生き物のように蠢き、時折、内側から容器を叩くように脈打っている。
「ですが、我々はすでに魔族化を完成させています」
「馬鹿な……」
エルランドの声が震えた。
「あれは不可能な代物だ。魔族の遺伝子をロンギヌスの槍をなしに注入するなど」
「不可能というのは、あくまであなた方の認識でしょう」
ミシェルは優しく言った。
「ただし、これは不完全な代物でしてね。神の力には弾かれてしまうでしょう」
「勇者なら、か」
「ええ。勇者なら」
ミシェルの笑みが、わずかに深くなる。
「まさか……」
エルランドの中に、嫌な予感が走った。
「あなたがおっしゃってくださったのですよ」
ミシェルはカプセルを見つめる。
「娘は勇者であると。だが、その勇者の力は魔族の遺伝子によって抑えられていると」
「やめろ」
「つまり、エリシアお嬢様は、神の力に完全には守られていない。勇者でありながら、勇者として判定されない穴がある」
「やめろ!」
「そこへ、これを流し込めば」
ミシェルは微笑んだ。
「古代の魔族の遺伝子を持つ人間が魔人化すれば、その遺伝子は古代の魔族と何ら変わりはないでしょう」
「貴様あああああ!」
エルランドが風を巻き上げた。
だが、その瞬間。
ぱん、と小さな破裂音が時計台に響いた。
エルランドの足に熱が走る。
遅れて痛みが来た。
膝が崩れた。
「ぐああっ!」
血が流れていた。
足を撃ち抜かれている。
ミシェルの手には、見慣れない小型の魔導銃が握られていた。
「これは時間稼ぎですよ」
ミシェルは穏やかに言う。
「もうじき、愚かな民衆がやってきて、あなたを殺すでしょう」
「待て……娘に、手を出すな……」
「愚かな王よ」
ミシェルは背を向けた。
「後悔を噛みしめて、死んでください」
影が溶ける。
ミシェルの姿が闇に消えていく。
エルランドは手を伸ばした。
届かない。
いつもそうだった。
妻を救おうとした時も。息子の死の真相に気づいた時も。
王国の闇に手を伸ばした時も。エリシアを救おうとした時も。
いつも、一歩遅かった。
後悔ばかりだった。
領主としての後悔。父としての後悔。夫としての後悔。
どれほど手を伸ばしても、もう遅い。
「いたぞ!」
階段の方から声がした。
「やれ!」
「死ね、悪魔!」
「殺せ!」
民衆が時計台の頂上へなだれ込んできた。
エルランドは立ち上がろうとした。
だが、足が動かない。
最初の蹴りが腹に入った。
息が詰まる。
次に石が頬を打った。
視界が揺れる。
誰かが背中を刺した。誰かが腕を踏んだ。
誰かが髪を掴み、誰かが罵声を浴びせた。
守り続けた民衆だった。
税を軽くしようとした民。水路を整えた街の民。
妻と共に祭りを歩いた時、笑顔で頭を下げてくれた民。
エリシアが生まれた日に、祝福してくれた民。
その民が、今、自分を殺している。
恨みはなかった。ただ、悲しかった。
やがて、誰かに押された身体が、時計台の縁を越えた。
空が遠ざかる。街が近づく。
若い頃、何度も風魔術で飛び回った街を、今は落ちていくことしかできなかった。
風はある。魔想もある。
けれど、撃たれた足が、刺された背中が、折れた腕が、すべての制御を奪っていた。
地面が近づく。
そのわずかな時間の中で、エルランドは娘のことを思った。
愛しているぞ、エリシア。
お前の成長を止めたことを謝りたい。人生を奪ったことを謝りたい。
父として、何もかも間違えたことを謝りたい。だが、そうしなければならなかった。
お前だけは、あの槍の呪いから逃がしたかった。
ただ、それだけだった。
衝撃。
音が消えた。
だが、死はすぐには来なかった。
高名な風魔術師であり、貴族として鍛えられた肉体が、皮肉にも彼を生かしてしまった。
全身を襲う痛みは終わらない。
潰れた肺が空気を求め、折れた骨が内側から叫び、流れ出る血が石畳を濡らしていく。
「や、やめてください……」
娘の声が聞こえた。
「お父様は、何か訳が……」
「うるせぇ!」
「お前もこいつに魔族にされたんだ!」
「こいつは悪魔だ!」
「やめて……お願いだから……」
エリシアの声が、遠くなっていく。
エルランドは目を開けようとした。
だが、視界は赤く滲んでいた。
見えない。娘の顔が見えない。
「やめろ、お前ら!」
別の声が聞こえた。
レンだった。
「仮にもお前らの領主だろ! もうやめろ!」
ああ。勇者となる少年よ。
エルランドは、薄れゆく意識の中で思った。
どうか、そなたが我が息子のようにならないことを願う。
真実に触れ、理不尽に殺されるような運命を背負わないことを願う。
そなたの光が、誰かを救うものであることを願う。
「どけ」
低い声がした。
「これで終わりだ」
ぱん。ぱん。
乾いた音が二度、夜の街に響いた。
エルランド・キャンウィングの心臓は止まった。
だが。
夜は、明けなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
エルランド・キャンウィングには頭脳があった。しかし、それだけでは大いなる存在には到底かなわない。協力ができればよかった。しかし、彼は不器用な人間だった。自分の中で完結し行動してしまう。だから彼はすべてを守り切れなかった。
特に印象に残った場面や台詞がありましたら、一言だけでも感想をいただけると、とても励みになります。