異世界転生したのに前の転生者にやり尽くされていた件 作:berunarudo
ジャン様とルークス様が、領主館を出ていきました。
扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえました。
まるで、屋敷の中に残された私たちと、外へ向かった二人との間に、見えない壁ができたようでした。
「……いっちまった」
レン様が、扉の方を見つめたまま呟きました。
「大丈夫ですよ、レン君」
ガードナー様が、レン様の頭にぽんと手を置きました。
「ジャン殿がいれば、必ずや成功させます」
「……そう、そうだよな」
レン様は無理に笑いました。
けれど、その目はまだ扉の向こうを追っていました。
ガードナー様は私たち一人一人を見渡すと、静かに頭を下げました。
「私もそろそろ向かうとします。皆様、ご武運を」
そう言って、ガードナー様も領主館を出ていきました。
また一つ、扉が閉まる音がしました。
その音のあと、領主館には静寂が生まれました。
お父様がいない屋敷。
ルークス様も、ジャン様も、ガードナー様もいない屋敷。
残されたのは、私と、レン様と、サラ様と、マリーと、ミシェル。
そして、まだ混乱の中にいる使用人たちと騎士たち。
誰かが何かを言わなければならない。
誰かが次の行動を決めなければならない。
分かっていました。
けれど、その「誰か」が自分であるとは、どうしても思えませんでした。
その時、ミシェルが一歩前に出ました。
「それでは皆様、私たちも動きましょう」
その声は、いつも通り落ち着いていました。
屋敷が崩れそうなほどの出来事が起きても、ミシェルだけは変わりません。
お父様が亡くなった今でも、彼は背筋を伸ばし、静かに状況を見ていました。
昔からそうでした。
ミシェルは、いつも必要な時に必要な場所にいる人でした。
誰かが迷えば道を示し、誰かが泣けば静かに寄り添い、誰かが倒れそうになれば支える。
だから、この場で彼が前に立ったことに、私は少しだけ安心してしまいました。
ミシェルがいるなら、まだ大丈夫かもしれない。
そう思ってしまったのです。
「おう。でも、まずは何するんだ?」
レン様が聞きます。
「はい。混乱している民衆を落ち着かせ、駅へ誘導します」
「駅?」
「列車を使い、可能な限り民衆をこの街の外へ逃がすのです。魔物が街へ流れ込む可能性がある以上、ここに留めておく方が危険です」
「なるほど。任せろ!」
レン様はすぐに頷きました。
まっすぐで、迷いがありません。
その時、ミシェルが私を見ました。
「エリシアお嬢様」
「……はい」
「お父様亡き今、あなた様がこの街を導かねばなりません」
胸が、ぎゅっと締めつけられました。
導く。
その言葉は、あまりにも重すぎました。
お父様が背負っていたもの。お兄様が、いつか背負うはずだったもの。
私には関係ないと思っていたもの。
それが今、突然、私の前に置かれている。
「私が……?」
「はい」
ミシェルは静かに頷きました。
「お父様のような判断はできなくとも、あなた様には民を安心させる義務があります」
義務。
その言葉が、胸に刺さりました。
私は魔族なのかもしれないのに。
「私には、お父様のようには……」
「エリシア」
名前を呼ばれて振り向くと、レン様が拳を突き出していました。
まっすぐな拳でした。迷いのない、温かい拳。
「俺はお前を信じる」
レン様は言いました。
「だから、お前も俺たちを信じろ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなりました。
ああ、やっぱり、あなた様はお兄様のようです。
絶対に大丈夫だと、根拠もなく信じさせてくれる。
誰かが怯えている時、真正面から手を伸ばしてくれる。
物語の勇者様みたいに、まっすぐに光っている。
私は震える手を持ち上げました。
そして、レン様の拳に、自分の拳をそっと合わせました。
「……皆様、よろしくお願いします」
「おう!」
レン様が笑う。
サラ様も小さく頷いてくれました。
マリーは私の背中に手を添えてくれました。
ミシェルは、いつもの穏やかな笑みで頭を下げました。
私は、まだ立てる。
そう思いました。思ってしまいました。
◇
私たちは、民衆を街の外へ逃がすために広場へ向かいました。
領主館を出た瞬間、冷たい空気が頬を撫でました。
街は静かでした。
広場には、多くの民衆が集まっていました。
泣いている人。空を見上げている人。小さな子供を抱きしめている人。
エルランドという悪を殺したはずなのに、夜が明けないことに怯えている人。
その視線が、私に向きました。胸がすくみました。
それでも、私は一歩前に出ました。
「皆様」
声が震えました。喉が乾きます。
足が逃げ出したいと訴えています。
それでも、レン様の拳の温かさを思い出しました。
「どうか、お聞きになってください」
民衆の中に、さざ波のようなざわめきが広がりました。
そこには、怒りがありました。
恐怖。疑い。罪悪感がありました。
最初に返ってきたのは、沈黙でした。
広場に集まった人々は、誰も声を出しませんでした。
ただ、私を見ていました。その視線が痛い。
私は息を吸いました。
逃げてはいけない。ここで黙ってはいけない。
お父様が死んでも夜は明けませんでした。
なら、今は誰かがこの人たちを導かなければならない。
私にできるかどうかではありません。やらなければならないのです。
「現在、この街には魔物が迫っている可能性があります」
自分でも驚くほど、声は小さく震えていました。
それでも、言葉を止めませんでした。
「このまま街に留まれば、皆様に危険が及びます。ですので、駅へ向かってください。列車で、できる限り街の外へ避難していただきます」
ざわめきが広がりました。
けれど、それは安心の声ではありませんでした。
「駅だと……?」
「今さら逃げろっていうのか」
「領主を殺したのに、まだ終わらないのかよ」
「じゃあ、本当の原因は何なんだ」
言葉が、少しずつ鋭くなっていく。
私は指先を握りしめました。
「落ち着いてください。今は、皆様の命を守ることが最優先です」
「命を守る?」
誰かが笑いました。乾いた笑いでした。
「お前の父親は、俺たちを魔族にしようとしていたんだろ」
胸が跳ねました。
「ち、違います。それは――」
「何が違うんだよ!」
男の声が広場に響きました。
「お前の父親は自分で言ったじゃないか! 槍を使ったって! 娘を魔族にしたって!」
「そうだ!」
「領主は悪魔だった!」
「じゃあ、その娘は何なんだ!」
その言葉が、広場に落ちた瞬間、空気が変わりました。
私は、呼吸の仕方を忘れました。
「私は……」
人間です。
そう言おうとしました。
けれど、声が出ませんでした。
お父様の言葉が耳の奥で蘇ります。
――厳密に言えば、人間の遺伝子の中に、魔族の遺伝子が存在する。
私は人間です。本当に?
私の中に魔族の血があるのに?
お伽話では、魔族は勇者様に倒される悪でした。
人を苦しめ、街を焼き、神に背くもの。
そんなものが、私の中にある。
なら、私は何なのでしょうか。
「エリシアは悪くない!」
レン様の声が、私の前に立ちました。
いつの間にか、レン様は私を庇うように前へ出ていました。
「悪いのは、この状況を作ったやつだ! エリシアじゃない!」
「勇者様……」
誰かが呟きました。
その声には、少しだけ期待が混じっていました。
レン様の手の甲に、淡い光が宿っています。
それを見た民衆の何人かが、祈るような目でレン様を見つめました。
けれど、その光は同時に、私との距離をはっきりと示していました。
レン様は勇者様。私は、魔族かもしれない娘。
隣に立っているはずなのに、まるで別の物語にいるようでした。
「みんな、聞いてくれ!」
レン様が叫びます。
「今は責め合ってる場合じゃない! 魔物が来るかもしれないんだ! だから駅に向かってくれ! 俺も、サラも、みんなを守る!」
「勇者様がそう言うなら……」
「でも、領主の娘は?」
「魔族なんだろ」
「勇者様のそばに置いていていいのか」
ざわめきは収まりませんでした。
レン様がどれほど真っ直ぐに叫んでも、民衆の不安は消えませんでした。
むしろ、レン様の光が強いほど、その隣にいる私の影が濃くなっていくようでした。
サラ様が前に出ました。
「皆さん、どうか落ち着いてください。怪我人や子供を優先して駅へ向かいましょう。列を作ってください」
サラ様の声は柔らかく、けれど不思議と人を落ち着かせる力がありました。
何人かの母親が、子供を抱えて動き出しました。老人が騎士に支えられ、駅の方へ向かいます。
少しずつ、少しずつ、広場の人々が流れ始めました。
私は、それを見て胸を撫で下ろしました。
よかった。
まだ、大丈夫。まだ、みんなを救える。
そう思った時でした。
「本当に大丈夫なのか?」
若い男の声がしました。
「列車に乗せて、俺たちをどこかへ連れて行くつもりじゃないのか?」
その言葉に、また人々の足が止まります。
「領主は俺たちを魔族にしようとしてたんだろ」
「じゃあ、駅に集めるのも罠じゃないのか」
「逃がすふりをして、まとめて何かする気じゃ……」
「違います!」
私は思わず声を上げていました。
広場の視線が、再び私へ集まります。
「違います。そんなことはしません。私は、皆様を助けたいだけです」
「助けたい?」
男が私を睨みました。
「なら、なんで領主は俺たちを騙したんだ」
「それは……」
「なんで俺たちは朝を奪われた」
「……」
「なんでお前の父親は死んでも夜が明けない」
「……分かりません」
そう答えるしかありませんでした。
分からない。私は何も分からない。
お父様のことも。槍のことも。私の体のことも。この夜のことも。
何も分からないまま、領主の娘として立たされている。
「分からないだと?」
男の顔が怒りに歪みました。
「ふざけるなよ」
次の瞬間、何かが飛んできました。
石でした。
避けることもできませんでした。
額に鈍い痛みが走ります。
視界が揺れ、熱いものがこめかみを伝いました。
「エリシア!」
レン様が叫びます。
マリーが私を支えました。
「お嬢様!」
血が、指先につきました。
赤い。
人間と同じ色。
それなのに、どうして誰も信じてくれないのでしょう。
「お前がいるからだ!」
誰かが叫びました。
「お前がいるから夜が明けないんだ!」
「魔族の娘!」
「領主の血だ!」
「悪魔!」
言葉が降ってきます。石よりも痛い言葉でした。
私は何も言えませんでした。
助けたいと言ったのに。信じてほしいと思ったのに。
お父様の死は無駄ではなかったと思いたかったのに。
民衆は、私を見ていませんでした。
私という人間を見ていませんでした。
「やめろ!」
レン様が怒鳴りました。
その声と同時に、手の甲の痣が強く輝きます。
民衆が息を呑みました。
「エリシアは悪くないって言ってるだろ!」
レン様は本気で怒ってくれていました。
そのことが、嬉しかった。
嬉しかったのに、胸の奥が苦しくなりました。
レン様は勇者様です。だから、私を庇ってくれる。
でも、勇者様が庇う相手が魔族だったら?
その時、勇者様はどうなるのでしょうか。
お兄様は、勇者に選ばれて帰ってこなくなりました。
レン様も、私のせいで何かを失ってしまうのでしょうか。
「……すみません」
私は小さく呟きました。
「エリシア?」
「少しだけ、休ませてください」
これ以上、ここに立っていられませんでした。
マリーに支えられながら、私は広場の端へ下がりました。
レン様はまだ民衆に向かって叫んでいました。
サラ様は子供や老人を駅へ誘導していました。
ミシェルはいつものように落ち着いた顔で、騎士たちへ指示を出していました。
みんな動いている。
みんな、何かを守ろうとしている。
なのに私は、何もできませんでした。
ただ傷ついて、庇われて、逃げるだけ。
私は、領主の娘なのに。
私は、お兄様の妹なのに。
私は、レン様に信じてもらったのに。
それでも。
民衆の声が、耳から離れません。
――魔族の娘。
――お前がいるから夜が明けない。
――悪魔。
私がいるせいでしょうか。
私がいなければ、お父様は死ななかったのでしょうか。
私がいなければ、民衆は苦しまなかったのでしょうか。
私がいなければ、レン様はこんなふうに怒らなくて済んだのでしょうか。
私がいなければ。
私がいなければ。
私がいなければ。
その言葉だけが、胸の中で何度も繰り返されていました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この状況はすべて感情の増幅が働いているのは前提です。しかし、彼女にとって最大の痛みは存在の消失。彼女は今、自分が人間なのか、魔族なのか、そもそも何なのかが処理しきれていないです。
特に印象に残った場面や台詞がありましたら、一言だけでも感想をいただけると、とても励みになります。